最愛の子ども
"Saiai no Kodomo" is a novel set among classmates at the upper division of private Tamamo Academy, where Hinatsu, Mashio, and Utsuho are watched as a self-made "family." The balance among two girls who appear almost like a married couple and a third who joins them like a child is depicted as a relationship that cannot be reduced to romance, friendship, or family.
Work Information
A story of relationships that resist naming, told through classmates watching a makeshift family of three high school girls.
The Bunshun official page confirms the publication date, 216 pages, and ISBN 9784163906362 for the hardcover edition. By narrating the "family" formed by Hinatsu, Mashio, and Utsuho through their classmates' gaze, the novel brings out both the sweetness and danger of intimacy. A paperback edition appeared later, but the identifiers here use the 2017 hardcover edition relevant to the award. For the Japanese print edition, the Amazon Japan ASIN is completed from the ISBN-10.
Review Summaries
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The novel is valued for depicting relationships that cannot be contained by existing terms such as romance, friendship, or affection. Through a narrative structure that watches the three girls from around them, longing for intimacy and unease emerge at the same time.
Book Information
- Publisher
- 文藝春秋
- Published
- 2017-04-26
- Pages
- 213 pages
- Language
- 日本語
- ISBN-13
- 9784163906362
- ISBN-10
- 4163906363
- Price
- 2860 JPY
- Category
- 本/文学・評論/文芸作品/日本文学
日夏(ひなつ)と真汐(ましお)と空穂(うつほ)。 夫婦同然の仲のふたりに、こどものような空穂が加わった。 私立玉藻(たまも)学園高等部2年4組の中で、 仲睦まじい3人は〈わたしたちのファミリー〉だ。 甘い雰囲気で人を受け入れる日夏。 意固地でプライドの高い真汐。 内気で人見知りな空穂。 3人の輪の中で繰り広げられるドラマを、 同級生たちがそっと見守る。 ロマンスと、その均衡が崩れるとき。 巧みな語りで女子高生3人の姿を描き出した傑作長編。
Reviews
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一人称複数
同級の「わたしたち」が現実の断片から、女子高生3人で構成される夫婦と子供の言動と内心を推測するという、複雑極まりない構成ながら、いつのまにやら読者を「わたしたち」に取り込んでしまう恐ろしいような不思議なような力を持った小説でした。 「親指P」に仰天したことを懐かしく思い出しました。 なんとなく、谷崎の少年小説も連想しました。あれ、なんていうタイトルだったかなあ。
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複雑な語りの構造の中で、さらに性的に複雑な関係性を持つ3人のつきあいが卒業前の数年間と言う自ずとセンチメンタルな舞台で描かれる
ある私立中高一貫校の高校の女子クラスが舞台。作者の物としては大学時代を舞台にしたものはあるが、高校は初めてではないだろうか。もちろん男子クラスもある。語りの構造は複雑で、誰だかわからない”わたしたち”が主人公であるだろう親子と仲間内で見立てされている3人の間に起きた事を”妄想”したり”捏造”したりするので、知るはずのない彼らの内面や彼らだけが知りうる出来事が描写される。しかも最初に、主な登場人物として一覧で紹介されるクラスの面々こそが”わたしたち”であるはずだから(しかし誰だか分からないし、”わたしたち”が単一の視点を持つには、集まって創作会議をすれば可能だが、もちろんそんな事は書かれていない)、彼らを描くさらに一段階上の視点が存在する事になる。 女子高生3人、一人は冷静(父)、一人はこじらせ型(母)。子役は小動物のような可愛さを持つのだが、この3人の間に一種同性愛的な感情と些細な肉体的ふれあいが存在するのだから、インセスト的意味合いをも孕んでしまう。さらに、折檻のまねごとなども挟まれてSM的風情も漂うなど、一筋縄では行かない。サブプロットの、美人だが感情の欠落を感じさせる隣のクラスの女子と別の男子クラスのボス的美少年の交際は異性愛だが、奇妙に感情の起伏を欠いたように描かれている。ただし、小説内で起こる出来事の雰囲気は、映画”櫻の園”的な甘酸っぱさを伴うと感じられる。 今から数年前を背景にしている事が、ダルビッシュがまだ日ハムにいたり、スマホでなく携帯が登場する事で示されるのはどうしてなのだろうか。小説内では卒業直前までが描かれるのだが、その後の彼女たちはどうしているのか想像してご覧、という事なのだろうか。小説は、所々奇妙なおかしさを醸し出すし、筋立ては序章以外の各章に必ず含まれる”ロマンス”という言葉どおりの物で、そういう読みももちろん可能だ。大いに堪能した、と言える。
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「わたし」のいない「わたしたち」の物語
〈ファミリー〉と命名される疑似家族の3人を巡って、玉藻学園二(~三)年四組の同級の女子高校生たちが紡ぎだす物語。 だが、この物語はただ芸もなくありのままの3人を観察・記述するものではない。 それどころか、描写にあたって『これは虚実まじえた想像上の場面である』とか、『その胸中をわたしたちはこれまでの想像を踏まえて新たに創作する』とか、『日夏は何を考えているか。次はそれを捏造する』などと、悪びれもせずあっけらかんと表明される。 いかにも作り物めくのは、もとより作者の意図するところで、ご丁寧にも第一章でこの物語の主な登場人物の「配役表」が示される。いわく、『舞原日夏 パパ/今里真汐 ママ/薬井空穂 王子様』。そして11人の少女たちには銘々『目撃者』の役割が配される。あたかも現実が、演じられる劇にすり替えられるような様相を帯びてくる。 物語は、「わたしたち」の語りによって進められる。だが、読者はほどなく奇妙な事実に気付く。 「わたしたち」と語りながら、そこには「わたし」に該当する人物が存在しないのだ。 先に書き出された11人は、『木村美織 目撃者 官能系情報コレクター/… 穂刈希和子 目撃者 思いを捧げるもの/…』というように明示されるが、だれも「わたし」ではない。個々の少女はいずれも3人称で語られる。 すなわち、この物語は11人の少女たちの集合的な妄想の産物なのだ。 それは同時にこの物語が、「わたしたち」の解体にともなって終熄する運命にあることを意味している。 つまり卒業して「わたしたち」が散り散りになれば、もう物語る主体自体が存在しない。〈ファミリー〉も失われるだろう。(この物語が醸し出すはかなさ・切なさはそこに由来している。) そして、そのことを「わたしたち」ははっきりと自覚している。『わたしたちはわたしたちで現実における〈わたしたちのファミリー〉の離散を覚悟し、紡いできた物語を締めくくる心の準備を進めていた。…(中略)…結末は苦みのまさったものになりそうだけれど、わたしたちがわたしたちのために語って来た物語なのだから、必ずそこにわたしたちにとって喜ばしい甘みが見出されるだろう、という期待は揺らぐことなくあった。』 卒業後の語り。『わたしたちは〈わたしたちのファミリー〉とともにあったこの物語を締めくくるにあたって、今一度真汐の視点を借りることにする。』 だが、すでに「わたしたち」はほとんど消滅しているではないか。妄想の魔力はほとんど失効しているのではないか。図書館で逢った恵文、美織、花奈子、郁子は『そろってとろんとした目つきで館内をさまよっていた。』のだ。 ここからの真汐の語りは、「わたしたち」の妄想のフィルターがかかったそれまでの語りとは明らかに異なっているように思えてならない。「わたしたち」の枷が外れたかのようにして、ここで真汐の生身の肉声が解き放たれるのだ。 少女たちの紡ぎだした世界からはぐれて、ひとり世間と向き合って生きていかなければならない。その不安。日夏や空穂への思い、切なさ。 最後に真汐の心に浮ぶ「わたしたち」は、あの「わたしたち」ではない。真汐自身の「わたしたち」だ。 こう考えてくると、この小説は、現実をすり替える物語の騙りの妙、に眼目があるのではなかったのではないか。 この小説には何人かの大人が登場する。辛辣にあるいは諧謔的に描写されるなかで、何人かは肯定的に描かれる。(英語教師の唐津緑郎は文化祭のコーラスに迎え入れられるし、美織の両親は窮地の日夏に救いの手を差し伸べる。) だが、空想の世界に遊ぶ少女たちの大人社会や現実との和解、少女たちの成長譚、といった安易とは縁はなかろう。 あっさりと霧散してしまった〈ファミリー〉、あまりにもはかなかった「わたしたち」の物語。少女たちは否応なく世界に放り出される。わたし・たちはどのように現実と折り合っていけばいいのだろう。その切なさとどう向き合って生きていけばいいのだろう。 その切実さに寄り添うことが、この作品の眼目ではなかったか。 松浦理英子の作品は、究極のところすべからくこのテーマを巡ってきたように思われる。 5/20追記 「文學界」6月号に、本作についての作者と津村記久子の対談が掲載されており、興味深く読んだ。 ここで改めて納得できるのは、松浦理英子には珍しく、といっていいかと思うが、この作品がかなり明確に、彼女が想定する読者に向けたメッセージを伝えようという意志をもって書かれたということである。これまでの作品が、結果的にそのような読まれ方がされたとしても、その意志が浮き彫りになってくることはなかったように思う。 『(読者を)疎外しないこと、甘い憧れの世界であらしめること、両者の塩梅には神経を使いました。』 『どの部分でもいいから、今まさに自分を抑えつけてくるものに抵抗している若い読者と触れ合える部分があるとしたら、読まれてほしいと思いました。』 また、とりわけ印象に残ったのは、自らの子どもの頃の記憶を踏まえた次の発言だ。 『そのときの苦しさが、真汐の苦しさに重なってくる。はみ出した荒ぶる少女の魂を鎮めたいという、鎮魂のモチベーションがあったんです。』 私自身は、少女であったことも、またどうやら性的マイノリティでもなく、ここまで世間と狎れあって生きのびてきた者だが、この発言には心が波立つのを感じないわけにはいかなかった。もちろん、それは、「最愛の子ども」という作品から強く感得したものに通じている。
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己の嗜好を再確認した
この系統が「少年」ならいわゆる「萌え」が発生する。 自分の場合、「少女」だと↑にはならない。 ここまで行かずとも、「ごっこ遊び」を、そういえば、したなあ。と… 性別で「好き」の区分を分けなかった年頃があった事を懐かしく思い出した パパ、ママ、王子さまの気持ちは余り分からないが、希和子の「つき合いたいわけでもないし、愛されたいわけでもないけど、笑いかけてくれなくなったらつらいなあ」が「そっちならすっげ分かる」とヒットした
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初めての作家の初めての作品
初めての作家の初めての作品です。女子高生が友達と擬似的なファミリーという立ち位置を築きながら、高校生活を送る日常を描いたもの。もう25年くらい前に高校生だったから、その当時とは全く世界観が違いますが、まぁまぁ興味深く読みました。
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《自由に塑型できるセクシュアリティ》を美しく描く
「自由に塑型できるセクシュアリティ」というのは、イギリスの社会学者ギデンズ『親密性の変容 ― 近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』の中の言葉だが、本書はまさにそれを主題にした作品である。三人の仲良し女子高校生の、性愛をわずかに含む友愛は、三人がそれぞれ「パパ」「ママ」「王子様」という疑似家族を形成するという点で、虚構の生殖にもとづいており、「生殖の必要性から解放されたセクリュアリティ」(ギデンズ)といえる。三人は、一人の家に泊まり込んで(母親が夜勤で留守)、二枚の蒲団に一緒に寝たり、愛撫する関係なのだが、その愛撫の詳細な描写が素晴らしい。彼女たちの愛撫は、頬が中心で、乳房など身体の前面にはまったく触れない「ひそやかな」愛撫なのだが、それはとても深い快楽である。私はラカンの言う「女性の享楽jouissance」のことを思い出した。男性はいないから、ペニス、挿入、射精といった「ファルス的快楽」は欠如しているが、しかし「女性のjouissance」は男性のそれよりもずっと多様で豊かなのだとラカンは言う。そして、三人とも愛撫し合いながら、意識はとても醒めているのがいい。「こんなことしていいのかな?」と、恥ずかしさとともに罪悪感を感じながら抱きしめたり愛撫し合っている。本書は、「わたしたち」という語り手の設定がとても巧い。語り手は、同級生(複数)ということになっているが、主人公の女の子たちの内面に自由に出入りし、それを「空想」「妄想」「捏造」「物語を紡ぐ」と自分で言っている。源氏物語やトーマス・マンでは、語り手は登場人物と一体化してはまた離れることを繰り返すが、本書はそれ以上に見事な語り手といえる。それは、「物語を紡ぐ」のは語り手だけではなく、登場人物の一人一人もそうしながら生きていることが分るからだ。三人の女の子は、愛撫しながら、その瞬間瞬間の自分の感情を意識し、相手の感情を想像し、空想し、妄想しながら、それを言葉に出して確かめ合いもする。つまり絶えず自己と他者の感情を言語化し、「物語を紡ぎ」ながら愛撫し、性愛を生きている。ラカンは「無意識はランガージュによって構造化されている」と言ったが、それに対応するのが、性愛における自己と他者の感情の意識化ではないだろうか。語り手も登場人物も互いに対等に「物語る」参与観察者になっているのが、本書を優れた文学にしている。