Japanese Literary Awards

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ひよこ太陽

Izumi Kyoka Literary Award

ひよこ太陽

Shinya Tanaka

Hiyoko Taiyo is a linked story collection centered on a writer-narrator who cannot write, as delusion, suicidal ideation, and a request to find a missing person begin to entwine. Shinya Tanaka depicts a precarious everyday life poised between fact and fiction with his characteristic tenacity.

I-novelwriterly stagnationdelusionsuicidal ideationborder between fact and fiction

Work Information

A writer's unblinking gaze at his own inability to write tilts everyday life toward delusion and the temptation of death.

Published by Shinchosha, Hiyoko Taiyo collects the linked stories Rain, Fainting and Memory, Sunday, Balloon, Hiyoko Taiyo, Dream of Revolution, and Marunouchi North Exit Gate. The narrator, a writer who has left his provincial family home for Tokyo, tries to write while living frugally, but the time spent unable to write only accumulates. When his mother asks him to search for a missing person, the boundary between reality and delusion begins to blur. As a winner of the Izumi Kyoka Literary Award, the book brings together fantasy and the Japanese I-novel tradition in Tanaka's distinctive style.

Review Summaries

  • The book is valued for the unsettling intensity with which it watches a writer's inability to write. Even as it deals with delusion and absence, it sustains the tension of self-reflexive fiction.

Book Information

Publisher
新潮社
Published
2019-05-29
Pages
153 pages
Language
日本語
Size
13.6 x 1.8 x 19.8 cm
ISBN-13
9784103041351
ISBN-10
4103041358
Price
1705 JPY
Category
本/文学・評論

道理で女が出てゆくわけだ――。妄想に取り憑かれた作家の姿を描く新しい私小説。今日も死ななかった。あの帽子を見たために、今日も死なずにすんだ――。一緒に住んでいた女に出ていかれ、切り詰めた生活でひたすら小説を書く40代の男。書けない日々が続き、いつしか死への誘惑に取り憑かれた男に、ある日人探しの依頼が届くが……。虚実のあわいで佇む作家の日常を描く連作小説集。芥川賞作家の新境地作。

Reviews

  • さすがの田中慎弥

    新境地作とのことだからどんなものかと思ったが、これはたしかに新境地。性と暴力のない田中慎弥。私小説風に進むが、時々垣間見えるいつもの狂った田中慎弥。 連作短編集だが、一つの長編として読んで良さそうだと思った。途中、退屈に思うところもあるだろう。しかし辛抱して、最後まで丁寧に読みきってほしい。最後「丸の内北口改札」でたまげることになる。 やはり田中慎弥は、現代文学に欠かせない、絶対に読まれるべき作家である。

  • ネガティブ文学、ここに極めり

    「共喰い」のような素晴らしい作品を書いた作家さんとは思えないほど、これは酷い内容です。ここまで、ネガティブな内容を読まされると、前向きな生き方をしている人でも、かなりこの負の考え方が感染してしまうのでは? と、勝手に心配してしまいます。 唯一面白く読めたのは、主人公と一時期、一緒に暮らしていた風変わりな女の描写。はたして、こんな変な女が本当にいるのかな? と、思いながら読み進め、小説という虚構の世界なのに、主人公に代わって、勝手にこの女の言い草に腹を立ててしまった。でも、そこが作者の狙いなのか? もし、そうならば、多少はこの小説を評価してもいいか? いや違う。たまには、人生を全肯定するような明るい作品も、この作者に書いて欲しいのだが、ないものねだりだろうか?

  • 奇妙な読後感

    例えば数少ない登場人物の出版社勤務の会社員がいるが、彼が出版社で勤めていることと、主人公を作者と同一人物として、主人公の作家である田中が、作家として生きていることの何が違い、何が同じなのか。どうもこの主人公は、作家であることが仕事としてもう既定の事実のように受け入れられている。出版社の会社員が出版社に勤めている限りは、会社員であることが既定の事実のように受け入れているのと同じなのか。作家であることは、会社員であることと同じように既定の事実のようにあることはできるのか。 彼の仕事は何か。生活費を稼ぐために書くことであり、何かを得るために書くことである。何かを得るためとは何か。何かとは何か。仮に了解の流れとでもそれを言うことにしよう。彼は書くことによって、自分の中に自分を了解するという流れを、それは忘れてしまってもいいのだ、お腹が空いてカップラーメンを食った。そのカップラーメンは口で頬張られ、喉に飲み込まれ、食道を下り、胃に溶けた。それが食欲という流れを通過させ終わるなら、食べ終わった瞬間食べたことを忘れてもいいのだ。そのように書くことが自分という了解をラーメンの麺のように、心と身体の間の闇のような、記憶のような忘却のような何かを書くことと引き換えに通過させればいいのだ。 出版社の会社員は雑誌を売り、金銭を受け取るだろう。そこにいる限り、彼はその既定の事実の中にいるだろう。主人公も、その出版社に作品を売り、出版社からその報酬を得る限りにおいて、その既定の事実の中にいると言えるだろう。少なくとも彼(主人公)はそう考えていると思える。 しかし、出版社は決して作品を売ることはできない。出版社の誰も作品を書いていないからだ。彼らが売るのはどこまでいっても雑誌、本であり、そこにある文字は言わばまだ文字になっていない文字、あるいは文字になったが文字になる過程を知らない文字である。極端に言うと、作者さえ知らぬ文字だ。それを出版社は売るのである。 では主人公は出版社に何を売るのか。作品である。そして、わたしは一応その作品を書くことと引き換えに、つまり文字の裏に自分という了解の流れを封じ込めたものと解釈した。主人公は文字の裏に自分という了解の流れを封じ込めた作品を出版社に売ったとき、この自分という了解の流れは文字とともに残るくまなく向こうに、出版社の手に渡ってしまったのか。主人公はそう考えているように思う。そうでなければ、作家という仕事を既定の事実として受け入れることができないから。出版社は雑誌をお客に売ったとき、雑誌の何も残らず売るのである。りんごともテレビとも何も変わらないように。だからすべて既定の事実として流通されるのだ。流通に乗るためには残してはいけないのだ。主人公も出版社との関係で自らの作品をそう考えていると思う。だから、彼は作家であることを既定の事実のように受け入れているのである。 しかし、ここに奇妙な矛盾が生じる。われわれ読者は彼の作品から――もう一度言って申し訳ないが、主人公が出版社に売った作品と、読者が現に見ている作品は同じであると仮定している――、自分という了解の流れ、その消化のために書かれたような、言葉が紡がれたような作品から、全く違う人物像を受け取るのである。雑誌やりんごやテレビなら、それをうまく作った人物像、好悪はあっても、批判や賛嘆があろうが、それをそこまで作りきった、やりきった人物像、もっと言えば人物像の欠如を思い浮かべる。なぜなら返品するほどの欠陥があって初めて人物像を思い浮かべる必要が出てくるから。なのに、ここには閉じた、愚図で、自殺の誘惑にも駆られる人物が了解の流れの中に閉じ込められているのだ。われわれ読者は主人公のそうような姿を見ながら――姿は本当はどんな姿でもいいのだが――、作者が自分の中に了解の時間を流しているのを見るのである。聞くのである。これは奇妙な感じはしないだろうか。雑誌を触っても、りんごをかじっても、テレビを見ても、そこにそれらの制作の時間、苦労を考えても、了解の時間が流れているなど考えはしない。それらの時間は、分であったり秒であったりしても日であったり月であったり年であったりしても限りなく自然時間に近い時間であって、言わばほらと掌に乗せることができるような時間なのだ。それが、作者の了解の時間はそんなものとは関係がない。作者は作品を出版社に売ったのに、それで金銭を得、生活に資することもできたのに。その点では出版社の雑誌編集者とりんご農家と電気会社の社員と何も変わらないのに。 もしこの作品が作家であることが既定の事実のように、つまり雑誌の編集者やりんご農家や電気会社社員が流通に乗る雑誌やりんごやテレビやの反映として既定の事実のように表れるように、書かれていなかったら、こんなことは問題にしなかっただろう。その了解、消化の特徴だけ追っかけてそれで終わっていただろう。つまり?、作品には作品の時間しか流れていないのだ。なのに田中氏の作品には作品の時間と、その外の時間、作品が本として流通される既定の事実のような時間が茶々を入れるように、外被のように作品の内部の時間に干渉してくる、覆ってくるのだ。 作家を主人公とした小説だからだろうか。そうとは思えない。よく分からないが、この作家は作家であることを繰り込んでしまったのだ。運命のように、宿命のように。しかし、その繰り込まれた作家は言わば流通に乗る商品として捉えられたような作家なのだ。私小説作家のような自己暴露を事とする作家でもなく、風俗的に時代に敏感な作家でもなく。 もしこの作品を私小説と呼ぶことができるなら、商品経済に過不足なくはまることができた私小説とでも言えるのかも知れない。だからなのか、私小説なのに生活の細々の描写や感情や行動の分析――がないのではない。むしろ、一杯あるのだ。しかしこれらはこの小説のメインディッシュでなく飾り、山の地下水でなく山を覆う木や草や花のようなものであると思える――、あるいは個性のように浮かび上がっくる作家の風貌――もちろん風貌が浮かび上がらないのでもない――でなく、了解すること、自分を了解することの流れが読みどころ、より正確には聞きどころである作品ではないのか。実に奇妙な読後感であって、それがどこから来るのか明らかにしたいと言葉だけは費やしたが、単なる繰り言のような長文になってしまった。もしここまで読んでくれた人がいれば感謝しかない。

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