人びとのなかの冷戦世界: 想像が現実となるとき
A historical study that demonstrates how the imaginations and actions of ordinary people helped shape the reality of the Cold War. It rebuilds the image of the Cold War from the ground up, rather than centering it only on superpower rivalry.
Work Information
It rereads the Cold War through the imaginations of ordinary people.
A research book published by Iwanami Shoten and the winner of the 21st Osaragi Jiro Tribune Prize. Crossing China, the United States, Japan, Taiwan, and the Philippines, it rereads the Cold War as a history created not only by superpower rivalry but by the imagination and actions of ordinary people.
Review Summaries
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It is valued for redefining the Cold War not just as a contest among superpowers, but as a reality produced by ordinary people's fears and imaginations.
Book Information
- Publisher
- 岩波書店
- Published
- 2021-04-20
- Pages
- 434 pages
- Language
- 日本語
- Size
- 14.8 x 2.8 x 21 cm
- ISBN-13
- 9784000245432
- ISBN-10
- 4000245430
- Price
- 5500 JPY
- Category
- 本/社会・政治/政治/国際政治情勢
冷戦とは何だったのか。大国同士の駆け引きや政治リーダーを主人公とする従来の物語とは一線を画し、無数の名もなき人びとの日常的な想像と行為の連鎖と、現実政治との影響関係から冷戦初期の歴史を描く。恐怖、不安、敵意、憎悪、願望……現実は人びとにどう想像され、それは増幅拡散してどのように新しい現実を生み出していったのか。
益田 肇(ますだ はじむ) 大阪生まれ。立命館大学国際関係学部卒。新聞社勤務を経て渡米。日本語教師として高校勤務ののち、ノースウェスト・カレッジで準学士号、ラトガーズ大学で学士号、コーネル大学大学院にて博士号取得。現在、シンガポール国立大学歴史学部准教授。専門は、東アジア近現代史、アメリカ外交史、グローバルな視野を持つ社会史。 主要著作:“The Early Cold War: Studies of Cold War America in the Twenty-First Century,” Christopher R. W. Dietrich ed., A Com-panion to U. S. Foreign Relations: Colonial Era to the Present, Vol. II(Wiley-Blackwell, 2020);「京都大学同学会――戦後史における原爆展のもう一つの意味」テッサ・モーリス-スズキ編『ひとびとの精神史2 朝鮮の戦争1950 年代』(岩波書店,2015 年)
Reviews
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冷戦史への新しい問い、方法、そして歴史
本書は「第二次世界大戦を生き延びた一般市民にとって、冷戦とは一体何だったのか?」という問いを本格的に追求した初めての書籍でしょう。著者は、世界中の50以上のアーカイブや図書館からのこれまで未利用の史料を分析し、語りの中に組み込むことにより、この問いに答えようとしています。その結果描き出される初期冷戦期の物語は、これまで私たちが聞いたことのないものです。
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で、一年後、もう一度読みました。2回目の読書でも、素晴らしい!
素晴らしい著作でした!私は、当該学問分野には全くの素人ですが、そんな私でもグイグイ読ませる本で、かつ大変分かり易い(いや、本当に理解しているのかは、不明。少なくとも、専門家よりは理解は浅いのでしょうけど)。確かに、「その本を読む前と後で、目の前の風景が違って見える本」というか、「風景」までは変わらないにしろ、少なくとも私が持つ冷戦や米国・中国に対する印象は変わりました。もう一点、興味深いことは、著者の益田氏は理学系である生態学に強い興味をお持ちです。さまざまな学問分野の情報や手法を駆使して書かれた本書は、学際融合、異分野融合、分野横断的な研究の必要性が叫ばれる昨今、まさにこれらを具現化しており、しかも国際的に極めて高い評価を得ています。「国際的」と言いますのは、本書は益田氏の著作「Cold War Crucible: The Korean Conflict and the Postwar World」(ハーバード大学出版)をベースにしているからです。この元本が国際的に高い評価を受けているのですが、今般、日本語で出版された本では、「著者による解題」として、これまでに彼が発表してきた内容(元本だけでなく、海外での多くの講演など)について受けた質問に回答している章があります。これがまた、興味深い!この章のおかげで、本書についての理解がより深まります。いや、大変素晴らしい本に巡り会えました。ありがたいことです。1年後とか、確実にもう一回読むでしょう。恐らく、何回も読むと思います。 で、一年後ですが、、、、本当にもう一回読みました。一年経過し2回目に読んでも、新鮮な驚き・発見・理解が生まれます。本書は、著者の益田氏が10年以上を費やして上梓した、まさに珠玉の著作です。前回、私が本書を読んだ際は、ロシアによるウクライナ侵攻の直前だったのですが、今回はロシア・ウクライナ戦争の真っ最中で本書を読みました。その過程で、1950年の朝鮮戦争勃発当時の世界情勢は、まさに現在のロシア・ウクライナ戦争中の世界情勢と良く似ていることが分かりました。ひょっとすると、当該戦争に対して今後の我々・世界はどう対応するかについてのヒントを得るためには、本書は何らかの教示を与えるものかもしれません。本書は、何度読んでも、大変勉強になります。来年も、読むのだろうな、、、、、。
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「冷戦」を口実に、ローカルな現実問題を解決していたのが世の中で起こっていたことだった
冷戦が現実の戦争と根本的に異なっている点は、冷戦は特定の時間や場所には存在しておらず、いわば、ひとの頭にある概念、想像上の「現実」であった。それ故に、米国、中国、日本、台湾でも、「冷戦」を口実に 現実に存在する国内問題を解決していたという指摘がとても印象的で独創的であった。
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「現実≠虚構」対「現実=虚構」
毎日出版文化賞受賞作ということで読んでみました。非常に丁寧な労作で好感が持てました。ただ帯にある「画期的研究」という言葉には 「?」 を付けましょう。ここは類書がないという意味で「比類のない」が適当。「画期」と言えば、以後この手の研究がすべて本書を参照枠とする、みたいな語感があって、それは勇み足かなと。画期かどうかは次作を見ないとわからんでしょう。
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米中の人々における、ボトムアップの冷戦認識と異端者の追放
本書は、朝鮮戦争期において、アメリカおよび中国の人々の中でどのように「冷戦」という認識が作られ、そして両国内で起きた異端者の追放(アメリカの赤狩り、中国の粛清)がトップダウンというよりボトムアップで起きていったことを論じている本である。 タイトルや表紙(上半分は日本のものだ)からは冷戦期全体、世界全体を扱っているかのように見えるかもしれないが、本書の大半はアメリカと中国の二国のみを扱っていて、そして時期は朝鮮戦争までという「冷戦がまさに形作られるとき」のみを扱っている点は注意が必要である。 「反共」という認識の枠組は確かに40年代からアメリカに強く存在していたし、共産主義への敵対心もあったが、それはより漠然とした面も強かった。本書では「草の根保守」と呼ばれているが、政治的な意味での保守ではなく、日々の生活や社会秩序をかき乱す存在を嫌うという意味での「保守的」な立場であり、「非アメリカ的」なものを排除していこうという動きである(これは朝鮮戦争期も継続する)。朝鮮戦争において、なぜ38度線を越えて反撃したのか、という問いが本書で取り上げられているが、こうした国内世論事情が本書では重視されている。 しかしこうした「反共」機運は、例えば選挙における共和党の勝利と、それを見た民主党の対共産圏強硬策への傾倒などへとつながっていく。また、元々保守的ながらそれを抑制していたマッカーサーは、本国での反共機運の高まりを見て、GHQにおいても元々の保守性を発揮するような政策を打ち出していく。 本書で中心的に取り上げられる動きとして「異端者の排除」がある。具体的には、アメリカの赤狩りで黒人や女性運動、その他社会運動家などが排除されたこと(こうした動きは日本、イギリス、フィリピン、台湾などでも見られる)、また中国では反革命運動において多数の人々が処刑されたこと、がそれにあたる。 従来は、こうした(共産主義者ではない)赤狩りの被害者は「冤罪」と言われていたが、筆者は「反共」というのは名前だけで、むしろこうした「暗黙の規則を破り社会秩序を乱すような人々を排除し、安定した秩序を回復すること」ことが反共や赤狩りの本当の目的として人々が考えていたことだと論じている。 中国の反革命運動についても同様の位置づけが行われている。掲げられたスローガンに、アメリカとの対抗よりも慣習や規則の遵守、秩序維持の方が上位に掲げられていることなどからもそうした姿勢は見て取れる。 こうした異端者排除は、朝鮮戦争を期とする「第三次世界大戦がはじまる」という恐怖心にトリガーされている面が大きいという(実際、マッカーシーの提案は当初相手にもされなかった)。こうした恐怖が生じたか否かには、第二次大戦の戦争経験をしているか否かが大きいと指摘されている(直接的な戦争経験をしなかったカナダやインドなどは、こうした感覚が弱かった)。そして第三次世界大戦が認識されたからこそ、冷たい戦争、「冷戦」という認識に至るわけである。 従来トップダウンで論じられてきた冷戦について、トップダウンではなくボトムアップで形成されてきた冷戦認識やそれが及ぼした作用(中国でさえ、共産党は当初は参戦には及び腰で、民衆の不満に押される面がわりとあった)が論じられている好著である。 「冷戦」として銘打たれて始まったわけでもない冷戦がいかにそのように認識されていったのか(あるいは認識されていなかったか)、ということが、単純ではない人々の動きの中から見えてくる。 実態が割り切れる話ではないので歯切れの悪い部分も多いが、本書は一つの重要な示唆を与えてくれる本であろう。 意義深い本であるがゆえに、もっと知りたいこと、気になるけど論じてくれていないことも多数ある。 筆者も最後に述べているが、本書は米中でほとんどなので「参戦・支援してもよかったけれどもしなかった国の人」はあまり出ていない。特にソ連はキーとなる国だと思うが全く触れられておらず、余力があればソ連の人々がどう認識していたかは是非知りたかった。あと、戦場の当人である韓国や北朝鮮(戦争を始めた当の国だ)についても記述がもう少しあるとよかったように思う。 あと、アメリカでは赤狩りで(村八分にはあっても)死刑に至ることはほとんどなかったのに対し、中国では大量の人が殺されており、この差異がなぜ生じたのか、は重要な問題と思った。筆者は共通性の方に関心があるようだが、共通性を見ることで見える差異もあるので、そこも論じてくれてもよかったと思う。 また、疑問の残る部分として、筆者は「中国参戦を考えずに38度線を越えたこと」は傲慢や思い過ごしのように論じているが、本書の中国の部分で論じられているように、中国内部でも「参戦すべきでない」という意見はかなり強く、「中国参戦の可能性は低い」という当時の分析は必ずしも外れていないのではないかと思う(中国が参戦したという結果を知っての後出し議論になっている印象がある)。 いろいろと論じてほしいことや疑問はあれど、それは本書がいろいろな提起をしてくれているからであって、本書の価値を減じるものではないであろう。 冷戦を考えるうえで、新しい光を当ててくれる一冊。
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巨視的な視点と微視的な視点の融合~そこから見えてくる新たな構造
この著作、私は非常に興味深く読んだし、歴史というものを考える上での新しい視点を教示してくれる、実に学びの多い研究書だった。一般的に広く「東西冷戦」として捉えられる第二次世界大戦後の世界構造を考える上で、世界の大国の中枢を担う主要な政治家たちの言動や政策だけにフォーカスするのではなく、むしろ一般社会の普通の人々が当時どのように考え行動し、むしろそうした「下からの動き」が「冷戦構造」という「想像」を現実のものへと変容させ、その名の下にいかにその社会での「異質な者の排除」に向かっていったか~そうした動きが特定の国家や地域に限られたものではなく、1950年以降の世界でかなり普遍的な現象として立ち現れたことを、詳細な資料に基づいて克明に描き出している。著者が特に注目しているのが朝鮮戦争の勃発とその後の世界各国~具体的には米国・英国・日本・中国・台湾・フィリピンでの社会的混乱と、旧来の秩序を乱す者と見做された者たちの迫害・排除の共通性。それは米国ではマッカーシズムと呼ばれ、英国では1945年以降の労働党政権への強烈な揺り戻しとして現れ、日本ではレッドパージとして、中国では建国以来の「反革命分子粛清」として、台湾では「白色テロ」として、フィリピンでは「脱植民地からの再植民地的反動」として表徴される動き。ここで著者は「社会戦争」という言い方で、第二次大戦後その社会の混乱や各階層の対立に「保守層からの秩序維持のベクトル」がいかに大きく作用していたかを「草の根保守」として様々に論証しているが、それは決して「上意下達」的な社会変化ではなかった~むしろ「冷戦」という枠組みを援用することで、西側社会は「共産主義的」という名で異質な者たちを排除していき、東側社会(中国)では逆に「反共主義」というレッテルで多くの者を粛清していく様。 当時、朝鮮戦争勃発がかなり広範かつ真剣に「第三次世界大戦に繋がる」と捉えられ、北朝鮮人民軍による韓国(朝鮮半島南半部)侵攻が「ソ連の指揮・意向によるもの」と考えられていたか。実際の朝鮮戦争は、あくまで金日成政権が企図していたもので、当時のスターリン・ソ連は武器弾薬の提供や南侵承認など物心両面での支援はしていたものの、南侵を主導していたわけではない。しかし、朝鮮戦争という武力侵攻が世界に与えたインパクトは、今の我々が想像する以上に絶大なものだったようである。 この著作を読みながら感じたのは、この歴史学者の研究アプローチの意義である。巻末に付された著者プロフィールによると、立命館大学卒業後に新聞社勤務~その後渡米して日本語教師などを経て研究者生活に入っているという、なかなかユニークな経歴。私はこの長大な論考を読みながら、隅々にジャーナリストの視点~それは新聞社政治部や国際部記者の視点ではなく「社会部記者の視点」~を感じたし、また、ここで著者が世界の歴史を巨視的な視点と微視的・局地的視点の融合によって包括的に捉えようとする姿勢には、フェルナン・ブローデルらアナール学派からI・ウォーラーステインに繋がる「世界史の見方・考え方」の継承発展形をも感じた。歴史社会学的にも、今後の後続研究に拡がりを持たせる非常に有意義な視点と研究成果なのではないかと、一素人ながら考えるのである。 そして巻末の参照資料によると、著者による長年にわたる世界各国の公文書館などでの膨大な一次資料調査がそれを可能にしたのだろうが、そうした研究が、多くの機関からの研究助成費などによって支えられてきたであろうことを考えると、彼がもし渡米せずに日本に留まっていたならば、こうした大きな枠組みで物事を考える研究はそもそも不可能だったのではないか~自然科学も人文社会科学も、研究者を目指すものはもう日本にいてはダメなんじゃないのかな?そういう風にも感じた。 最後に、何よりも大切なのが著者が終章で述べているように「私たち自身もこの現代という坩堝のなかで現実の在り方を日々選択し、時には修正し、或いは承認することでその継続を支えている日常レベルにおける、いわば権力者」だということ。まさに我々一人一人が「歴史の主体者」だということ。改めて肝に銘じたいことである。そして、今後の研究にも注目したい非常に有能な研究者がまた一人現れたことを、私はとても喜ばしく思うのである。
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歴史の見方が変わります
加藤陽子氏が毎日新聞の書評で取り上げていた。その書き出しが素晴らしい。 「その本を読む前と後で、目の前の風景が違って見える本に何冊出会えるかで人生は変わってくる。今回取り上げる本は私にとってまさにそのような一冊だった」 加藤氏の「それでも日本人は『戦争』を選んだ」に感心した私は、読まないわけにはいかない。 読後、歴史に対する見方が確実に変わった。 本書が詳述する「社会装置としての冷戦」は、これまでにないアプローチから歴史を眺めることにより、歴史がまったく新たな相貌をもって読者の前に現れてくる。斬新であり新鮮な驚きを覚えた。政権やメディアが煽る中国の脅威や韓国への嫌悪感。それは政権の国内統治、人心掌握のための有効な手段であることを改めて感じた。 若き碩学の登場に拍手を送りたい。 読みながら頭に浮かんだ本がある。ベンヤミンの「歴史の概念について」(未来社)だ。本書と通底するものを感じた。 蛇足だが、新聞3紙の書評でもっとも参考になるのは毎日。もっともレベルの低いのは読売だと思う。
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朝鮮戦争当時の世俗の理解が進んだ
冷戦時の米中他各国で、各国民が実際にどのように感じて行動していたのか、具体的な事例が非常に多く紹介されており、とても理解しやすかった。ボトムアップで理解が進む。当時の世俗を理解する上でも、非常に面白かった。テレビで断片的にしか知らない当時の事象の背景もよく理解できた。