原発危機の経済学
Written after the Fukushima Daiichi disaster, this work treats nuclear power as a social-scientific problem of risk and cost allocation. It asks where responsibility lies for decommissioning, radioactive waste, and burdens passed to future generations.
Work Information
The nuclear crisis is examined as a question of future costs and social responsibility rather than only emotion.
NDL Search confirms the ISBN, page count, publisher, and summary. It was published by Nippon Hyoron Sha in October 2011.
Book Information
- Publisher
- 日本評論社
- Published
- 2011-10-20
- Pages
- 286 pages
- Language
- 日本語
- Size
- 13.8 x 2.4 x 19.5 cm
- ISBN-13
- 9784535556874
- ISBN-10
- 4535556873
- Price
- 2549 JPY
- Category
- 本/ビジネス・経済
将来に向けた原発事業のリスクとコストに真正面から向き合い、解体撤去や放射性廃棄物の処理に必要な資金をどう賄うか、検討する
一橋大学大学院経済学研究科教授
Reviews
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商品は問題なく入手できました。
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先端的な科学技術を論ずる上で社会科学者として必要な思考プロセス
本書は「原発技術に関する手触り感を回復するための、ささやかな試み」(はしがき)というように、第1章から第6章では原子力に関する技術的な要素を社会科学者の言葉で語る。また、第7章、第8章では収益事業としての軽水炉発電事業を成り立たせるための方法や東電の再建について経済学者の観点から検証する。最後に、第9章では、原子力、放射線に関するリスクコミュニケーションの在り方、市民としての向き合い方を論ずる。 評者には、技術的な理解について正誤を検証することはできないし、また、筆者の結論には全量地上貯蔵のように必ずしも実現性が明らかでないものやリスクコミュニケーションの在り方のようになかなか実行するのは難しいものもある。しかし、本書の意義は、「社会科学者として考えた」(本書のサブタイトル)思考過程を表現していることにあると思われる。白地からあるべき論を展開するのではなくて、すでに原発が存在し、少なくとも当面は原発に向き合っていかなければならないという現実を直視することからスタートし、技術の手触り感にまで肉薄できるほど技術的な理解に努め、その上で自らの専門知識を活用して結論に至る。社会科学者が、原子力に限らず先端的な科学技術が関係する問題にアプローチする上では、こうした思考過程をたどることが必要ではないだろうか。
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文系的視野も大切
3・11以降の原発に関する本も多く出ているが、中々すっきりと腑に落ちる気がしなかった。 反原発で構成されている本も理屈ではなるほどと思いながらもすっきりしなかった。 返って本書の経済学者である斎藤誠さんの原発への深い関心と理解によって書かれた 具体的な内容に共感を覚えた。書かれた昨年の時期と現在では大きく状況が変化していると 思います。この続編を期待しています。
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経済学者が福島原発事故を分析し、今後の方針を論じる、秀逸の原発本
原発問題となると、推進か反原発か、立場によって、議論は水と油のように、はっきりと分かれてしまう。まともな議論が成り立たない。推進派の人は、原発の必要と推進を説く論にしか耳を傾けないし、反原発の人はその陣営の論を聴き、ますます共感を深め、推進論をけしからんと退ける。特に福島第一原発での事故以降、両者の見解の隔たりは深まるばかりだ。 そこに「経済学者」が登場。事故とそれをもたらした技術的・社会的原因がどこにあるかを、詳細に、現実に即して、鮮やかに分析してみせている。ほう、経済学者には、こんな腕があるのかと、心底感心して読んだ。原発と関連事業を、また損害賠償と炉の後始末というマイナス面を、今後どうやっていくべきかについては、経済学者ならではの視点で、大胆な提言がなされているのはもちろんである。 事故後、雨後の筍のごとく、数多の原発本が、新刊・復刊・増刊された中で、新しい視点を提案してくれた点で、また、これだけ原発に関わってしまった責任を真摯に受け止めつつ書かれている点で、秀逸な一点と言えよう。原発の当事者でないからといっても、この社会の構成員として責任は免れがたいと、事故後、事実を詳細に追い、今後どうすべきかを考え続けたその結晶が披瀝されている。 経済学と銘打っているが、この本の前半分は、事故の詳細な分析に当てられている。原子力関係者の説明は、専門的でありすぎたり、あるいは立場に偏りすぎたり、専門性にこだわるあまり専門外のこと即ち全体が見えていない恨みがある。これに対し著者は、専門外にしてよくぞここまで調べかつ的確に見通したものだと感心するほど、この事故の細部と全体像を、分かりやすい言葉で解き明かしてくれている。 前半は、一般の読者にとって、原発事故について、これまで目にしたどの報告書、論文より、優れてまとまりがよく、読みやすい解説書となっている。それが成功しているのは、情報を見分け、現場に密着し、細部を逃さず見届け、専門外ゆえに未知・未経験のことにも、できる限りの「手触り感」を探ろうとしている観察者・診察者なるがゆえだろうか。経済学者に、こんな現場意識があるのかと感心する。経済学者というと、数理経済理論を振りかざし、高みにいて現実をバッサリ切る人、という先入観を持ちすぎている評者の偏見かもしれない。医学が病理や検査だけでなり立つはずはない。むしろ、臨床医が患者に直に対面して、あらゆる兆候を見通し、evidenceを総合的に判断して、真の病因を突き止める、それが医学の現場だろう。それと同じことをする経済学者がいてもおかしくない。「臨床経済学」とでもいうべき実例がこの書である。 事故の経緯を見るに当たって、経済学者の眼は「東電経営者は、炉心溶融を回避することができたか」に向けられる。地震・津波に対する炉の安全に関して、事前に何度かの警告が発せられていた。それを軽視して対策をとらなかった。事故が始まったあとも、事故の拡大を阻止する果断な判断を躊躇した(ベントや海水注入)。その点で民間企業としての経営責任を厳しく問うている。その責任追及は、投資家にも金融機関にも向けられるし、リスクを当然覚悟して引き受けるべきであったと、地元自治体にも地域居住者にも向けられる。 事故の考察は、次第に事故をもたらした背景へと向けられていく。設計寿命を超えた古い、地震国日本に合わない原子炉を無理して動かしていなかったか。そして使用済み燃料という呪縛。そこで著者は、核燃料サイクルと高速増殖炉なるものが、決して夢のあるものでなく、原発を経済社会に、特に立地地域に受け入れやすくするためのフィクションであった、決して実現可能なものではなかったと、見抜く。 後半、今後の対策を論じる部分は著者専門の経済学の出番である。そこでも、現実を現実的に見ていくという著者の視点は一貫している。安易に脱原発すればいいとはいかない。脱原発自体が莫大な資金と時間を要する大プロジェクトである。すでに存在してしまった54基の原発と、すでに産み出され、これからも出てくる使用済み燃料の後始末をつけるという、何世代もかかるプロジェクトである。資金も人的資源も必要だ。 著者は、意外にも(私には)原発を動かし続け、それを収益プロジェクトとして維持しないことには、この撤退プロジェクトすら成り立たないと見る。詳細は本書に譲るが、今後の対応として、民間で本来やるべきこと(損害賠償の支払い)をきちんと行うため、民間でどうにかできること(軽水炉発電の維持)が必要とする。そして、福島原発の後始末(それを著者は「フクシマ再生プロジェクト」と提案している)は、国家としてやるべきものと考える。また、その前提として、再処理・高速増殖炉からの撤退を、国家が電力会社とともにやらざるをえまいとしている。その際、使用済み燃料については「全量地上貯蔵」が唯一の解だと見ている。 福島原発事故があれだけの規模の被災・避難をもたらした事故直後に、事故原因の解明も廃炉処理の見通しも立たない段階で、原発を動かし続けることを社会が受け容れるか、私は疑問を持つ。これについて著者は、市民社会がリスクをもっと合理的に議論し、受け容れ、「原発とうまく付き合っていけるかどうかにかかっている」としている。 事故の原因究明、そして原発と関連事業の今後についてどう考えるか。これは、ポスト3.11の日本社会に責任を持って生きようとするすべての人にとって、避けることのできない問題である。本書はその問題を考えるため、広範な問題に最良のヒントを用意してくれた。著者の処方箋に賛成するにしても、反対するにしても、現実的で実りのある議論が、ここから展開されることが期待される。 なお、著者は再生可能エネルギーへの転換問題に、禁欲的かと疑うほど、全く触れていない。私はそこまで含めないと、問題の解は得られないと考える。この著書の延長線上で、お考えを伺いたいものだ。
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経済から原発を見ると実態がよく分かる
事故後、まずは政府と東電の対応、次に技術面での欠陥、有事対応能力の欠如が徹底的に批判されて、 最後は経済学的見地(関電の経営、国内産業の空洞化、生活の不便)で再稼働が決まった原発のハナシ です。経済学者が、中立的立場で考察を行うのが、結局、最も日本の原子力産業の実態を表していたと いうことになるというのが、レビュワーの見方です。 原発危機は、国策であるエネルギー問題、財務問題、景気問題、あらゆる問題に直結して来ます。 したがって、産業の監視役であるべき原子力保安院や東電の機能喪失は大きな影を落としました。 一部には新設の原子力規制庁を外国人で構成するという突拍子もない案が出ていたりしますが、これは これで一つの考え方かも知れませんが、敢えて個人的意見も書きません。独立国家の体面を政治的に かなり傷めることになるので、立場が立場であれば賛成できない意見でしょう。 ただ一つだけ云えるのは、、これだけ危険極まりない技術を便利使いした挙句に利権産業化させてしまった 日本の罪状は非常に重く、国際的に後始末の責任を負わされる危険が増して来た業界である、これは はっきり云えることかも知れません。大変残念なことだと思っています。
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きわめて冷静な議論
筆者にとっては専門外である原発の仕組みなど技術的なことに関して、”手触り感”を重視して分かり安く概説し、 その上で、専門である経済学に引き寄せて解説されている。 最近も議論されていたが、多くの原発が老朽化(運転開始40年以上経過)しており、一般的な技術のturn overを考えると寿命を迎えており、 順次、停止させていくべきであること。 及びこの古い原発を稼働させておくことが、電力会社の経営判断および危機における判断に大きな影響を及ぼしうること。 再処理・高速増殖炉が割に合わないこと。 しかし、一概に原発反対というわけではなく、今般の状況での運用可能性についての考察。 等について述べられている。 確かに”手触り感”のある議論・考察であった。
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中立の立場で細部まで具体的定量的に論じている
福島第一原発の事故の問題点を整理し、日本が今から取り得る現実的な過程を経済学の観点から提言している。 本書の大部分は原子力技術と事故の事実関係の確認に宛てられ、福島第一原発の事故の、初版時点での総括の書ともなっている。 特筆すべきなのは、政治的思想的に中立の立場で論じていることと、信頼に足る情報を出典を明示しながら使い、細部まで具体的定量的に論じていることである。 周到な準備もなく全原子炉の運転を終了させたら、収益機会を失うことになり、原発の撤退プロジェクトそのものに資金も人材も投じられなくなり、経済社会にとってとてつもない脅威となること。原発のリスクとコストに真正面から向き合い、"力強い意志決定"をすることが求められること。(はしがき) 再処理・高速増殖炉事業から完全に撤退すれば、廃炉などのバックエンドの費用を考慮しても、軽水炉発電事業が収益プロジェクトとしてどうにか成り立つこと。(274頁) 事実関係の確認と今後の施策の提言は、世論の大勢のように報じられている運動的主張とは異なる部分がある。 著者のような識者が誠実に調べ考察した所論と、世論の大勢と思われる主張とが、議論の立て方からして異なっている。我々日本人の集団的思考の型に深刻な問題がないかという懸念を覚える。 事故を「想定外だった」という立場と「絶対安全だと言っていたのに、全く信じられない」という立場とは正反対に見える。しかし「福島第一原発の危機的な状況の現場に、今、まさに自分がいること」に対して、過去の自分の決定の積み重ねが何らかの形で作用していることが事実であるにもかかわらず、その事実を真正面から受け止めていない、という点が共通しているという(241頁)。 全編眼から鱗。納得した。もっと早くこの本を知りたかった。
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多くの文献をに裏打ちされた高い知識と、飾らない文章に好感が持てた。
あの事故以来、原発に関連する多くの本を読んだ。 そういう中で本書は、原発の構造、放射線、電力、東電問題などをほぼ網羅し、科学的知見も深く、廃棄物の処分も含めた経済学的側面までも検討した力作である。 前半は、軽水炉の構造を大量の水のイメージ(毎時100万キロワットの原子炉で必要とされる冷却水は毎秒20トン、荒川や多摩川の水量に相当する!)に重ね合わせ、通説にあるような非常用炉芯冷却装置がたとえ稼働したとしてもくまで応急措置であり、運転停止直後は毎時30トンというレベルの水がなければたどる道は同じではないか、いやそれどころか津波が来る前に相当大見なダメージを受けていた可能性も指摘する。 いずれにせよ、今回の事故は「大津波⇒電源喪失⇒炉心溶融」という図式だけではないことを指摘する。 また、ベントについても詳しい。もともと福島第1原発にはベント用の排気管は設置されておらず、チェルノブイリ事故を受けて1999年に設置された。しかし、欧米ではウェットベントに加えてフィルターも設置し周囲への放射性物質の拡散をぎりぎりまで抑えようとしていたのに対し、日本ではフィルターを設けていなかった。というのは、周辺への放射性物質の漏洩をおそれてベント自体に消極的だったというからお粗末である。 さらに本書で秀逸なのは、核燃料サイクルと高速増殖炉のコスト計算である。一般に我々は核燃料サイクルによって、プルトニウムを再利用し産出される核廃棄物を大幅に削減できると信じさせられてきたが、そもそも高速とは中性子のことを呼ぶのであり、プルトニウムの増え方はあくまでゆっくり(倍増するのに48年!)でMOX燃料を作るコストはウランの10倍にも達するという。 また、事故後早くから示されていた東電の損害賠償スキームについては、純粋に会計処理の面からみて、まず無理だろうと予測する。 著者の見解を総合すると、 軽水炉発電は現状維持か時間をかけて縮減。 使用済み核燃料の再処理と高速増殖炉は撤退。 東電は、更正会社として株主及び債権者は応分の負担を負う。 東電はその電力設備を売却しおそらく天文学的になるであろう賠償責任専門の会社とする。 一方、国は事故処理とフクシマ再生に取り組む。 というようなものである。 いずれにしても、ここまで原発を作ってきてしまっている以上、原発推進にしても脱原発にしても無責任な主張であると著者はいう。 一方で、原発が立地している地域の住民は、原発立地に際して電力会社が説明してきた「絶対に事故は起こらない」というロジックはありえないと理解するしかないともいう。 多くの文献をに裏打ちされた高い知識と、飾らない文章に好感が持てた。 そして、この言葉が胸に響いた。 「ロジックを積み重ねることで本質を見るのではなく、レトリックを連ねることで、他人をそして自分を欺いてきたことの代償は、電力会社も政府も原発を受け入れた地元も、そして原発に依存して日常生活を過ごしている市民も必ず支払わなければならない。」