人外
Ningai is a fantastical novel in which a four-legged, ambiguous being travels through a ruined world. Through a figure that is neither god nor beast, images of memory, prophecy, death, and ruins overlap.
Work Information
A wandering soul crosses landscapes of ruin and hallucination at the edge of the world.
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Review Summaries
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Readers often remember the dense prose and allegorical world-building. Some find its abstraction rewarding, while others experience it as demanding.
Book Information
- Publisher
- 講談社
- Published
- 2019-03-07
- Pages
- 274 pages
- Language
- 日本語
- Size
- 14 x 2.3 x 19.5 cm
- ISBN-13
- 9784065147245
- ISBN-10
- 4065147247
- Price
- 1300 JPY
- Category
- 本/文学・評論/文芸作品
神か、けだものか。アラカシの枝の股から滲みだし、四足獣のかたちをとった「それ」は、予知と記憶のあいだで引き裂かれながら、荒廃した世界の風景を横切ってゆく。死体を満載した列車、空虚な哄笑があふれるカジノ、書き割りのような街、ひとけのない病院、廃墟化した遊園地。ゆくてに待ち受けるのは、いったい何か?世界のへりをめぐるよるべない魂の旅を描く傑作小説。
作家・詩人・仏文学者・批評家。東京大学名誉教授。1954年東京都生れ。東京大学大学院仏語仏文学専攻修士課程修了。パリ第III大学にて博士号(文学)を、東京大学にて博士号(学術)を取得。詩集に『冬の本』(高見順賞)『吃水都市』(萩原朔太郎賞)『afterward』(鮎川信夫賞)、小説に『花腐し』(芥川龍之介賞)『半島』(読売文学賞)『名誉と恍惚』(谷崎潤一郎賞、Bunkamuraドゥマゴ文学賞)『そこでゆっくりと死んでいきたい気持をそそる場所』『川の光』、エセー・評論に『折口信夫論』(三島由紀夫賞)『エッフェル塔試論』(吉田秀和賞)『知の庭園 一九世紀パリの空間装置』(芸術選奨文部科学大臣賞)など多数。2012年東大大学院教授を辞職、執筆に専念する。
Reviews
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崩壊の途上、あるいは、わたしたちは、すでに、半分、ひとでなし、である。
本の表紙はゴットフリート・ヘルンヴァインの「The Murmur of the Innocents 3」 地上のものではない、聖なるもののみが放つ美しさ。(それはほんとうは見てはいけないものなのかもしれない) 私はその表紙を見ただけで、わななくように本を手に取り、それを開く。 紙はみずから発光しているのではないかと見まちがえるほど、まばゆく白く、 そして、目次を見るのだが、そこには断片的な言葉がいくつもつらなるように浮遊し、そのつらなりを 見ただけで、血が騒ぎ、血が逆巻き、血が沸騰するのである。 この本が物質で作られていることは十分に承知しているのだが、まるで、発光する白の光の直方体に 文字が散りばめられている非物質のように思えるのである。 (1)すでに、戦いは、終わっている、あるいは、そこに広がる黙示録的風景 未来と過去と現在が入り混じったような、時代も国も判然としない、時間が停止したかのような黙示録的風景が、 そこに広がっている。 すでに、戦いは、終わっている。 人の敗北として。 世界の敗北として。 それに気が付いていないのか、気が付いていないふりをしているのか、それとも、知らないそぶりをしているだけ なのか。 (2)崩壊の途上、あるいは、わたしたちは、すでに、半分、ひとでなし、である。 生誕が始まりであると、同時に、その瞬間は崩壊へ向かう旅路の始まりでもある。 生あるものは、すべて、崩壊の途上にある。 すでに、わたしたちは、半分、死んでいる。 すでに、わたしたちは、半分、滅亡している。 すでに、世界は、半分、崩壊している。 そんな世界を移動するものは、もはや人ではないのだろう。 その世界を移動するに相応しいものは、人外のほかにはいない。 「人外」と書いて、「にんがい」と読む。あるいは、「ひとでなし」 世界の内でもなく外でもない縁を歩く人外。 半分、壊れた、崩壊の途上にあるこの世界を歩くことができるのは、人ではなく、人外しかいない。 (3)神と人と獣の間で、そして、崩壊の途上を語る言葉 神と人と獣の間で、歩き、走り、転げ回っているわたしたち。 神の言葉と人の言葉と獣の沈黙の間で、右往左往しているわたしたち。 崩壊の途上のこの世界では、神の言葉も人の言葉も獣の沈黙も、その半分は、その意味を失っている。 そうであるならば、そこに必然として、人外は生まれるべくして、生まれてきたと言えよう。 言葉を持って、人の外の言葉を持って、世界の外の言葉を持って。 崩壊の途上を語ることができるのは、人外の言葉以外にはないのであろう。 (4)イノセンス、あるいは、人の子としてではなく、母の子としてでもなく 「The Murmur of the Innocents」(イノセンスのつぶやき) このゴットフリート・ヘルンヴァインの作品名が、その作品そのものが、透かし絵のように、この小説「人外」の 中身と、ぴったりと、重なり合うのだ。(私は、この本の表紙を彩ることができるのは、「白い子どもたち」の ヘルンヴァイン以外に、思いつくことができない。) イノセンス、それは、「罪なきもの」なのか、それとも「無垢なるもの」なのか 人は、人の子として生まれ、人の言葉を持ち、自然に反逆し、四足で地面を這うことを止め、二本の足で立ち上がり、残りの二つの足を手に変え、その手で都市を作り、世界を作った。 そして、神を模倣するかのように、人は、人の外に出て、世界の外に出る。 人の全部を、世界の全部を、手の中に入れるために。 それが悪とわかっていても。 それが罪とわかっていても。 その罰として業火に焼き尽くされようとしても。 人は神を模倣する。 その意味において、人は罪を背負うことから逃れることはできない。 人は、人の子であるがゆえに、母の子であるがゆえに、イノセンスであることはできない。 では、人外が、人の子として生まれ落ちたのではなかったとしたら。 アラカシから生まれ、獣のごとく毛を全身に纏い四足で地面を這い、滴る血糊で口を汚し、その悦楽に陶酔しな がら屍体を貪り喰い、一切の人の感情とも郷愁とも惜念とも憧憬とも無縁な人外。 だが、しかし、人外は、人の子として生まれたものでなく、母の子として生まれたものでもない。 それゆえ、獣のごとく振る舞っても、 ひとでなし、とも、怪物、とも、呼ばれようとしても、 人外は、人の善悪の外にある。 そして、人外は神を模倣しようとはしない。(だろう) そうであるならば、その意味において、人外は、イノセンスである。(だろう) 世界が、人が、その背負いたる罪によって、崩れ落ちようとしても、焼き尽くされようとしても、 その廃墟と火の荒野を人外は何処までも歩き続ける。(ことだろう) (5)始まりと終わりの章を含めて12の章、あるいは、長い長い旅、それとも、一瞬の瞬きの旅 この小説は「発端」から始まり、「終末」で終わる。あるいは、「川を下る」から「川をさかのぼる」で終わる。 その始まりと終わりの章を含めて12の章から物語は形成されている。 「発端」において、人外の生誕が描かれ、「終末」において、人外の行く末が描かれる。そして、その生誕と行く末 の間で、人外を語り手として、人外のこの世界での彷徨とも呼べる旅路が語られる。また、その彷徨は、「かつてわ たしたちのひとり」だった「かれ」を追跡する、探索の旅路でもある。その旅路は必ずしも、波瀾万丈の冒険譚と呼 べる胸躍るようなものではないのだが(中には、むしろ、逆に暗澹たる思いをする人もいるのかもしれない)、 意外性と唐突さを孕み、螺旋のように、「近づきつつ、離れ」、読む者を、迷宮の中に誘う。 その文体は、ゆるゆるとゆらぎゆらめき渦を巻く水の流れの曲線のように、うねるのである。 半分、死んでいる、半分、生きている、機械仕掛けのからくり人形のような人々。独り言のような、自問自答の ような空虚な会話。廃墟のような世界。人外はそんな世界を移動し、くまなく、その情景をその瞳に映し出す。 アラカシからシロツメクサへ、あるいは、瞳に映った最初の映像と最後の映像 人外の瞳に映った最初の映像は定かではないのだが、「瞳をこらして」見た最初のものは、「うす暗い空からひそ ひそと降りそそぐ雨粒」であった。そして、最後の映像はシロツメクサの「蝶形花があつまってふんわりした球状 をなしている花」であった。 無数の残骸(のような世界)を見つめてきたその瞳に、最初と最後の瞳の映像として、直線の軌跡を描く雨粒と 球状の花が映し出される。その光景の美しさは、この小説の中で最も素晴らしい場面のひとつだ。 そして、その旅路の中で、人外がかつて人であった時の人の記憶の残滓が、生々しい鋭い痛みのように、 稲妻の断片のような映像として、挿入される。それは、人の記憶の原形のように、誰のものでもないようで、 同時に、誰のものでもあるような、そんな鮮烈な記憶だ。 女の記憶、男の記憶、美術館の絵の記憶、病院の記憶、横断歩道を示す路面の白いペンキの記憶、空港の到着 ゲートの記憶、恋人の唇の記憶、影絵あそびの記憶、真夏の記憶、帰り道の記憶、子供の記憶、雨の記憶、 戦争の記憶、死の記憶、生き物の記憶、風景の記憶、色の記憶、水の記憶、火の記憶、蝶の記憶、発熱の記憶、 天井の木目の記憶。 また、この小説全編に、つねに奏でられている音楽の色彩の色調は「色のない世界の果ての波打ち際のさびしさ」 である。つねに耳の奥深くで、世界の破片の砂粒の波打ち際で寄せては返す波の小さな音が、かすかに聞こえて来る。 そして、この旅についやした時間は、厖大なようでもあり、しかし、一瞬の瞬きの間のことのようにも思えるのだ。 (6)生誕、アラカシからずるりと滲みだし、逡巡と疾走、あるいは、どんぐりの木の血から 小説の冒頭は、アラカシからずるりと不定形のものが地面に流れ落ち、それが言葉を持つ四足獣に至る過程が精緻 に描かれる。その生誕の過程の物質から生命への、生命から言葉への大きな、とても、大きな飛躍が、また、生命の 時間の「溢れ出る時間」の秘密が、語られ、そして、そのゆらゆらとした行きつ戻りつの流れが、川の流れの淀みと 奔流のごとく、逡巡と疾走を交錯させ、駆け抜けるのである。そのスリリングな成り行きと方向感覚が、この小説の 全体を貫く旋律を教えてくれる。 アラカシ(粗樫)はブナ科のいわゆる「どんぐりの木」だ。一年中、緑の葉を鬱蒼として茂らせ、その枝は幹から 秩序なく伸び、その樹皮は粗く、割れ目が多く、虫たちの住処ともなる。春に花が垂れ下がるように咲き、黄緑の 小さな実をつけ、秋にその実はどんぐりとして地面に落ちる。それは冬を超え、春になると芽を出し、そこから、 新しいアラカシが生まれる。 人外は、そんな「アラカシの巨木の大枝が幹と分かれる股のあたり」で、ずるりと滲み出るようにして生まれた。 木の枝を、草の茎を、切り落とす。すると、その断面に生そのものが現れる。そこから、じわりと、生が滲み出る。 それは、叫び声こそ出さないが、滴り落ちる動物の血と、何ら変わりない。 人外は、いわば「どんぐりの木の血」から生まれた、毛に覆われた四足獣である。 (7)世界の外と内の境界線のさびしさ、あるいは、色のない世界の果ての波打ち際 「かなしいわけではない。たださびしい」(「2 橋のたもと」の章より引用) 崩壊してゆく世界の果ての岸辺。(そこには色というものがない) 人外は、そんな場所で、一人で佇む。(立ちすくむ) 世界の外と内の境界線に、有と無の境界線に、こちら側は、有、あちら側は、無、そんな境界線に佇む。 その波打ち際に佇み、ずるずると引き寄せられるように無の側に呑み込まれてゆく、粉々に砕け散った有の ありさまを眺める。そこに、一陣の風が吹き、壊れた世界の破片が、砂粒のように舞い上がる。 目を閉じて、注意深く、耳を澄ます。すると、さらさらと砂粒が擦れ流れ落ちる音が聞こえる。 その場所は、宇宙の遥か遠いところに、あるのではない。それはドアを開けると、そこにある。 あるいは、振り向くと、そこにある。それは、いま、私の前にある。 孤独とは違う、その「さびしさ」こそが、人外のこころもようの中心にあるものだ。 (人外に、こころなるものが、あれば、のことだが。) (8)推論として、私の映画の記憶が確かなものであると仮定したならば、あるいは、時間軸が捻じれ、 私の映画の記憶が確かなものであると仮定するならば、推論として、「平面」の町の通りのむかいにある映画館で 上映されているのは、ケーリー・グラント主演、アルフレッド・ヒッチコック監督の「北北西に進路を取れ」(1959年、アメリカ制作)ではないだろうか。大きな看板に「低空で迫る飛行機から逃げる男」が描かれてい ることしか、この小説の中では明らかにはなっていないのだが。 上映される映画の大きな看板を掲げる映画館、「北北西に進路を取れ」の上映、図書館が消え、ダンテもシェイ クスピアも源氏物語も平面に封じ込められた世界、ここでも、時間軸は捻じれ、過去と未来と現在が入り混じり、 螺旋を描いている。 (9)川的なるもの、及び、川べり的なるもの、無条件の愛と、その恩寵。 「空気にゆきわたった致命的な毒」に侵され腐敗臭の漂う都市とは異なり、「川的なるもの、及び、川べり的なる もの」は、唯一、その生の光を発散させている。川下の方では、その毒がひたひたと忍び込み始めているのだが、 川上の、川の源流あたりでは、まだ、その毒の気配はない。 なぜか、理由はわからないが、「川的なるもの、及び、川べり的なるもの」のみが、崩壊に対して抗い生き残っ ているのである。 この小説「人外」には、「川的なるもの、及び、川べり的なるもの」への無条件とも言える深い愛と信頼がある。 そして、それに応えるかのように、「川的なるもの、及び、川べり的なるもの」は、その恩寵を惜しげもなく与え てくれる。 それは、ひとつの奇蹟と呼んでいいのではないだろうか。 川、水が流れ、つねに、その流れがやむことがない流れ、そして、その川べりに生い茂る数えきれない草木。 アラカシ、ガマ、ヒメガマ、ミクリ、ナツツバキ、アキノキリンソウ、ライラック、クロッカス、イヌフグリ、 トウシンソウ、(タンブルウィード)、サンショウ、ヘチマ、ススキ、ツルウメモドキ、シロツメクサ、イバラ その草木の名前を、ひとつ、ひとつ、声に出して、読み上げ、数え上げるのも、この小説を読む大きな悦びの ひとつだ。(植物図鑑を開き、それらの草木の季節の移り変わりの姿を見るのも、この上なく、楽しいことだ。) (どこか地面の近くで、「川の光を求めて」という小さな声が聞こえて来たような気がしたのは、私の思い違い だろうか) (10)旅の終わり、小説の終わり、その最後の最後の話、あるいは、「その日がおとずれたときまたふたたび」 そして、この旅路の詳細な行程がどのようなものであったのか、その結末がどのようなものであったのか、人外は、 はたして、「かれ」を見つけ出すことは出来たのか、さらに、人外の旅の後、世界がどのようになったのか、そう したことを知ることは、この本を読み終えた者に与えられる大きな悦びである。 同時に、この旅路に終わりがあること、この物語に終わりがあること、この小説が有限のものであることは、止む 得ないこととは、わかっているのであるが、この本を読み終えてしまうことは、それは、それで読む者にとっては 悲しいことなのである。 当然のことではあるのだが、小説には必ず終わりがある。しかし、幾つかの小説には、そのことを読む者が受け 入れ難いこととするものがある。私にとって、この小説「人外」は、そうした小説の中のひとつなのである。 つまり、「終わりのない小説」、「はてしない物語」であって欲しいのである。 「それは、しかし、別の物語だ」と、作者には言って欲しい物語なのである。 「その日がおとずれたときまたふたたび」、物語が始まる。
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Is this a cat ?
猫物語? 猫=人外=我輩は猫である? そう考えると、とてもキュートで笑える話? 「川の光」みたいに、ネズミへの愛? 作者は小動物好き? fantasy? 猫への思い入れが強く.猫と同化した? しかし、「花腐し」「幽」等のアル中で鬱病の自殺寸前のオヤジの絶望的な内面世界とは対象的でfantasyでメルヘンな「川の光」「人外」・・・・一つの個体の中に、この分裂と乖離が存在する事が謎だ!
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切れ目ない美文
切れ目なく続くような長い文章が美しくどこまでも心地よくページが少なくなるとめくるのをためらった。生と死を人ならざるものから教わった。
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死者の魂が一つずつ集合的無意識に加わる、その具現化が人外である
瞠目すべき文章力。しかし評価に悩む。内容はレビュータイトルの通りであり、コミックやラノベで扱いつくされたアイデアだ 改めて純文学で書く意味はなにか。確かに切れ目なく続くなだらかな表現は見事で、純文学でしかできないことをやったとはいえる。ただ、アイデアを超える何かがあったとはいえるのか 哲学めいた文章がそこかしこにちりばめてあるが、どれも陳腐で今更の感がある。読書の中心が小説ではない人間には、どこかで誰かが言ったことの繰り返しに過ぎない フィクションでのみ許される形而上学というものがあり、例えば「死霊」とかボルヘスの短編とかある種のSFがそうだが、それを読むとき私たちは現実との齟齬をあまり問わない。創作として楽しむ。本作はそういう逸脱を嫌ったのか(ストーリーが非現実なのだから形而上学のほうだけ現実味にこだわるのは変なのだが)、独特の思考が展開されるということがなく、どれも凡庸だ ここまで書くあいだ評価を迷っていたが、星二つでよいかな。娯楽小説の後追いは情けないと思う
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格調高杉なちょい形而上小説
「花腐し」で芥川賞をとって以来、やや哲学的な純文学作品をコンスタントに発表してきた作家なり。新聞の書評に取り上げられていたので気になって読んだ。 文章がこなれている。具体的描写も的確。無意識の識、阿頼耶識と自我の相剋により、人類と世界を描く試み。 今、我々には世界を論ずる余裕がない。完成度の高い物語だなとは思いながら、読んでて何度かうとうとした。