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ヘヴン

Murasaki Shikibu Literary Award

ヘヴン

Mieko Kawakami

A novel centered on the bond between a bullied boy and Kojima, a girl who is also isolated. It presses hard on questions of meaning, violence, and the grounds of what is called right. Their search for refuge gradually wavers, leaving readers with unresolved questions about suffering and ethics.

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Work Information

A novel that faces the pain of bullying directly and asks what it means to live.

The fourteen-year-old narrator is relentlessly bullied at school. What sustains him is his correspondence and conversations with Kojima, a girl who is also set apart from those around her. Sharing pain, they nevertheless begin to diverge in what they believe that pain means. With sharp prose, the novel depicts the danger of obeying violence, resisting it, and trying to find meaning in suffering.

Review Summaries

  • Readers respond strongly to the weight of the subject and to the depth with which the novel refuses to divide harm and victimhood too simply. It can be painful to read, but that pain remains central to the work’s force.

Book Information

Publisher
講談社
Published
2009-09-02
Pages
248 pages
Language
日本語
ISBN-13
9784062157728
ISBN-10
4062157721
Price
2005 JPY
Category
本/文学・評論

衝撃的感動!芥川賞受賞後初の傑作長篇。 「苛められ暴力を受け、なぜ僕はそれに従うことしかできないのか」頬を濡らすあてのない涙。14歳の苛めを正面から描き、生の意味を問う、哀しくも美しい物語。

Reviews

  • 興味深い本

    外国人からのおすすめで読んでみました英訳でも海外のAmazonでこの本の人気を知り購入 複雑なキャラクター達の心理が興味深く一気読みしてしまうくらい続きが気になる本でした。 人生観変わるかも

  • 読む前に注意

    本屋大賞2010 第6位 Audibleで期間限定聴き放題だったので聴いてみた。 壮絶ないじめの表現がかなり多く出てくるのでトラウマある方は要注意。 主人公のいじめの受け止め、コジマのいじめに求める意味。百瀬のあらゆることへの冷たい視線。どれもそうかもしれないと思う。それはきっと自分の中にいつかあった心なんだろう。自覚の問題だけど、いじめることもいじめられることも自分の中にあったのだ。 読書というのは本を読むだけでいいんだということを最近読んだのだけど、自分はこの本を言語化するのが難しい。うまく言えないけれど、自分の中には確かにうねりが起きた。 最後、とてもさみしい感じがした。ある意味よかったことなのに、寂寥感が半端ない。

  • コジマには1mmも共感できない

    若干のネタバレを含みます。 十代の瑞々しい感性とイジメ描写に関してはリアリティを感じたし、百瀬との会話はそれなりに感じるものがあった。 しかし終始この小説で一貫したイジメに対する向き合い方という面(あえて全部受け入れる?)では1mmも共感できなかった。 何より反論したいことは「彼ら(虐めてる側)はいずれ自分たちのしたことに対して気づくときがくる」というところ。 いやいや、そんなことはないから。虐める側は一生気づかないことがままある。その証拠に職場での陰湿な虐めはいくらでもある。学校にいる数年間我慢すればいいというものではないのだ。 それをコジマの論理で受け入れていたらいずれ自分が壊れる。 コジマがあえて汚い格好をしてるのは「しるし」だというところも共感できない。近くにいて臭いを感じるまで汚くしてるというのは、誰もコジマに近づかないだけの十分な理由になる。 美術館で泣くシーンなど私からしたら、危ないメンヘラ女だし、斜視の手術を告白するシーンはめんどくせー女だなという感想しかなかった。 主人公がすべきことは、ラストでそうしたように学校に行くのをやめる(不登校上等)、イジメっ子に立ち向かう(凶器を使うのもあり)、親に言う(相手の親も含めて関係者を巻き込む)、警察に駆け込む(人間サッカーは暴行傷害罪)などだ。まあそういう方向に行ったら、この小説はまったく別の色彩を帯びることにはなるが。。 ただ実際問題として、なめられないようにすることは今後社会で虐められる側にならないためにも身につけるべき処方箋だ。 著者の筆力は認めるが、モヤモヤが残ったし、コジマには特に共感できないということにつきる。 皆の感想をざっと見たがこのようなコメントが見当たらなかったので、あえて書かせてもらいました。

  • カタルシスとは無縁の駄作であり良作

    昨今の、伏線を回収して最後にカタルシスを得るような小説ではありません。 はっきり言うとすっきりしない。イライラが募る。 メンタル不調の時は読まない方が良い。 それでも、文学としては目に見えない情景を自分なりに消化させると言う点で、素晴らしい作品だと思いました。

  • 種蒔き

    読書とは種蒔き、読んでる時は理解出来ない事があっても時間が経ちその本の理解出来なかった所がフと思い出してその事を考えたり。 そうこうしていく中でその種から芽がでて成長して(あー、、、もしかしたらこういう事なのかもしれない、、、)と思ったりの繰り返しだったり。 彼女の作る世界はその種が沢山あってどれも私の中で面白い花を咲かせてくれてる。

  • 読後の感情が難しい

    文体に特徴があるので読みづらい人はとことんまで読みづらいだろうと思います。いじめの描写が長く続き鬱々とした展開が続きますが、結末はかなり美しく印象に残りました。

  • 身近にある残酷な世界を感じた

    個人的に、コジマが言う「自分たちに理解できないものがあることがこわいのよ」と、百瀬が言う「君が置かれている状況っていうのは、そういうたまたまが一致した単なるけっかなんだと思うよ」というセリフがいじめのきっかけをとてもよく言い表していると感じた。 また、主人公と話す百瀬のセリフからいじめる側の世界観を伺うことができた。動物的で倫理観がない世界。他人の立場になって考える想像力がないと人間は平気で残酷なことができてしまう。恐ろしく悲しいこと。 コジマがいじめに対処しないことを"受け入れること"として正当化してしまっているがために、イジメの世界から抜け出せずに環境を変えられないのではないかと思い、終始もどかしい気持ちがふつふつしていた。ただ、自分がいざ同じような状況に開かれた場合、何かアクションを取れるだろうかと想像するとわからない。

  • 設定がリアリティーに欠けている

    まず、題名の「ヘヴン」だが、これを読むとき、日本人のほとんどは「ヘブン」と発音するだろう。1992年に国語審議会によって容認された”ヴ”だが、なにせ日本語にはない音だ。例えば、地名の「バンクーバー」は、原語が”Vancouver”なのだから、「ヴァンクーヴァー」と表記すべきだが、そんな表記は見たことがない。それなのに、作中ではコジマが「ヘヴン」と発音できている。変だよねえ? さて、そんな細かい話よりも、読んでいてもっとも違和感を抱いたのは、僕を苛める二ノ宮が勉強ができて塾に通っているという設定。普通、こんなくだらない苛めをするのは、成績が悪くて塾など通っていない、ただ腕っ節だけが強いだけでオツムの弱い奴が典型的ないじめっ子なのでは? 勿論、そんなステレオタイプのいじめっ子を描いたところで、優れた文学作品にならないと思うが……。 また、人間サッカーによって大怪我をした主人公が、町の総合病院で診察を受ける場面に登場する医者が、口癖なのか「まあ」と初診の際に6回、再診の際には10回、合計16回も言うのは、元理学療法士の私には、そんなあいまいな表現を使う医者はいないと、興ざめしてしまい、いくら小説でもリアリティーのない医者を登場させるものだと呆れてしまった。 作中、仲間として登場するコジマなる女子だが、何故、カタカナ表記の”コジマ”なのだろうか? 小島とか小嶋とか、あるいは児嶋などと漢字で書くよりは、カタカナで”コジマ”と書くと、記号のようで、それは血の通った人間を想像しにくい。もしかしたら、作者はそのような効果を狙って、わざとカタカナ表記にしているのだろうか? それに、中学生といっても、親しくなれば名字ではなく、下の名前で呼ばないだろうか? そちらも、わざと下の名前で呼ばないことによって、二人の微妙な距離感を表現しようとしているのかも。 さて、唯一共感を覚えたのが、主人公の目の問題。私も実は目が悪く、白内障の手術と、緑内障の手術を経験している。目が不自由であることは、手や足が不自由であることよりも、周囲からの理解が得られにくい。高校時代には、仲の良かった友人が、私のメガネを勝手に掛けて、「こうすると、秀才に見えるか?」などと、戯けて訊いてきたが、非常に不愉快な思いになった。こちらは、好き好んでメガネをかけている訳ではないのだ。目がいい人は、目が悪い人の気持ちなど、これっぽっちも解りはしない。 平易な文章で、非常に深いテーマを扱った名作だとは思うが、会話文が多いのにはガッカリした。小説なので、もう少し描写を多くして欲しかった。

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