Mainichi Publishing Culture Award
中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
Koichiro Kokubun rethinks the concepts of will and responsibility through the old grammatical category of the middle voice, neither active nor passive. Moving through Benveniste, ancient Greek, and Arendt, the book explores how the modern opposition between activity and passivity shapes thought.
Work Information
A philosophical attempt to step outside the active-passive binary and rethink will and responsibility.
Part of the Care o Hiraku series and the relevant work for the Planning category of the seventy-third Mainichi Publishing Culture Award, after also receiving recognition such as the Kobayashi Hideo Award. The ISBN, page count, publisher, and content were confirmed through the University of Tokyo BiblioPlaza and CiNii Books. Expanded from a serialized text, it examines the formation of the concept of will and the possibility of responsibility through the grammatical history of the middle voice.
Review Summaries
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The book is valued for connecting a problem in grammatical history to contemporary issues such as addiction, will, and responsibility. Crossing philosophy and linguistics, it challenges everyday ways of speaking about responsibility.
Book Information
- Publisher
- 医学書院
- Published
- 2017-03-27
- Pages
- 330 pages
- Language
- 日本語
- Size
- 15 x 2.3 x 21 cm
- ISBN-13
- 9784260031578
- ISBN-10
- 4260031570
- Price
- 2200 JPY
- Category
- 本/人文・思想/哲学・思想/哲学
自傷患者は言った「切ったのか、切らされたのかわからない。気づいたら切れていた」。依存症当事者はため息をついた「世間の人とは喋っている言葉が違うのよね」 ――当事者の切実な思いはなぜうまく語れないのか? 語る言葉がないのか? それ以前に、私たちの思考を条件付けている「文法」の問題なのか? 若き哲学者による《する》と《される》の外側の世界への旅はこうして始まった。ケア論に新たな地平を切り開く画期的論考。 【本書「あとがき」より】 中動態の存在を知ったのは、たしか大学生の頃であったと思う。本文にも少し書いたけれども、能動態と受動態しか知らなかった私にとって、中動態の存在は衝撃であった。衝撃と同時に、「これは自分が考えたいことととても深いところでつながっている」という感覚を得たことも記憶している。 だが、それは当時の自分にはとうてい手に負えないテーマであった。単なる一文法事項をいったいどのように論ずればよいというのか。その後、大学院に進んでスピノザ哲学を専門的に勉強するようになってからも事態は変わらなかった。 ただ、論文を書きながらスピノザのことを想っていると、いつも中動態について自分の抱いていたイメージが彼の哲学と重なってくるのだった。中動態についてもう少し確かなことが分かればスピノザ哲学はもっと明快になるのに……そういうもどかしさがずっとあった。 スピノザだけではなかった。数多くの哲学、数多くの問題が、何度も私に中動態との縁故のことを告げてきた。その縁故が隠されているために、何かが見えなくなっている。しかし中動態そのものの消息を明らかにできなければ、見えなくなっているのが何なのかも分からない。 私は誰も気にかけなくなった過去の事件にこだわる刑事のような気持ちで中動態のことを想い続けていた。 (中略) 熊谷さん、上岡さん、ダルクのメンバーの方々のお話をうかがっていると、今度は自分のなかで次なる課題が心にせり出してくるのを感じた。自分がずっとこだわり続けてきたにもかかわらず手をつけられずにいたあの事件、中動態があるときに失踪したあの事件の調査に、自分は今こそ乗り出さねばならないという気持ちが高まってきたのである。 その理由は自分でもうまく説明できないのだが、おそらく私はそこで依存症の話を詳しくうかがいながら、抽象的な哲学の言葉では知っていた「近代的主体」の諸問題がまさしく生きられている様を目撃したような気がしたのだと思う。「責任」や「意志」を持ち出しても、いや、それらを持ち出すからこそどうにもできなくなっている悩みや苦しさがそこにはあった。 次第に私は義の心を抱きはじめていた。関心を持っているからではない。おもしろそうだからではない。私は中動態を論じなければならない。──そのような気持ちが私を捉えた。 (以下略)
國分功一郎(こくぶん・こういちろう) 1974 年千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学准教授。専攻は哲学。 主な著書に、『スピノザの方法』みすず書房、『暇と退屈の倫理学 増補版』太田出版、『ドゥルーズの哲学原理』岩波現代全書、『来るべき民主主義』幻冬舎新書、『近代政治哲学』ちくま新書、『民主主義を直感するために』晶文社など。訳書にドゥルーズ『カントの批判哲学』ちくま学芸文庫、ガタリ『アンチ・オイディプス草稿』(共訳)みすず書房、などがある。最近ハマっているのは空手。
Reviews
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世界の見え方を根本から転換させる、知的覚醒の書
本書は、近代西洋思想が当然視してきた「能動/受動」の区別そのものを疑い直す。 著者は、ギリシア語やサンスクリット語に存在した「中動態」という文法的カテゴリーを手がかりに、私たちが「行為」や「意志」をどう構想してきたかを根底から掘り返す。能動とは主体が外に向かって作用すること、受動とは外から作用を受けることだが、古代語においては、主語がその過程の内部にある「中動」がむしろ基本だった。それが西洋キリスト教によって、神の創造と悪の存在を整合させるために「自由意志」という虚構が発明され、能動/受動の二分法が強化されたのだろう。 この構造は、脳科学の知見とも整合的だ。脳は行為の原因ではなく結果しか意識できず、われわれは「意志に基づいて動いた」と錯覚する。スピノザが「意志は自由な原因ではなく強制された原因である」と述べたように、意志は外的・内的因果の連鎖の一部にすぎない。それにもかかわらず、社会は「責任を負わせてよい」と判断した瞬間に意志を創出し、能動的だったと再解釈する。つまり意志とは、倫理や法の制度が必要とした“方便”にすぎない。 本書の射程は文法論を超え、倫理と形而上学の再構築に及ぶ。著者が示すのは、私たちの思考が言語構造に縛られているというバンヴェニストの洞察を踏まえた「認知の考古学」だ。 中動態の視点に立てば、主体と客体、原因と結果、能動と受動の境界が溶解し、「行為すること」と「行為が起きること」が重なり合う。そこでは自己責任や罪といった概念も変容せざるをえない。 私は本書を読みながら、いずれ人類はこの中動的な認識を回復し、「責任」という虚構を超えた新しい倫理体系を築くのではないかというSF的な想像を抱いた。世界の見え方を根本から転換させる、知的覚醒の書である。
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「中動態的知」の可能性を、吉本隆明の『言語にとって美とは何か』との関連で考えてみた
1. )近代以降、知は主体の能動的活動、すなわち世界への操作・分析・対象化の作用として理解されてきた。しかしこの理解は、知をインテリジェンス(intelligence)すなわち情報処理的能力に還元する傾向を孕む。だが西洋形而上学の伝統、とりわけプロティノスやスコラ哲学におけるintellectの概念は、知の根源において「主体によって作られるもの」ではなく、「存在が自己を開示する場の受容」であることを示していた。 本稿の目的は、この「受容としての知」の問題を、「中動態」という文法的・哲学的概念によって再編成し、吉本隆明の言語論および日本語の構造との連関のもとに論じることである。すなわち、知・存在・言語の三領域において「能動/受動」の二項を横断する第三の領域——中動態的場——がどのような思想的地平を開くかを明らかにする。 2. )インテレクト(intellect)は、主体が対象に働きかけて獲得するインテリジェンスと異なり、主体の活動を弱めることによって、むしろ存在の側の「流出(emanation)」を受け取る認識態度である。知は主体の所有物ではなく、現前する存在の自己開示に同調する働きであり、ここでは主体と客体の境界は一時的に希薄化する。 この構造は、能動でも受動でもなく、「現れに巻き込まれる」という中動態的態度に近い。中動態とは、主語が行為の主体でも客体でもなく、出来事とともに変化する位置にある文法態である。したがって、インテレクトとはまさに、認識主体が出来事の生成とともにある「中動態的知」である。 3. )吉本隆明『言語にとって美とは何か』における〈自己表出〉/〈指示表出〉の区別は、この中動態的知の構造と正確に対応する。 指示表出は、主体が他者に向けて意図的に意味を伝達する能動的表現である。他方、自己表出とは主体の意図を超えて「感情や存在状態が現れてしまう」表現であり、ここには主体の操作を超えた発現性がある。吉本は、この自己表出に言語表現の根源を置いた。 この「現れてしまう」という構造こそ中動態である。主体は語りながら同時に語られており、言語は主体の外側から来るのではなく、主体そのものが出来事の生成過程に巻き込まれている。したがって吉本の言語論は、言語を「存在の発現に参与する場」として理解する中動態的言語論とみなすことができる。 4. )日本語には、インド=ヨーロッパ語のような能動/受動の二項対立が薄く、「主語の不在」や「自発・状態変化」の構文が豊富に存在する。たとえば「見える」「思われる」「雨が降る」「ドアが開く」などは、主体の意志を排し、出来事が自ずと生じることを表す。 この構造は、主体を行為の中心に置くのではなく、世界の生成のなかに主体が巻き込まれるような構えを表す。それゆえ日本語は、世界を中動態的に捉える感受性を言語レベルで支持していると言える。 5. )以上から次の結論が導かれる。 第一に、インテレクトは〈存在の流出〉に参与する中動態的知である。 第二に、吉本の〈自己表出〉は、中動態的発現としての言語の根源を提示する。 第三に、日本語の構造は、世界を能動的操作の対象ではなく、生成する現れとして受容する感性を促す。 これらは相互に通底し、知・言語・存在がいずれも「中動態的生成の場」という同型の構造を持つことを示している。 6. )「中動態」とは単なる文法カテゴリーではなく、主体の能動性に偏重した近代的認識論を揺り動かす思想的契機である。知は主体の所有や成果ではなく、存在が自己を開示する場への参与であり、言語もまた主体の外側にある世界の反映ではなく、主体のうちから現れる生成の力である。 この観点から、インテレクト・自己表出・日本語の中動態性は、いずれも主体と存在の境界において発生する「現れの哲学」を構成している。中動態的知の再評価は、知・言語・存在の三領域を統合し、現代の知の構造を再定位する理論的可能性を開くものである。
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物事に対するとらえ方がひろがる
普段、当たり前に使っている「意志」や「責任」という言葉の概念を、根本から問い直す一冊。著者は中動態という古代語の文法を手がかりに、行為が主体の内面から一方的に生まれるのではなく、出来事や関係の中で成立していく過程を描いている。 能動/受動という単純な枠組みを離れたとき、責任は誰かを裁くためのものではなく、出来事にどう関わり、どう応答するかという問いへと姿を変える。本書を通して、「自分の意志で決めた」「責任を取る」という言葉の意味が、これまでとは違った厚みをもって立ち現れてくる。 哲学書でありながら、日常やケア、支援の現場にまで思考が届く、読む価値の高い一冊だ。 先に『〈責任〉の生成 中動態と当事者研究』を読んでいたので、さらに理解が深まった。
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ぜひ一度
中動態という概念を知ることが出来るすごく貴重な書籍。社会や人間、人生の在り方を見つめ直す契機になると思います。ぜひ一度読むべき本だと思います。
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自由意志、ひいては行為者の観念は、因果関係を切断する機能を持つ、という考えが、とても参考になりました。
著者と似た考えは、仏教やラメッシ・バルセカール(Ramesh S. Balsekar)の非二元論にもあって、仏教では二諦説で究極の真理(責任はない)、世俗の真理(責任はある)と言っています。両者は、階層の違う真理として、両立しています。 ラメッシ・バルセカールは実際には行為者はいないが、社会の上では、みな行為者であると、言っています。社会には行為者はいます。なぜなら、個々の行為者なしに、社会は機能しないからです。あなたは、そうではないとは言えません。人間は、虚構によって生きています。 実際には自由意志はないですが、私たちには、見かけの自由意志があるので、したいことをすることができます。 p378 意識は語る――ラメッシ・バルセカールとの対話 あなたが「私はどんな態度を育てるべきか?」と尋ねる瞬間に、その元はまだ個人的行為者です。実際にはどんな行為者もいないことを理解して、そして、まるで自分が行為者であるかのように人生で行為し続ければ、そのときには適切な慈悲の態度が育つのです。つまり、人生において正しく適切だと自分が思うことをやりながら、他人に関しては適切な寛容の態度が育ち、自分に関してもふさわしい態度が育ちます。言い換えるなら、自分自身に対しては、最高の行動規範をもち、他人に対しては低い基準を受け入れるということです。「私はできるかぎりの愛と慈悲をもって行動しなければならない。でも他人はこの理解をもっていないかもしれないので、どんな行為が起こっても彼らの行為ではない」。こういった態度をもてば、寛容が育ちます。 P579 意識は語る――ラメッシ・バルセカールとの対話 「まるで」選択があるかのように生きる 【質問者】 現象は幻想であるという考え方全体は、ある種の罠となることもありえませんか? 【ラメッシ】 はい。それゆえ人生においては、自分は行為者でないと知りながら、まるで自分が行為者であるかのように生きなければならないということです。人間は虚構によって生きています。たとえば人間は、太陽が静止していて、運動しているのは地球だということを知っていますが、それにもかかわらず、日常生活では太陽が昇っては沈むという虚構を受け入れています。 ですからその理解は、これは幻想で、人は自由意志をもっていないというものですが、しかし人生では、あなたはまるで自由意志があるかのように行動しなければならないのです。 ラメッシ・バルセカールは、誰も何もしておらず、あらゆることは、ただ起こる、と言っています。つまり、実際には、個人に責任はありません。 最後にラメッシの言葉です。 「形而上学的原理を説明するために、実例、例証、比較を提供することが根本的に困難なのは、そういった例証は必ず相対的レベルにならざるをえませんし、それゆえ絶対的レベルで何かを説明することは不可能であるからです。」
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意表を突くタイトル、中動の起源を文法、語源から探る興味深い書。
能動と受動という二分法に中動の存在を注意喚起した書物。面白い。自動詞、他動詞、その主体の関与度合いで2つに分かれるが、受動が中動から分離したという説は面白い。 人間の行動パターンにも能動と受動の二分法があるが、対象が何かによる。仕事にも遊びにも眠りにも能動的という人は少ない。対象の選択性も論じられるともっと面白い。
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とても面白い
とても面白い
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能動態的な犯人捜しではなく、中動態的な応答、反応
日本語は主語があいまいだが、英語ははっきりしている、とかつて習った。 そして、動詞の主語と目的語を入れ替えると、能動態から受動態になると。 ところが、言葉は動詞からではなく名詞から始まった、とこの本は言っている(ように思う)。 「ぼくがあなたを愛する」「あなたはぼくに愛される」というのではなく、ただ、そこには「愛」がある、という。 ケアの世界で言えば、ぼくがあなたをケアする、あなたがぼくをケアする、というのではなく、ただそこには「ケア」という事態がある。 スピノザは森羅万象は神の表れだと言った(のかな)。花も神の表れである。花が咲くとは、神が花として現われた、のである。雨が降るとは、神が雨として現われた、のである。主語ということを敢えて言うのなら、すべては、神である。言い換えれば、主語があり目的語があるのではなく、ただ出来事、事態、場があるのだ。 能動態、主語と目的語の世界だと、責任は主語に帰せられる。わたしは貧乏になった。責任はわたしにある。 しかし、中動態的世界、能動態ではない世界、たとえば、ケアの世界では、責任は犯人捜しではなく、responsibility 応答である。 貧困という出来事が起こる。責任は、その出来事に対する応答、反応として現われる。 こんなので、あってますか? ところで、信仰義認ということがキリスト教では言われる。イエスを信じる人は神によって救われるというのだ。 しかし、これを、中動態的に言えば、わたしという個人がイエスという目的語を信じたからわたしは救われる、というのではなく、イエス、神、わたし、という場に、信頼という出来事がある、その状態が救いである、となるだろうか(ならないかもしれない)。でも、こっちの方が好きだな。
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