西行花伝
A long historical novel that portrays the life of the poet Saigyo through many voices and historical scenes. Love, renunciation, power, and the pursuit of beauty are arranged symphonically to reveal the course of a poet’s spirit.
Work Information
A long historical novel that portrays the life of the poet Saigyo through many voices and historical scenes.
A long historical novel that portrays the life of the poet Saigyo through many voices and historical scenes. Love, renunciation, power, and the pursuit of beauty are arranged symphonically to reveal the course of a poet’s spirit.
Review Summaries
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Readers tend to remember the force of the subject and the distinctive structure. The work rewards attention to character choices and lingering scenes more than to simple background exposition.
Book Information
- Publisher
- 新潮社
- Published
- 1995-04-01
- Pages
- 525 pages
- Language
- 日本語
- ISBN-13
- 9784103142164
- ISBN-10
- 4103142162
- Price
- 3980 JPY
- Category
- 本/文学・評論
第31回(1995年) 谷崎潤一郎賞受賞
Reviews
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これぞ日本文学
品がある文章で読み応えのある1冊です。
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花鳥風月にあそぶ
西行が待賢門院との別離から遁世して陸奥へ旅に出るところが切なかった。自分を西行に写しました。
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森羅万象(いきとしいけるもの)への慈愛の境地
『西行:歌と旅と人生』 (寺澤行忠著 レビュー済み)を読んだついでに、引用されていた本書を読んでみた。辻邦生が作家の想像力で西行の生涯をどのように描いたかを知りたかったからである。 文庫本で800頁に及ぶ大著であるが、元は雑誌『新潮』に24回にわたって連載されたものであり、読みやすく配慮されている。内容は、西行ゆかりの者たちが西行の生涯に沿ってその行跡と人となりについて語るという構成であり、要所要所に西行自身の語りも入っている。中でも、西行の弟子としてもっとも多く登場する藤原秋実は著者の創作で、著者自身の分身と思われる。 物語的なピークは待賢門院との恋愛と保元の乱への関わりであろうが、やはり西行の出家と歌人としての資質を辻邦生がどう描いたかに興味が惹かれる。 鳥羽院の北面の武士として頭角を現した西行(佐藤義清)が突如出家してしまう事情について、本書では、いとこの佐藤憲康の急死とその後に領地紀ノ川に引きこもった体験を描く。憲康は摂関政治の変革を奥州藤原氏を中心とした新しい政治に期待して決起しようとした矢先の急死であったが、西行(義清)は憲康の誘いを断っていた。西行は、「私はあれから毎日毎日紀ノ川の流れを見て暮しました。そこではあらゆるものが流れてゆきます。何一つとどまるものはありません。・・・」という。辻邦生は『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」という有名な一説を思い浮かべたのだろうか。こうして浮世の無常を痛感したことが出家への引き金として描かれる。 しかし、西行の出家は「世捨て人」のように遁世してしまうことではない。実際、西行は保元の乱の際には崇徳院の救出に奔走するし、平家滅亡後には東大寺大仏再建の勧進の傍ら鎌倉殿と奥州藤原氏の連絡役のようなことまでしている。 出家の決意の直後、西行は急に身体が軽くなり、「自由な、解放感が全身を包んだ」と述べており、次のように語る。 「あたかも山川草木が尊く有難い御仏の大きな身体ででもあり、山の肌、木の葉のそよぎ、鳥の囀り、花たちの色が、一息ごとに御仏の香わしい慈悲を放ちつづけているとでも言ったらよかったでしょうか。」 このように森羅万象(「いきとしいけるもの」と読ませている)に対する慈愛の境地が西行にとっての出家であり、それは自然だけでなく市井の人々の活動すべてに及ぶのである。辻邦生は、これをさまざま表現で繰り返し語らせている。出世や権力への「我執」を捨てたときに森羅万象、この世の素晴らしさが感得できる。若い読者や立身出世に励んでいる人たちにはなかなか共感しがたい境地であろうが、例えば大病をして生死をさまよった人や余命を宣告された人が、自然や街中の風景を全く新しい目で愛おしく眺めるようなものだろうか。その意味では読者を選ぶ本といえるかもしれない。 歌人西行については、崇徳院との対話などで「歌による政治」が強調され、歌が現実の土台をつくらねばならないとする。それゆえ、西行の歌は花鳥風月を愛でるなかにも世の中や人々への思いが込められている。 これは「歌」に限らず文学・芸術と政治・社会をめぐる深遠なテーマであり、文学・芸術が時代精神を象徴したり、時代を先取りし変革する役割を果たすことを辻邦生は念頭に置いているのであろう。 西行が晩年、自らの歌集を整理して俊成・定家親子に送り、勅撰集への登載を願ったのはそうした文脈に位置づけられる。 本書では最後に西行と慈円(後の天台座主)の交流が描かれ、西行の歌への思いは慈円に引き継がれたと辻邦生は解釈している。慈円の『愚管抄』は後鳥羽院の挙兵(承久の乱)を諫めるために書かれたとされるが、奇しくも西行と崇徳院の関係が慈円と後鳥羽院の関係に二重写しされるようだ。
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この言葉に出逢って、良しとします!
『一人一人の人間は何と寂しいことか。しかしその寂しさに耐えている人を、ひたすらに慈しみ、慰め、励ます心、それがおそらく人間としてあるべき唯一の在り方なのでしょう。』(676頁) 今は「宿ごとに さびしからじと はげむべし 煙こめたる をのの山ざと」に惹かれます。 本書は「願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」の心を知りたく求めました。が所詮、薄紅色の淡い仄かな枝垂れ桜の面影を持つ、母と瓜二つの、身分を隔てた恋し女を慕うに過ぎず、でありました。 西行ほどに、時に求められる才能に恵まれた人が、古今居たでしょうか。武術に長け、遊戯に秀で、和歌に優れていました。恩に厚くもありました。故に権力者に愛されもしました。衣冠を極める条件は、成人にして過ぎるほどに備わっていました。然るにです。忘れ難き亡き母に似た、身分を越える女人に恋する余り、全てを捨て余儀なく出家してしまいます。肝心はその後です。究極に和歌を置いたにも拘わらず、女人の面影を慕い続け、その血筋に連なる人の行く末を案じて、世事に乗り出してしまうのです。果てが完膚なきまでの大失敗です。行動は情の極みとも云えますが、そこには囚われた末の惨めさしか、匂って来ません。凛とした美しさは微塵もないのです。唯々才に恵まれ歌が残された、これが本書を読んでの、偽らざる感想となりました。 著者の作品は、「安土往還記」で、自らを客観視しながら、革命の道に邁進する、孤独な信長像の斬新さに、瞠目する思いがし、「嵯峨野明月記」「夏の砦」と、人と芸術の関わりを軸に読んで来ましたが、何方も信長を描いた時のような距離の置き方が成されず、それは本書においても同じで、これでは西行芸術の全貌に迫り得ていない、ように思えました。
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名作
ハードカバーの同書を持っていましたが、移動中によむためには重すぎるため、買い直しました。歴史小説を読むのは得意ではないので、少し苦労しましたが、美しい文章、読み手をリードして頂ける物語運びに導かれて読み進めています。
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文章の妙には感心したが
谷崎潤一郎賞を得た流麗芳醇な文章の妙には感心したが、肝心のテーマ“歌による政治(まつりごと)”には最後まで共感を持てなかった。「和歌なんざ現実には無力だからこそいいのだ」というつもりでもないようだ。 かえって『背教者ユリアヌス』の青年皇帝の内奥の葛藤に共感できたものだ。
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登場人物の人間家系と辻氏の意図
これからこれを読む人は系図を含めた人間関係を把握しながら読み進めると良い。例えば「忠通」と「頼長」、「得子」と「璋子」など。「藤原」か? 「源」か?「佐藤」か? 恐らく読んでいって判らなくなると思う。終いには意味不明になり、読むのを止めてしまう。そうならないよう系図を含めた人間関係を把握しながら読み進めて欲しい。小生は市販のB5判の原稿用紙に「姓別」に分け、「その他」も作って読む進めた結果、読了した。原稿用紙は数枚になったが矛盾なく読めた。これは学生時代に「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー)を読んだ時から使っている。その本は1週間で読了した。友人は出来なかったと言っていた。 辻さんの意図は「三つの啓示に寄せて」(『生きて愛する為に』中公文庫)の具体化である。『西行花伝』のP330に、歌は尽十方世界を包み込む無窮の球体、巨大な球という趣旨の文言があるが、これはパスカルの言葉である。辻さんはフランスに行ったことがあるので、当然パスカルは読んでいるはず。西田幾多郎も「無の自覚的限定」で同趣旨を引用している(西田は「球」と言わず「円」としている)。このことを崇徳院に理解させようとしたのである。この「球」に逢着すること、それが辻さんの言いたいことである。現実の多くの作家は逢着している。例えば前述の「三つの啓示に寄せて」と「硝子戸の中(うち)」の最終章「三十九」の記述「私の罪は」~「やはり微笑している」とほぼ同一内容。漱石「則天去私」の「天」である。このことは挙げればきりがない。
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書籍の経年劣化について
思ったより損傷がなく大変気に入りました