雪の練習生
雪の練習生 is a 長編小説 by 多和田葉子. The work is recorded as an award-recognized title and presents its subject through the images suggested by the title, the author's concerns, and the movement of memory or feeling.
Work Information
雪の練習生 presents 多和田葉子's work in the form of 長編小説.
雪の練習生 is a 長編小説 by 多和田葉子. The work is recorded as an award-recognized title and presents its subject through the images suggested by the title, the author's concerns, and the movement of memory or feeling.
Book Information
- Publisher
- 新潮社
- Published
- 2011-01-01
- Pages
- 253 pages
- Language
- 日本語
- ISBN-13
- 9784104361045
- ISBN-10
- 4104361046
- Price
- 2862 JPY
- Category
- 本/文学・評論
第64回(2011年) 野間文芸賞受賞
Reviews
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すごく面白かった
シロクマ3世代の物語を、西側諸国と東側諸国の視点の違いや生活の違いを織り交ぜてユーモラスに書かれた本。 やっぱり、言論の自由とか支配者層との意見(他人の権利を侵害する以外での話)の相違がたたかれる社会は、新しい何かって生まれにくいんだなって思った。従順も必要だけれど、それだけじゃ何も新しくならない。批判的精神って、大事だよねって思った。 シャチやイルカを引用し、サーカスや水族館の曲芸はもともと遊び好きで人を驚かせるのが好きだからいいけれど、「熊が自転車に乗るのは絶対におかしい、そんなことを強制すれば熊はノイローゼになる、と西ヨーロッパの人たちは考える」と書かれていたのが個人的にツボだった。
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いい本です
何かと仕事の合間に読めるいい本です。
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期待しすぎました。
表紙カバーの絵があまりにも好みだったもので。期待が大きすぎました。悪くはなかったのですが、個人的にはあまり響かなかったです。
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発送が早くて良かった
急ぎで欲しかったので発送が早く、助かりました。 とても綺麗な状態の本でした。満足しております。
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力ある物語ゆえに
不思議で懐かしい世界観、的確に繰り出される言葉のリズム、心地よく熱中して読み進めたのですが……。物語の力がありすぎ、また私はちょっとだけ深く物語にとらわれてしまう性分で、読後につらさが残ってしまいました。
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面白い本です!
初めてこの著者の本を読みましtが、確かに読み応えのある本でした!
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脚光の果ての哀しみ
ときどき朝日新聞でドイツ在住ならではの著者の記事を楽しみにしていたくらいで、はじめて手にした多和田さんの本だった。 なんとも不思議な小説である。形式的にみれば短編連作のようでもあり、三章で構成された長編小説ということもできそうだ。物語は三代にわたるホッキョクグマの自伝ということになっているのだが、そのことがこの不思議な感覚を思わせるのだろうか。 なるほど、登場人物なる主人公がホッキョクグマでありそれを自伝として書くという特殊な設定であることを思えばその通りかもしれない。だが、そのことが直接的な要因とはならないところにこの作品のおもしろさがある。つまり、この独特の感覚はまさしくこの作家ならではの筆力と文体の現れではないか、とぼくはそう考えている。 冒頭の「祖母の退化論」では次のようなこの作品全体をイメージさせる興味深い行がある。 ものを書くというのは不気味なもので、こうして自分が書いた文章をじっと睨んでいると、頭の中がぐらぐらして、自分がどこにいるのか分からなくなってくる。(p11) この不思議な感覚こそ書き手として経験される〈書くこと〉の意味であり創作であることを示唆しているのではないか。 物語はサーカスの花形として舞台に立つホッキョクグマが膝を痛めて第一線を退き、事務職をしながら作家として自伝を書くというシュールな設定になっている。 だが、決してありふれたファンタジーなどというのではなく人間社会の複雑な葛藤を浮き彫りにするようなシリアスな問題とユーモラスな感覚が入り交じった不思議な世界なのだ。 いろいろ考えているうちに、昔の知り合いでいまは文芸誌の編集長になっているオットセイのことを思い出した。私の舞台人生がまだ花盛りだった頃、オットセイはわたしのファンで、大きな花束を持って何度も楽屋に押しかけてきた。(p27) わたしたちが性交するにはあまりにも不似合いな身体を持っていることは、初めから感じていた。何しろ彼は濡れてつるつるした体質で、わたしは乾いてごわごわしている。(p27-28) このようにサーカスの過去をふり返りながら作家としての葛藤を人間社会の単なる風刺ではなく、ホッキョクグマが書くシュールな感覚と文体が独特の世界を成立させているのだ。それゆえにある意味での客観性と非現実的な感覚世界の自在な表現が可能ともいえる。つまり、視点を変えるだけでも世界の様相が違って見えてくるようにホッキョクグマのまなざしで描く世界は感覚的にも現実との差異(ズレ)を生じ奇妙なリアリティを感じさせるのだ。 ここでは図式的な空想の世界が措定されるのではなく、クマの自伝それ自体が作家の現在と錯綜するように不思議な作用をもちながら現実空間として描かれている。おそらく、この奇妙なリアリティとはそのことに起因していると云っていい。 ヴォルフガングは溜息をついて、椅子に腰を下ろした。「右翼団体が外国人を襲う話は聞いたことがあるだろう。でもナチスに一番よく襲われるのは黒人でもトルコ人でもない。ロシア帰りのドイツ人だよ。彼らは祖先はドイツ人だけれど、ロシア文化の中で育っている。自分と似ているけれど違う者がいるというのが、右翼にとっては一番怖いことなんだ。」(p86) モスクワを中心にサーカスの興行はつづくのだが唐突にも作家は過ごしやすい環境を求めた。その後、言葉やコミュニケーションのリスクを負いながらも過ごしやすいカナダへと移住し結婚して娘のトスカを出産するがふたたび東ドイツへ移住。トスカはバレリーナになって舞台に立ちやがて可愛らしい息子を生む。作家にとって初孫となるその子にクヌートと名付け、次なる物語の展開を示すように「祖母の退化論」が終わる。 物語は急展開の様相をみせるが自伝として描かれていることとホッキョクグマの感覚が交じり合っていることをおもえばこれも不自然とは云えないのだ。それこそ第二章への布石とも前置きとも云えるのではないか。 第二章「死の接吻」ではサーカスで伝説の芸を成し遂げた娘のトスカの物語となっている。だが、わたしという一人称で描くストーリーは奇妙で複雑な様相を含みながら、事実にもとづく戦争やシリアスな社会問題をふまえ夢とも妄想とも現実(うつつ)ともいえる奇妙でリアルな物語となっている。 わたしは緊張していた。ウルズラが角砂糖をさっと自分の舌に乗せるのが見えた。やっぱりわたしたちは同じ夢を見ていたのだ。わたしは一度前足を下ろして位置をなおしてウルズラの正面に立ち、腰をかがめて首を伸ばし、彼女の口の中にある角砂糖を舌で絡め取った。観客からどよめきが起こった。(p199) この「死の接吻」は大いに評判となり東西ドイツのほかにもアメリカや日本など、世界各地で大興業を成功させる。 ウルズラの中では六十年代に初めて接吻した熊とわたしが重なってしまっているようだ。無理もない。どちらも名前はトスカ。しかも1986年にやはりカナダで生まれてドイツ統一直前にベルリンに来たわたしは、あのトスカの生まれ変わりなのだから。(p202) ここへきてこの奇妙なリアリティのからくりが解けたように思うのだが、そのこと自体もはや読み手にとってどうでもよくなっている。その後もウルズラとわたしの接吻はつづくのだが、1999年にサーカスユニオンは解体されウルズラはサーカス界を追われることになりこの世を去る。 わたしは動物園へと売られるがそこでラルスと恋仲になりクヌートきょうだいを出産するのだ。双子の弟は虚弱体質ですぐに死んでしまったが、クヌートは地球環境を守るために世界的に活躍する立派な活動家に成長し次章の物語へとつながる。 でもそれは彼の物語であって、わたしは資本主義保護区に棲息するホモサピエンスのように息子の物語を自分の手柄にするつもりはない。(p206) 奇妙なリアリティ、脚光の果ての哀しみがここにある。
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こんな小説(?)本読む人いるの?
詰まら過ぎて読むのやめた₌一ぺージで。