Mainichi Publishing Culture Award
昭和精神史
Showa seishinshi is a critical study that reads the Showa era through tensions among thought, literature, and politics. It layers personal intellectual history with changes in state and society, tracing shifts in Japanese consciousness from prewar to postwar years.
Work Information
It traces the path of minds that lived through Showa from the depths of literature and thought.
A Mainichi Publishing Culture Award-winning critical work published by Bungeishunju. It portrays the political and social experiences of Showa as changes in the minds of writers and intellectuals.
Review Summaries
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The book is compelling in rereading a broad historical period through the inner lives of writers and thinkers. History and criticism overlap, giving it the power to treat Showa as a problem of the spirit.
Book Information
- Publisher
- 文藝春秋
- Published
- 1992-06-01
- Pages
- 677 pages
- Language
- 日本語
- ISBN-13
- 9784163465609
- ISBN-10
- 416346560X
- Price
- 1800 JPY
- Category
- 本/歴史・地理/日本史/一般/日本史一般
様々な史観がせめぎあい、ねじれあう昭和前史。不幸な父祖の歴史をどうしたら正確に辿ることができるのか?渾身の力作千二百枚
Reviews
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多面的に昭和史を学ぶ
豊富な資料と綿密な歴史分析。 良き学びができました。
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後世に残すべき
国際化・グローバルな時代と言われて何年が経つでしょう。 自国の歴史を知らない国民は不幸です。 歴史は繰り返すと言いますが、今の日本国も当時とあまり変わっていないような気がします。 良い本です。
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近代史を知るには良いかも。
読み応えあります。
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ブレーキの利かぬ哲学にはそろそろおさらばしよう
「日本人はもっと歴史を学べ」とは、よく中国や韓国から言われる言葉だ。お前等に言われたくないわいと反発するのが最も一般的な日本人の反応であろう。しかし内心では、少なくとも現代史については確かに自分たちはほとんど学んでいないという自覚があるのではないだろうか? 明治維新があって日清戦争、日露戦争があって盧溝橋事件があって、太平洋戦争があって、昭和20年8月15日に日本は太平洋戦争に敗戦をした。私達が習った歴史はそういう節目節目の年号をただ覚えるだけだった。実は昭和17年生まれの私たちの世代は歴史という科目を与えられないまま小学校・中学校の義務教育期間を過ごしてきた。それは昭和20年に敗戦国日本に進駐してきたアメリカ軍総司令部の意向によって、日本政府による悪しき歴史教育を断ち切るという方針が実施されたためである。ただ、はっきり言えることは、いかなる国と言えども正しく歴史と呼べるような同時代史を書くことは不可能に近い。精神史であると同時に昭和時代の歴史と呼ぶに値する内容を書いた本書ですら平成5年になってようやく書き上げられた。 私はこの本で精神に裏付けられた昭和史を初めて読んだような気がする。しかしそれが何とも血なまぐさい歴史で、物心ついた時には既に戦後の日本だったという私にとってはほとんど信じられないような世界が自分の生まれるよりせいぜい10年くらい以前に展開していたことに驚くのである。そして血なまぐさい事件は年を追って拡大してゆき、昭和8年の5.15事件、昭和11年の2.26事件ではいずれも青年将校の叛乱が起こり国家要人が暗殺された。叛乱は鎮圧され叛乱者は法の裁きを受け処罰された。この2つの事件に潜む政治哲学は明らかにされないまま今に至っていると私は思う。この本を読んだ限りでは実働部隊の青年将校達には明確な哲学はなかったのではないかと思う。5.15事件では橘孝三郎の農本主義哲学が、2.26事件では北一輝の「日本改造法案」が青年将校決起のバックボーンとされた。青年将校達には革命のための言葉がなかったので橘、北の言葉を借りた。哲学者は叛乱軍に自分の哲学の使用を許した。叛乱の失敗は哲学者に恐ろしい結果をもたらすであろうことまで覚悟したこれほどまでの許容を示した人間は明治以降の日本史において実に稀少である。本書の著者桶谷秀昭が北一輝のために2章まで割いているのは北一輝という人間の偉大さを認めている証拠であろう。ただし、この本が完全に正しい日本史を書いているということは言えないと思う。あくまで著者個人として、重要な思想とその思想をなした思想家に重点を置いて書いたのが本書である。当然、あまり思想について考慮することなく、歴史事象を追ってゆくだけの従来の現代史と比べると、これは全く異形の現代史であり、読者に与える衝撃は大きい。 本書に登場する思想者は必ずしも普通に言われるところの思想家ばかりではない。思想とは叛乱軍に加わる青年将校の悩みのようなものもあり、特攻隊で米艦船に人間爆弾として突っ込んでゆく少年飛行兵のわずか数分間の思考もある。世捨て人としての永井荷風の思想もあり、戦時の深まりとともに発言を諦めた小林秀雄や保田與重郎などのプロの思想家もいた。この中では昭和16年の時点で「日本の運命は4年後に決まるであろう」という恐るべき予言をして、その後程なくしてほとんど発言をしなくなった保田與重郎の思想は機会があれば今一度日本人として振り返ってみたい。 思い返せば、日露戦争に勝ち、ロシアから満州を割譲されたところから、日本は際限なく戦争を拡大してゆき、一億総玉砕の掛け声のもとに米軍の本土上陸を迎え撃とうという狂気の戦争哲学に落ち込んでいったのだ。昭和精神史は悪夢の歴史だ。国民への言葉が余りにも少なすぎた。立ち止まって中止することも重要な哲学なのに、日本にはそれがなかった。原爆を投下されて、ようやく悪夢から覚めたが、そこは悪夢以上の地獄だった。 昭和の初め20年の歴史は繰り返してはならない。哲学を明確に述べない政治家の存在を許してはいけない。2020年から2021年にかけて新型コロナの猛威にさらされながら改めてこの思いを強くする今日この頃である。
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義父への贈り物
92歳の義父への贈り物なので私は読んでいません
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桶谷さんの本はある程度時代を共有してないと読みにくいのかな…
三島由紀夫や保田與重郎を扱うときもそうなのですが、 とても言葉にのせた「心情」(と磯田光一ならいうので しょうが)を理解するのが難しいです。 精神史と著者がいうものは、たぶん「水脈」としたよび ようがなくて、それが消滅する刹那にしか過去を照らし だす形でしか見えないものじゃないのでしょうか? だからそれは隣接や接触を前提にした「メカニズム」で はなく、時や場所もまったく離れた場に共鳴するかのよ うに現出する意志のパターンのようなもの、その脈流の ようなイメージだろうか。三島由紀夫が何かの終焉を体 現したとリアルに認識するためには、やはり同時代を生 きたような経験の土台がないとなかなか腑に落ちないの だろうか?それとも個人の理解力の問題? いつもそういう遅れてきた感を、桶谷さんの本を読むと 感じてしまい、手が届かないところの話なのかなぁって 気持ちになります。
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とても良い。
「チャンネル桜」の討論番組で、桶谷先生を知りました。改めて、昭和と言う時代がどんな時代だったのか、考えさせられました。
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日本が日本を喪失した・・・
私の読後感を僭越ながら投稿させていただいます。 著者はあとがきの中で、昭和の精神史を描くことで、そこになんらかの意味や定義を与えることは、その定義によって昭和を終わらせてしまうようなことになるので、本書を書くことに戸惑いを感じ、昭和を終わらせたくなく、まだ戦い続けたかったというような意味のアンビバレントな感情を述べておられました。これの意味するところは多分、終戦までの日本人と日本の全て、日本そのものを失いたくないということ。もうすでに失ってしまったという現実認識を、本書で言語化することによって安易に認めたくないという心理的な抵抗と理解します。 本書本文の最後に終戦後に書かれたひとつの詩が引用されております・・・台風一過の青い空に、残り雲が、静かに風に流されるままに空の上から、我々と我々の自然、いわば生きとし生けるすべてのものに対して「さよなら、さよなら、さよなら、さよなら」と会釈するかのように漂っている・・・この「のこり雲」とは、まさに終戦までの日本そのものであり、その日本が静かにわれわれにさよならの挨拶をしている。もう本当の日本は戻ってはこない。これは詩人の深い深い悲しみの表現であり、同時に読み手自身の悲しみでもあります。慟哭と憤怒、絶望と虚無そして悔恨と鎮魂を内に押し込めた静かだがそれだけ深い悲しみを宿した喪失感です。 私のこの共感が的外れでないならば、あの8月15日に人々が抱いた感情の一片でも、昭和40年生まれの私であってもその感情を少しは共有することができたのではないかと思います。そして、あの時に日本が去っていってしまったならば、今の日本は偽物の日本ということになりますが、この喪失感さえ失わなければ、逆説的かもしれないが、私はあの8月15日以前の日本と日本人につながり続けることができるように感じます。