しをかくうま
A novel that traces the history of human-horse relations while following a race caller who tries to draw closer to the mare Shi wo kaku uma.
Work Information
The history around horses is gathered into one narrator's gaze.
Published by Bungeishunju. An inventive novel that traces the historical relationship between horses and humans while rewriting it through the contemporary perspective of race commentary.
Book Information
- Publisher
- 文藝春秋
- Published
- 2024-03-12
- Pages
- 176 pages
- Language
- 日本語
- Size
- 13.6 x 1.7 x 19.5 cm
- ISBN-13
- 9784163918167
- ISBN-10
- 4163918167
- Price
- 1650 JPY
- Category
- 本/文学・評論/文芸作品/日本文学
第45回野間文芸新人賞受賞作。 疾走する想像力で注目を集める新芥川賞作家が描く、馬と人類の壮大な歴史をめぐる物語。 太古の時代。「乗れ!」という声に導かれて人が初めて馬に乗った日から、驚異の物語は始まる。この出逢いによって人は限りなく遠くまで移動できるようになった――人間を“今のような人間”にしたのは馬なのだ。 そこから人馬一体の歴史は現代まで脈々と続き、しかしいつしか人は己だけが賢い動物であるとの妄想に囚われてしまった。 現代で競馬実況を生業とする、馬を愛する「わたし」は、人類と馬との関係を取り戻すため、そして愛する牝馬<しをかくうま>号に近づくため、両者に起こったあらゆる歴史を学ぼうと「これまで存在したすべての牡馬」たる男を訪ねるのだった――。
Reviews
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血と知と地の果てに
サラブレッドとは「完璧な品種」を意味する。ブラッド・スポーツと呼ばれる競馬は血を選別・改良しながら今日まで歴史を紡いできた。対して、自らを「賢いヒト」と名付けたホモ・サピエンスが繋げてきたのは知である。勝ち残った人間達の知識・知性がスタンダードとされ、言語や書籍を通じて残されてきた。そんな馬とサピエンスが手を取り合ったことで新たな地平へと移動するという概念が発明され、そこで新たな知や血と巡り会って両者はさらなる発展を遂げた。 サピエンスは「理解する、知っている」という動詞を語源とする。だが果たして、我々が本当に知っていることとは何であろうか?自らの身体感覚を直接伴う移動方法を捨てた人類は、知識を蓄えた脳でさえも捨て去ろうとしている。ネアンデル谷の地で発見されたという理由によってホモ・ネアンデルターレンシスと名付けられたネアンデルタール人達の知は何一つ残されていないが、彼らの血は我々サピエンスの中にも残っていることが遺伝学的に示されている。馬の声を代弁する根安堂ターレンシスは作中で、クレバー・ハンス(賢馬ハンス)とヴィルヘルム・フォン・オーステンの関係性を振り返りながらその声を聞く者に尋ねる。クイズを解いたり数を数えたりすることは、ミリ単位で他者の動きを知覚出来ることよりも知性があると果たして本当に言えるのか?と。馬は1+1=2という人間が定めた言語を知らなかったことで、我々にとって下等な家畜動物でしかないと嘲笑された。だが、今以って彼と同じくらいに知覚器官が発達した人間はほとんどおらず、そればかりか人工知能の登場によっておおよそのサピエンスは自らの頭を使って計算することや文章を紡ぐことさえもやめようとしている。 人類の叡智を押し広げようとした超人はこれまでも大勢現れていた。作中で唐突にレース実況が始まる場面。ダ・ヴィンチ、ディキンソン、フロイト、ニーチェ、その他大勢の芸術家や学者が一位になろうと順位を競い合っている。しかし、これは今を生きる我々がそのように彼らの紡いだ詩を勝手に解釈しているだけなのではないだろうか。観る側、読む側が勝手に枠に押し込めラチ内に拉致し、売上がどうだのと順位を付けているに過ぎない。彼らはただただ人類の叡智の果てを目指して詩を書いているだけなのに。全ては読み手の問題である。真実無き時代では、芸術も学術も受け手の責任に帰される。「結果」は結果でしかないにもかかわらず、それを「愛の結晶」だのとポエジーに呼ぶのは大体の場合、本人でもその親でもない第三者である。そんな世界だからこそ、歴史で語られる物事の順番が入れ替わるのだとしたら我々の未来は変わり得るのではないだろうか?それは馬名登録の文字数制限が9文字から10文字へと拡張された時に、そのことに違和感を覚える人間と覚えない人間がいるのと同じように、僅かばかりの小さい力ながら、それでも未来を変えていく蝶の羽ばたきの如き力を持つだろう。 自己家畜化とは、野生の動物が人間に家畜化されるのに適した形質に自ら進化・適応していくことを指す。ヒとビの日々で描かれたように、馬の最初の家畜化は自己家畜化ではなかった。それが神の思し召しだったかどうかはわからないが、とにかく馬にはハミを咥えるための空洞があった。その空白を埋めるようにして、人類は馬とコミュニケーションが取れるようになり彼らを家畜化していった。犬猫や牛豚など、その他動物も家畜化していった。しかし、サピエンスはそのことに飽き足らず、今日では自分達でさえも家畜化している。ヘア&ウッズによる『ヒトは〈家畜化〉して進化した』やランガムの『善と悪のパラドックス』で既にヒトの自己家畜化は論じられてきたが、この小説はそのことを新たな視点で捉え直し、サピエンスの未来像までも描き出す。現代のサピエンスの進化はテクノロジーと資本主義が生み出す社会システムの制度・規範とは無縁でいられない。Google Mapがなければ道に迷わず目的地に辿り着けないサピエンスが大量に生まれているのだから。そして、ニューブレインのような外部存在に選んでもらわなければ自分が進むべき目的地でさえもわからないサピエンス達によって世界が埋め尽くされてしまうという現実もそう遠くない未来にやって来るだろう。 もう一人、ターレンシスが挙げた名はニーチェである。ニーチェは永劫回帰という思想によってキリスト教の世界観を否定し、全ての善悪や種の優劣が人間の主観的な思い込みに過ぎないことを説いた。我々が今生きている世界には意味が無いと考えるニヒリズムにおいて彼が唯一認める態度とは、永遠に繰り返される回帰を自ら能動的に受け入れ、意味の無い物事を肯定しながらも強い意志で新たな意味を創造する(≒詩を書く)ということだけである。ニーチェは繰り返される安楽や快適を追い求める大衆を畜群と罵り、永劫回帰する人生の中でも自らの意志で新境地を切り拓くことの出来る人間を超人と呼んだ。今日において、同じ繰り返しが得意なのはヒト(動物)よりも機械であろう。それにもかかわらず(だからこそ?)、サピエンスは喜び勇んで自身の人生を機械に差し出し、自ら家畜小屋へと猛進している。永劫回帰に対する代表的な批判として、知の不可逆性が挙げられる。この本を読んでしまった私は、読まなかった昨日の私にはもう戻れない。だから、永劫回帰などなく私は回帰のループから抜け出しているというわけである。この小説は「乗れ」という声を聞いたサピエンスの問い掛けから始まる。そして、物語の最後では同じように「乗れ」という声を聞く「未来の原始人」が現れる。彼は、歴史上で最も幸せな人間とされる。しかし、その幸せを捨てて、彼は幸せになりたい一心で自らの頭脳を使って詩を書き始める。その結果、命が燃え尽きると同時に失われた多くの言葉を思い出し、彼にも「乗れ」という声が聞こえるようになる。繰り返される世界の中で、詩を書き綴る者のみが死を欠くUMAに乗ることが出来る。
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ニッチから全人類的なテーマへの美しい推移
非常にニッチな題材を元に、人類が科学技術の発展とともに抱き続けてきたであろう自由意志の問題を描ききった快作。安部公房『第四間氷期』や伊藤計劃『ハーモニー』などで論じられてきたテーマをより現代的な視点で扱っている。人間が思考停止しても生きていられる社会において、なぜ苦しみながら言葉と格闘するのか、なぜ詩を含めた創作という形で言葉を残そうとするのか。AIの発展が目覚ましい現代において、一度は読んでおきたい小説である。
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言葉と人間の関係を問う
主人公は、言葉に対して誠実すぎる競馬の実況アナウンサー。『東京都同情塔』とは違う角度から、人間と言葉の関係を問う。 作者の本を読むと、自分が普段いかに言葉を無自覚に扱い、無自覚に消費しているか突き付けられドキッとする。
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馬とヒトの歴史
馬とヒトの関係性を、過去、現在、未来に渡り九段理江の筆致で描いていくー時に馬と会話し、馬の視点でヒトを見ながら。
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傑作
雑誌に載った時、いかにも散文詩風なので敬遠していたのだが、今回読んでみたら面白かった。最初が入りにくいが少し我慢するとカタカナの名詞の羅列が快感になってくる。競馬馬の話だからさりげなく「ターフ」という言葉が現れ、最後に何だか知らないが「transsnart」と呼ばれる人間が出てくるが、このあたりが文春が単行本化を躊躇した理由なのだろう。
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ものすごく大きなものに挑んだことは伝わる。
レビュウ=ストロースさんのレビューにより、この物語のことが少し分かった気がする。前二作(『悪い音楽』と『Schoolgirl』)とは全く違う作風で、小説全体が(物語の中で特権的に扱われる)「詩」のように曖昧模糊としているのだけれど、この点で村上春樹作品を読んだときに共通する印象を僕は持った。(以下、ネタバレを含む。) 血統主義に基づいてサラブレッドを交配させるJRAのモデルを人間に適応したDNAという企業が出てくるし、その経営者一族はどうやらネアンデルタール人(ネアンデルターレンシス、ホモ・サピエンスとの生存競争に負けた過去の人類)の言葉/思考/時間間隔と血統を受け継いでいるようだ。(ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの血は交配により混ざっているので、我々の遺伝子にもネアンデルタール人由来のものが幾らか残っている。DNA社経営者達は、そのネアンデルタール人由来の遺伝子が強いのかもしれない。) ニーチェの永劫回帰について言及しつつ、ホモ・サピエンスの知を疑いつつ別の血と知を求めた者たちは、世代を経てニーチェの言う「超人」になる。 そんなお話として僕はこの小説を何とか掴んだのだが、確信は持てない。(難解で読みにくい小説であるため星は厳しめに付けたのだが、)作家が標的としたもののスケールが大きな小説であることだけは自信を持ってお伝えできる。