風濤 (新潮文庫)
Futo is Yasushi Inoue's historical novel about the Mongol invasions as seen from the side of Goryeo and the Yuan. It depicts how Kublai Khan's ambition turns Goryeo into a military base and how its people are driven by the will of a great power.
Work Information
The waves of the Mongol invasions also strike the exhausted people of Goryeo across the sea.
The Shincho Bunko edition is confirmed in print and digital formats. By telling the invasion of Japan from the side of Goryeo, which was forced to prepare it, the novel gives dimensional form to chains of harm and victimhood in war.
Review Summaries
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Its distinctive feature is viewing the Mongol invasions not only from Japan but through Goryeo's tragic fate. Amid broad historical movement, the suffering of people used by states remains vivid.
Book Information
- Publisher
- 新潮社
- Published
- 1967-03-20
- Pages
- 352 pages
- Language
- 日本語
- Size
- 14.8 x 10.5 x 2 cm
- ISBN-13
- 9784101063171
- ISBN-10
- 4101063176
- Price
- 737 JPY
- Category
- 本/文学・評論
史上空前の怪物フビライは標的を日本に定めた。悠久の時空に人々の宿運を刻む名作。 『天平の甍』『楼蘭』『敦煌』『蒼き狼』に続く、井上靖の「西域小説」。 日本征服の野望を持つ元の世祖フビライは、隣国の高麗に多数の兵と船と食料の調達を命じた。高麗を完全に自己の版図におさめ、その犠牲において日本を侵攻するというのがフビライの考えであった。高麗は全土が元の兵站基地と化し、国民は疲弊の極に達する……。 大国・元の苛斂誅求に苦しむ弱小国・高麗の悲惨な運命を辿り、〈元寇〉を高麗・元の側の歴史に即して描く。用語、史実等の詳細な注釈を付す。 本文より 元麗二国の軍二万五千が、高麗人の手によって造られた兵船九百艘に分乗して合浦(がっぽ)を発したのは十月三日であった。合浦の港は深く入り込んだ入江に依ってできており、海岸に迫っている幾つかの丘陵の上から見ると、それは細長い湖のように見えた。その細長い湖のような水域を九百艘の兵船が埋めたのは三日の午刻近い時刻であった。兵船はそこに浮かんだまま暮方まで漂っていたが、暮方近くなってから少しずつその数を減らして行くかに見えた。併しまた夜の闇が海面を閉じ込め始めた頃はもとの数に復していた。 その夜、かなり強い風が吹いた。(「第一部 六章」) 本書「解説」より 『風濤』の読者は、不気味な微笑をたたえたフビライのまるい、大きな面貌の奥底になにを見るだろうか。外でもない、そこには彼の父祖の血である朔北(さくほく)はもとより、シナ四百余州を軸にした東アジア全体の空間がかぎりなくひろやかに透けてみえるはずだ。しかも、その空間は歴史の時間から屹立して、いまや永遠の相を帯びようとしている。そのとき、あたかも幻覚のように、このひろやかな空間の外側に、はげしく打寄せる波に洗われる断崖をつらねた、ささやかな列島のイメージが、忽焉(こつえん)としてぼくの視界をよぎるのである。 ――篠田一士(文芸評論家) 井上靖 (1907-1991) 旭川市生れ。京都大学文学部哲学科卒業後、毎日新聞社に入社。戦後になって多くの小説を手掛け、1949(昭和24)年「闘牛」で芥川賞を受賞。1951年に退社して以降は、次々と名作を産み出す。「天平の甍」での芸術選奨(1957年)、「おろしや国酔夢譚」での日本文学大賞(1969年)、「孔子」での野間文芸賞(1989年)など受賞作多数。1976年文化勲章を受章した。
Reviews
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昔投げ出した本が、今面白く読めました
面白かったところ ①正常性バイアスがかかって「フビライは言うほど酷い人じゃないかも」と思いがちな高麗王 ②フビライから派遣された監督官のうち、蒙古人に対しては評価が甘くなりがち。一方、高麗人でありながら蒙古側に寝返った者に対しては絶対許せないと思う激しい憎悪。 ③その裏切り者、洪茶丘のヴィランぶり。(この人はこの人で高麗に対して恨みを持っている。) ④高麗政府が、それでもなんとか国民の負担を減らそうともがき続けるところ。(大国と小国の関係から米国とわが国を想起させられるけれど、この点わが国政府はどうなんだろうとか) 大昔、実家の本棚にあったのを読み始めて直ぐに途中で投げ出していました。歳を経て、韓国ドラマや中国ドラマを観て地理や独特の言葉を多少覚え、頭の中に映像が浮かぶようになってから読んでみたらめちゃくちゃ面白かったです。
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「小説として」は面白くないが、歴史ファンは読んで損はない。
※以下、小説の内容自体のネタバレは避けていますが、元寇の史実については多く記載しているためご注意ください。 後述するように、朝鮮半島の歴史について考える上では本書はこの上ない教科書であった。しかし、「小説」としてははっきり言ってあまり面白くない。登場人物の内面に入り込んだ描写が少なく、文体も堅苦しいので読みにくい(モンゴル人名の漢字表記に、たいてい初出時しかカナがないのも登場人物を覚えにくく没入の妨げである)。実際の史書からの書き下し文による引用が多用されることと相まって、全体として「小説を読んでいる」というよりも「史書を読んでいる」感覚である。もちろん、これらがすべて題材に合わせた著者の計算によるものであることは言わずもがなである(「史書を読んでいる」感覚ということは、「書かれていることが歴史的事実である」という感覚を与えるということだ)が、小説としての面白さを削いでいることは間違いない。近代小説の技法をあえて外しているのはわかるのだが、やはり「小説として」はいまいちだと思う。よって、単なる小説として評価するならば、★2か3というところである。 しかし、元寇を朝鮮半島側から見るという題材自体の面白さから、歴史好きにとっては非常に面白い。その点を踏まえて★4とした。以下詳述。 元寇といえば日本史上の一大事件である。なぜ二度にわたる世界帝国の侵略を防ぎ得たのかについては、昔から日本人の関心事であり、かつては神風だとか、最近では元軍は南宋や高麗の兵が主体で士気が低かったからだといった説明がなされる。しかし、その「士気が低い」の内実について、南宋や高麗といった「モンゴルに侵略されて徴兵された側」の視点で考えてみたことはなかった。この小説は、元寇期の高麗王国が舞台である。 高麗王国の立場からこの時代をみると、そもそも文永の役(1274年)から遡ること40年、1231年からモンゴル帝国による高麗侵攻が開始された。そして、高麗政府が1259年に降伏するまでの長きにわたり、朝鮮半島は徹底的に蹂躙・略奪されたのである。そして、降伏によりようやく復興に向かえるかと思いきや、さしたる間もなく今度は日本への東征軍のための造船、補給、兵の供出を命じられるのである。文永の役で日本に襲来した高麗兵士たちは、「士気が低い」どころではない、半世紀にわたり徹底的に蹂躙され、酷使されつくした国からさらに搾り取られた若者たちだったのである。士気が高いはずもない。そして、弘安の役の大敗によりフビライが日本侵略を諦めたかと思いきや、10年も開かずに弘安の役(1281年)で再び高麗の民は重い賦役を課され、若者たちは再び徴兵されたのである。 こうして高麗側から元寇を見ると、彼我の歴史体験の差に愕然とせざるを得ない。日本にとっては元寇はまさに一瞬の出来事(しかも後の神国思想からも明らかなように、むしろプラスのイメージで語られる出来事)であったが、高麗国とその人民にとっては半世紀にわたる異民族による搾取の頂点だったのである。ちょうど一人の人間の一生と同じ期間、かの国は蹂躙され続けたのである。この時代に生きた高麗人民にとって、この世はまさに理不尽の連続であり、希望を見出すのは難しかっただろう。そして、「異民族に蹂躙される」という体験は、朝鮮半島にとってはこの一回限りではない。モンゴル以前には(モンゴルほど苛烈ではなかったようだが)同じく遊牧民国家である金や遼に侵攻されているし、古くは古代の高句麗も朝鮮半島南部から見れば異民族である。そして、モンゴルと同時期には(これは国家間の戦争ではないが)前期倭寇の活動が始まっているし、モンゴルが去って200年ほどすると豊臣秀吉による朝鮮出兵(韓国側の呼称は「倭乱」)でまたも壊滅的な打撃を受ける。朝鮮半島の歴史は異民族との争いの歴史であったと言ってもよいくらいである。 それに対して日本はというと、モンゴルによる高麗侵攻に匹敵する事件は第二次世界大戦以外には存在しない(しかも、米軍による攻撃はともかく、占領の方は仮にも近代国家によるものであるからモンゴルによる高麗の蹂躙とは比較にならない)。そもそも、「モンゴルによる高麗侵攻に匹敵する」と但し書きを入れるまでもなく、外国勢力により本土がまともに攻撃された経験自体が第二次世界大戦まで存在しない。朝鮮半島の歴史と比べれば、元寇「程度」の事件が大げさに言い伝えられる日本の歴史は、実に平和的なものである。 中華帝国や北方遊牧民帝国と国境を接する朝鮮半島の歴史は、これらの大国の動静に直接的に影響を受ける歴史であった。従って、その政治哲学・思想はこの歴史体験を材料として構築されているはずである。現代の韓国・北朝鮮の政治指導者にとっても、外国勢力による侵略の可能性は、日本人が考えるよりも遥かに切実な恐怖として映るはずである。近くに強国が生まれれば侵略されるということは、まさに「歴史が証明している」のだから(もちろん、その最新事例は大日本帝国である)。韓国や北朝鮮との外交を考える上では、このような彼我の歴史体験の格差をよくよく頭に入れておく必要があると思う。 もちろん、こういったことは普通の歴史書を読んでじっくり考えてもわかることではあるが、やはり小説という形式のほうが、「登場人物の立場にたって見る」という点で優れている。「高麗国はモンゴルに半世紀以上にわたり搾取された」と言われても、それだけではなかなか想像がつかない。この点でとても良い本だと思う。 ところで余談にはなるが、「なぜ日本が元寇を防ぎ得たか」について、個人的には神風などなくとも元寇は失敗したと思う。そもそもモンゴルは、本作でも描かれている通り、江華島という、陸地と指呼の間にある小島に引きこもった高麗政府を降伏させるのにさえ30年以上かかったのであり、それも江華島を攻め落としたわけではなく、半島本土を徹底的に蹂躙するという間接的な戦術により降伏させたのである。モンゴルが最強だったのは陸戦においてであり、海戦については全くの素人であったことはこの一事からも知れる。またそもそも、「神風」が吹きやすい(日本海が荒れる)秋から冬にかけて日本侵攻を行ったということ自体、いかにモンゴルが海を知らなかったのかということを表している。 大陸側の史書によれば二度の元寇軍はそれぞれ3万人、50万人(相当の潤色があると思われる)程とある。実数はいずれも数万人程度と思われるが、継続的な補給がなければその程度の人数で日本を征服することは不可能だったろう。そして、モンゴル側には継続的な補給が必要との発想はなかったようである。実際、二度とも、対馬や壱岐に上陸しながらもこれらの島を補給の中継基地とする発想はなく、略奪するだけ略奪して九州本土へ移動している。この調子では、仮に「神風」が吹かず、九州本土に拠点を確保できたとしても、遅かれ早かれ元軍は消耗し敗北したであろう。
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特記なし
特記なし
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中々探しても無い本です。
このシリーズは中々探しても無いので、注文して良かったと思います。読んでいきたい本です。
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元寇、高麗側からの記述
歴史で習う元寇を高麗側から記述、神風神話でない元寇の真の姿がわかる。朝鮮半島の大陸との厳しい地理的、政治的、経済的関係が垣間見える。そのジオポリティクスは現在の中韓関係を理解するにも資する。モンゴルとの仕事をしているので、モンゴル人の性格を理解する上でも役に立ちます。 ただ、原文の書き下しのところを読むのは骨が折れますし、名前が聞き慣れず、読んでいくのに苦労します。
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不思議な読後感でした
もうかれこれ40年以上前に読んだ本です。読み出したとき、なんというか資料集を読んでいるような気になった記憶が残っている。なにせ淡々と進む。男と女とか出てこない(一応人間として出てはきますが・・・)。それでいやにならない。結構没頭して読んでしまった。不思議な本でした。僕はこの本から井上靖ワールドに入り込んでいきました。井上靖の本の中でも異色ですね。なんともいえない不思議な感動を覚える本です。
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ユーラシアの東端の一小王国の哀しさ
元の日本侵攻の前史とも言うべき話。 日本征服作戦のために元の皇帝フビライは属国、高麗にむごいほどまでに兵船、兵卒、糧米などを搾り取り、高麗は爪に灯をともして指先までもが燃えるほどにまでそれに応えざるを得なかった。 本作にはフビライと高麗王との書簡のやりとりが頻出するが、その内容が漢文の日本語読み下し文で書かれているので、漢文の訓読に慣れてないと読みにくいかもしれない。
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朝鮮の歴史の一ページとしての興味
1.朝鮮半島の歴史と現在の韓国の政治状況の関連性を見たかった。 2.中国の歴史の中での異民族政治の意味合いが理解できた。