Schoolgirl
Kudan Rie's debut, winner of the 126th Bungakukai Newcomer Award, appears in the collection Schoolgirl. It sharply portrays the skewed distance between mother and daughter, and the way music and language can unsettle a person from within. The result is a tightly wound work where heightened self-consciousness and suffocating pressure arrive together.
Work Information
The rhythm of the prose quietly carves out the distance between mother and daughter.
Kudan Rie's debut is included in the Bunshun collection Schoolgirl. Paired with the title story inspired by Dazai's 'Schoolgirl,' it depicts the speed of thought, the distortions in a mother-daughter relationship, and the moments when language outruns emotion. As an early work, it sharply sketches the contours of the writer she would become.
Review Summaries
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The sense of unease in the mother-daughter relationship and the force of the prose leave a strong impression. Many readers feel that reading it alongside the title story makes the author's sharp gaze even clearer.
Book Information
- Publisher
- 文藝春秋
- Published
- 2022-01-17
- Pages
- 176 pages
- Language
- 日本語
- Size
- 13.6 x 1.8 x 19.4 cm
- ISBN-13
- 9784163915081
- ISBN-10
- 4163915087
- Price
- 1485 JPY
- Category
- 本/文学・評論/文芸作品/日本文学
祝・第170回芥川賞受賞。 新芥川賞作家の原点。第73回芸術選奨新人賞受賞作。 どうして娘っていうのは、こんなにいつでも、 お母さんのことを考えてばかりいるんだろう。 社会派YouTuberとしての活動に夢中な14歳の娘は、 私のことを「小説に思考を侵されたかわいそうな女」だと思っている。 そんな娘の最新投稿は、なぜか太宰治の「女生徒」について――? 第126回文學界新人賞受賞作「悪い音楽」を同時収録。
Reviews
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「悪い音楽」がおすすめ
「schoolgirl」と「悪い音楽」が収録されている。 悪い音楽が読みたくて購入したが、期待通りの面白さだった。 読みながら主人公の天才性が素晴らしく、それがいきすぎると笑いになるんだな、と思った。 おすすめです。
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この作者はきっと
エンタメで映えると思います。
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素直にすごい作品だと思います
こんな人、今までどこで何をしていたのかと衝撃を受けました。少し見聞きしたところによると、本気で小説を書き始めてから新人賞をとるまでに5年以上を要したとのこと。おそらく苦しみながらもひたむきに書き続けたがために得られてきたのであろう量感のある文章は濃密でなめらか。行間に毒とノイズと愛が混ざり合い、緊張感を保ったままエンディングを迎える頃に読者が受け取るメッセージは読者それぞれが感じるものとなるのでしょう。次の作品が楽しみでなりません。
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面白い!
すごく面白い。後半の短編は映画化してほしい。
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心理描写が好き
今年の芥川賞東京都同情棟を読んで、好みの作家と思ったのがきっかけ。 中学生の娘とそのお母さんのそれぞれの思いを描いた作品。 今時の女子中学生は、こういう考え方をするのかと読み進めていくうち、太宰治の女生徒が出てきた。 なるほどな、と改めて女生徒を拾い読みする。 女生徒の現代版だろうか、同じ匂いを感じるのだが、それがどこなのかよく分からない。 お母さんと精神科医とのやりとりは面白かった。 お母さんの嫌悪感が、まざまざと伝わってきて秀逸。 でも、この作家の言葉を大事にしようとしているのは好きだ。 ウオッチリストに加えよう。
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サイエンスライター風小説家ここに誕生
2021年に文學界からデビューした作者の芥川賞候補作とデビュー作が収録されている。ハラリの説を出すまでもなく、人間は知恵を物語に乗せて伝えるということを繰り返して世界を作ってきた。ようやく日本にも学術知を物語に乗せて一流の芸術へと昇華できる作家が誕生したことを喜ばしく思う。 <Schoolgirl> 本作で際立って優れているのは、所謂Z世代の目指すソーシャルグッドが功利主義に根付くことを華麗に描写している点である。作中で挙げられているシンガーの『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』は入門書として優れているが、ブルームの『反共感論』にも代表されるように彼らの功利主義論では情緒的共感を排除して人類皆平等に扱うことが善しとされている。 だが、この思想が行き過ぎると作中の娘のように、相手の人格への意識が薄まってしまう。相手は誰でも良いから、彼らは世界にとってより善いことをしたいと考えているのだ。ゆえに、まだ十分に自己が確立されていない若い世代にこそ、こういった平等論が甘美なものとして受け止められ広まっていったのだろう。子供の世界観を支配している学校教育や我々が日頃目にする一般メディアでは「より善いことをしたいと考えている」の部分ばかりが強調されるが、本作ではむしろ「相手は誰でも良いから」の部分が浮き彫りにされている。 ここに、集団主義の危険性を垣間見ることができる。物語の終盤で娘が母親を急き立てていた場面で描かれているように、世界中に繋がりを持つ彼らには明確な基準の正義があって、そこから外れることは問題となる(集団規範の暴力性はデビュー作の悪い音楽でも描かれている)。こうした集団主義思想こそが、人々を戦争へと駆り立てるのだろう。 対して、所謂ポストモダンの中を生きてきた母の世代にとって「大きな物語」というものは既に崩壊している。リオタールが指摘するように、個々人にとっての小さな物語があるだけである。それが回帰的な集団主義からすると、大きな物語から外れる小さな物語はどれも陰謀論でありポストトゥルースとされてしまう(悪い音楽においても、日本社会の一般感覚から外れる三井ソナタという存在が多くの読者には異物のように捉えられているようだが、あなたの信じているものは自分の外部から与えられた相対的な価値基準でしかない)。 母は周りと繋がることよりも本を読むことで自分の世界観を築いてきた。そんな母からすれば、娘にとっては同情の対象でしかないコンゴの少女も、名も無き誰かではなく確実に瞼の裏に浮かぶ一人の人間なのである(虐待された自身と間接的に投影されている。二人の人生の分岐点はどこにあるのだろう?生まれた瞬間から?)。母にとって世界に通底する大きな物語はなく、自分よりも賢い娘や生きる喜びを奪われたコンゴの少女、惨たらしく殺される食用動物こそが現実であり、そうした自分にとってリアルな社会の構成物が身近にいない時、彼女は自分自身を見失ってしまう。 そんな母の生き方に予期せぬ形で触れてしまったことで、娘は初めて他者の人格を意識し始める。彼女も自分の世界を構成する母親こそが真実であるということに向き合うのである。直接対面して言葉で語り合うことは作中では叶わなかったが(ここでの母の振る舞いは、まるでグレタ世代に面と向かって対話出来きずに問題を先延ばしする我々現役世代のようである)、小説を毛嫌いしていた娘がラストに自ら書かれた物語になっていくという展開を作者は小説という媒体で描く。 本作は世代のすれ違い、世代間による価値観の差異の描き方が卓越している。太宰治『女生徒』で書かれた花への願いに対するオマージュが象徴的である。「花の美しさを見つけたのは人間だし、花を愛したのも人間なのに、今さら話が違うじゃないか。」母娘の世代差にばかり言及してきたが、『女生徒』の筋書きと本作の主人公である母の1日の流れ(および登場人物)を丁寧に対置させることで、戦争へと突き進む社会に飲み込まれそうになる当時の女生徒との差異も見えてくる。Z世代が中核を担う我々の未来社会はどこへと向かっていくのだろう。 <悪い音楽> 単行本化にあたり新しく参考文献欄に加えられ、作中でも主人公の三井ソナタが「あれ」と呼ぶように、本作では心(=情動)がテーマとなっている。バレット『情動はこうしてつくられる』によると、情動理論は大きく本質主義と構成主義に分けられる。前者は特定の種類の情動が全人類に先天的に備わっていると考える。つまり、あなたも私も同じ怒り感情を誰に教わるでもなく最初から持っているのである。怒りは怒りでしかなく喜びは喜びでしかない。誰がどう見たってこの場面では怒るであろう場面で怒るからこそ、ヒトはヒトと見なされるのである。 翻って、バレットが脳科学を通じて推進する後者では、情動概念というものが人生経験を通じて構成されていく様が説明される。「怖れ」の概念を学ばなければ危険な場面で怖れて逃げることもできず、「悲しみ」の概念を持たなければ身近な者達の悲しみも知覚できない。そして、それぞれの情動概念は人々の間でも異なる。構成された過程が異なるのだから当然である。例えば、「悲しい」と「哀しい」は私にとって同じ情動ではないが、これを読んでいるあなたはその二つに差を認めないかもしれない。 本作はモナリザの微笑みのシーンで象徴されているように、正に構成主義的情動理論を土台に展開されている。バレットが構成主義的情動理論を発表したことが衝撃を持って受け止められたという事実が示唆的であるが、我々は日常から作られた価値観の中に生きており、無意識のうちに本質主義の立場から物事を考えている。それゆえに、フェニックスが演じたジョーカーのような情動をコントロールできない人物に相対した時、我々の社会は彼らに病気・逸脱者のスティグマを負わせ排除しようとする。本作の新人賞受賞時の選評でも、三井ソナタは「凡庸な主人公」「独り善がりな主人公」のレッテルを貼られてしまう。 作中で語られていたように、情動の正しさを芸術家が発見して、あたかもそれだけが美しいものであるかのように権威ある立場から決め付ける。新人賞で最終候補まで残れば権威者である5人の選考委員からあれこれと選評を書かれるであろうことはあらかじめわかっていた。だから、この作品を投稿すれば主人公に対して小説家や評論家が好き勝手にラベルを与えてくれるだろう。もしも、作者がそのような展開を意図して新人賞に応募したのだとしたら、ジョーカーばりのユーモアの持ち主である。本作は選評や世間の評価、読者である私達自身のまなざしを含めて一つの芸術作品となっているのだ。果たして、善い音楽と悪い音楽を決めるのは誰だろうか、善い教師と悪い教師を決めるのは誰だろうか、善い人間と悪い人間を決めるのは・・・? Schoolgirlが掲載された号の文學界表紙を飾ったル=グウィンのように社会的なテーマの物語を描きながらも、九段理江の作品ではより直接的に学術知が活用されている。それでいて、学術知をさらに深めるような作者独自の思想も確実に描かれている。ハラリが自著を漫画化しているように、学術知を社会に浸透させることは現代のアカデミアにとって最重要課題となっている。だが、彼らは真実を究める人種であって物語を紡ぐ人種ではない。だから、いざ物語に学術知を乗せようとするとどうしても猿向けな内容になりがちで、その知識の深みが大きく抜け落ちてしまう。本書のように、芥川賞候補に選ばれるような一流の物語として、知識を芸術へと昇華できる才能を持った者は世界を見渡してもあまり見当たらない。 サイエンスライター風小説家という新たな扉が開かれることで、小説と学術書が接続される。小説の読者が小説を通じて別ジャンルの書籍や活字に触れるようになれば、或いは若い学徒が小説を通じて学術知への理解を深められるようになれば、苦戦を強いられている出版業界全体にとって明るい希望の光が指すことだろう。アカデミアの片隅で文化人類学をずっと細々とやってきた私のような者にとっても、学術知を社会に広めるための新たな手段が生み出されたことは大変喜ばしい。 現代日本において、小説家というのは恐ろしく険しい職業の一つであるが、この作者には新たな道を切り拓くだけの才能が備わっていると感じた。これからも多くの作品を世に残してくれることを切に願っている。
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太宰「女学生」を先に読むと面白さが増す
「Schoolgirl」(芥川賞候補作品)と「悪い音楽」(文學界新人賞受賞作品)を所収。一筋縄ではいかない主人公の「性」が突如露わになるところがアクセントになっている点、厨二病をこじらせた女子中学生と主人公が(母ないし教員として)対峙せざるを得なくなる点が、両作品に共通していて興味深い。 「悪い音楽」は「作品と芸術家は別個に評価できるか」という問題、教員生活のフラストレーション、他者とのコミュニケーションに対する冷めた感性、等が混然とした話で、面白いのだが少しバラバラとしていて、まとまりのない印象を受けた。 一方、「Schoolgirl」の作り込みはより精妙で、意識高め少女のイライラ(生半可な知識と自意識、反抗期のウザさがミックスされた感じが巧い)、それを受け身で見つめる母の視点(心療内科医への反論の鬱陶しいこと!)を被せることで、単なる太宰「女生徒」の本歌取りに終わらない作品に仕上がっている。正論を振り回す自分の言葉の「圧」に母と娘は気づいていないのだが、この「圧」の表現が本当にお見事だ。 「Schoolgirl」のラストで、太宰「女生徒」に一回だけ登場する「あなた」が誰か、という質問を娘が母に対してする。この作品を愛読している母は娘の疑問に答えないのだが、太宰「女学生」の書かれた時代背景を踏まえると、この「あなた」は国家総動員法の公布直後かつ第二次大戦開戦直前に、太宰が女学生のペルソナを借りて日本人に突きつけた言葉と解釈することが多分自然な読解だろう。ただ、以前の娘だと、彼女が信奉するグレタ・トゥンベリのように「あなた=前の世代(大人)」を断罪する世代論に留まってしまうのだが、その後の娘の落ち着きようから察するに、この聡明な娘は違う解釈をしたらしい。彼女は自分もシステム(「あなた」)の一部だと気付いたのだと僕は読んだが、太宰「女学生」をそういう風に読むのは、結構無理があったりする。また、太宰「女学生」に母への愛情を読み影響を受けているのだが、実は「女学生」には亡き父への追慕も書かれている。太宰「女学生」を合わせて読むと、こういった作者の強引な読みが感じられるのだが、これは「本歌取り」の特権でもある。未読の方は太宰「女学生」を合わせて読んで頂くと、本作の巧さをより感じて頂けるはずだ。 なお、本書所収の両作品で男は単にセックスの相手か背景としか描かれていない。その辺りがこの作家の他の作品でどう描かれているのか、興味が沸いた。他の作品も読んでみたい。
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気味の悪い違和感(薄っぺらな嘘の思想や知識、風俗からくる)
太宰治の「女性徒」を下敷きにし、そこから、ℤ世代らしい、今時の女生徒(インターナショナル・スクール)とその母親が展開する、薄い家庭劇と風俗。 気味の悪い違和感が付き纏います。 どこかからか拾ってきた、薄い思想や脳科学の知識、音楽や、形ばかりの不倫が展開して、最後は眠りの仕方へ続いていきます。 文中に「むしろ 年々、噓をつくための噓がほったらかしたカビのように増殖して手に負えない。」とありますが、まさに、嘘の言葉が紡がれ、嘘の風俗描写が語られ、嘘の薄い思想や、科学知識が語られ、収拾がつかなくなっているような趣でした。 そこからくる不気味な違和感かと思います。