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「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか

Mainichi Publishing Culture Award

「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか

Hiroshi Kainuma

This sociological study analyzes how Fukushima came to accept nuclear power and form the structure called the nuclear village, through postwar growth, center-periphery relations, and local dependency. It asks about long historical structures beyond post-disaster emotion.

nuclear villageFukushimapostwar growthlocal society

Work Information

It reexamines what turned Fukushima into “Fukushima” through postwar growth and local structures.

Published by Seidosha. The Fukushima-born author traces the history of nuclear-hosting communities, development policy, and local consciousness, analyzing the nuclear village from the side of local society.

Review Summaries

  • The book is valued for moving beyond emotional post-disaster opposition and showing the history of local nuclear acceptance as a social structure. Its subject is heavy, but it offers a way to think about center-periphery relations.

Book Information

Publisher
青土社
Published
2011-06-16
Pages
412 pages
Language
日本語
ISBN-13
9784791766109
ISBN-10
4791766105
Price
2420 JPY
Category
本/ノンフィクション

“大文字” 言葉で書かれたものばかりの 「原発本」 の中で、福島生まれの 著者による本書は、郷土への愛という神が細部に宿っている。―― 佐野眞一 原発は戦後成長のアイコンだった。フクシマを生み出した欲望には、 すべてのニッポンジンが共犯者として関わっている。 それを痛切に思い知らせてくれる新進気鋭の社会学者の登場!―― 上野千鶴子 原子力ムラという鏡に映し出される戦後日本の成長神話と服従のメカニズム。 本書の刊行はひとつの奇跡だ。―― 姜尚中

Reviews

  • フクシマを考えるために

    まずはじめに、東大大学院の博士課程に在学する研究者の修士論文が、 こうした値段で一般の本屋に並ぶという状況。これこそが3月11日の震災による 原発事故の起こした状況の中で生み出された皮肉な結果である。 その現実はあまりに重く、今なお収束をみせない事故や放射能汚染も伴い、 子どもをもつ母親として深く深く気持ちを沈ませる。 私が震災以後ショックだったのは、浜岡原発が停止したときにテレビに登場した 子どもをもつ若い母親が言った一言。 「浜岡は動いてほしいです。だって福島みたいになるかわからないし」 どうして、反原発と言わないのだろう?なぜ福島の人は東電を責めないのだろう? なぜ東京の人間は福島や他の地域に危険な原発を作って平気な顔をしているのだろう?。 震災以後、多くのメディアが福島を取り上げていたが、「原発か反原発か」という硬直した 二項対立に消耗する中で、本書を知った。 筆者は歴史研究家ではない。それでもフィールドワークから歴史修正主義に対抗する視座を 獲得しようとしてもがき続ける。そして原発は誘致が始まったら最後、 そこから逃れることはできないし、やがてそれは原発をおきたい中央(国家政策)と おかれたいムラが共鳴し強固な原発維持の体制を維持することになる。 本書はいかなる読まれ方もされるだろう。私たちが今置かれている現状は、 福島の人たちが家を追われ土地を失い、共同体や家族を失ったという事実。 だが一方で、福島の人たちは筆者のいう「愛郷の実現」(293頁)の ために自発的にまた能動的に原発を受け入れた。しかしながらその結果、福島の人々が難民のように 土地や家族を失ったという現実はあまりにも残酷な結果である。 ありきたりの解決法や希望はあえて書かれていない。 しかし、福島の人々がどのような経緯で原発に寄り添って生きるようになったのか。 私たちはその経緯を知らずして反原発を唱えることはできない、と心底思う。 どんなにそれが辛い事実であったとしても。 本書は今後、フクシマを考える際に間違いなく必読書とされる学術論文となった。 福島県出身の筆者の格闘と苦しみに、心から拍手したい。

  • 買いです。

    2011年の「フクシマ」原発事故を、1995年、1945年、1895年と大きく50年刻みの、「国ー地方ームラ」の相互の関わりや在り方の変遷を通して考察した一冊です。 序章が東京大学大学院の修士論文ということがあとがきで述べられており、用語や、考証の手続きが、新書などと比べると多少迂遠であったりもしますが、感情や印象、先入観に流されずに何かを考えるには、こういった積み重ねが必要であると再認識させられました。

  • よくできた修士論文

    よくできた修論である。 だが、これまで原子力を受けれてきたムラの論理が理解されてこなかったという問題意識には大きな問題がある。内橋克人や鎌田慧の著作などを読めばわかるように、原子力を受け入れて来た人々が一方的な被害者といった受動的な存在ではないことはかなり以前から伝えられてきた。 著者はフィールドワークを行いムラに迫っていくが、内橋や鎌田などには遠く及ばない。 また論理が先にあり原子力ムラの分析から結論や主張が導き出されたとも言い難い。スピヴァクが好きなのはわかるが、突然引用して何か言った気になるのはやめて、とりあえずもっと勉強した方がよいだろう。後半のよくある冗長な社会分析はカットしてしまった方がよかった。 インタビューでの著者の物言いが話題になったが、修論を書き終えていきなり出版されて「自分が第一人者だ」とが勘違いするのはよく理解できるが、単純な二分法が蔓延してきたわけではないし、著者が考えるよりも多くのことが考えられ、言われてきたことを知るべきである。 修論としては力作だが、ムラの人々に迫りたいのなら、内橋克人『日本の原発、どこで間違えたのか』、鎌田慧『日本の原発危険地帯』、堀江邦夫『原発ジプシー』、樋口健二『これが原発だ』などを読むことをお勧めする。

  • 県政のまとめとしては有益、フィールドワークはあくまで原発のお膝元のみ

    【まとめ】この本において著者は原発のお膝元で、なぜ、どのように原発が肯定的に受け入れられているかを描き出そうとしています。第一に双葉郡の住民20名弱から得られた発言を、地元の村史や地元紙の記事をとともに紡ぎあわせ、彼らが原子力に対する科学的な知識をなしに、漠然とした希望、特に村興しの起爆剤になるという期待を持って原発を受け入れたことを描いています。このことを著者は(植民地研究の文脈から)「自発的な服従」、また「漠然とした信心」と称し、それに苛立ちを覚えています。第二に佐藤栄佐久元知事へのインタビューも行いながら、戦前の水力発電所開発からの歴史をひもとき福島県政が中央との強いコネクションを元に原発を誘致したことが記述されます。 【学術的な問題点】社会学者、取り分けカルチュラルスタディーズを専攻とする著者にとっての売りは第一の「認識」の問題なのでしょう。しかし、その点については学術的に不十分であり、また「フクシマ」論としてはミスリーディングな議論が多いです。 端的に言えば、ここで書かれている住民というのはあくまで原発のお膝元である双葉郡についてのみであり、その住民の選定もどこまで客観的に行われたかは疑わしく、これを福島県民全般に広げることはできないことに読者はよく注意すべきです。 - 対象の選定:著者は「葛藤がなかった」ことを理由に対象を福島第一・第二原発(双葉郡富岡町、大熊町)に絞り、この地区で原発が肯定的に受け入れられたとしています。しかし同じ福島県海岸部でも、双葉・浪江原発は反対運動のため建設は進んでいません。このことの重要性は著者は認識しているにもかかわらず、数頁しか割かれません。 - 社会調査の記述:原発との利害関係に関わらず原発に肯定的だったというテーゼを証明するために、聞き込みの対象としては原発と関係しない住民を選んだとしています。まずその聞き込みが20人弱という少数であるのは、このような非統計的調査では仕方ないでしょう。しかし各住民の特性は住所と年齢・性別しか与えられず、またどの発言がどの住民のものかもわかりにくいです。従って各発言から著者が導き出している結論について、読者が検証することはできません。 - 対象の厳密さ:著者は社会調査だけでなく様々な史資料で彼の考察をサポートしています。県政についての史資料を使うのは、原発立地のプロセスを考えれば当然ですし、そこで福島県の政治家が中央に対して能動的であった旨の描写は注目に値します。他方で地元住民の認識を論ずるところで、たとえば相馬・いわきの詩人、常磐炭鉱の労働者の言説を引いているのですが、これらはいずれも原子力や双葉郡とは関係なく、ただパラレルであることが仮定されているだけです。 著者は本の冒頭において(双葉と限定せずに、また実際「平・湯元」への言及からするにいわきの住民の声として)、いまだに福島県民が原発に対して肯定的であり、ともすればこの事故を雇用の機会として捉えているかのように読者に印象付け、そして著者の憤りを共有させようとしています。しかし、まず調査対象である双葉郡においてもどこまで一般的な認識かは疑わしく、そしてそもそも双葉の調査でしかないものをあたかも「フクシマ」全般に演繹することはできないでしょう。 本の中では、双葉郡が「福島のチベット」と言い、県内の経済格差をクロスセクションの図も用いて表しています。その図をよく見れば同じ海岸部の中でも相馬やいわきは比較的豊かであったことがわかります。また私自身がこの夏に相馬を訪ねたときの住民の方々の声からも、(人によっては事故前から)原子力に対してさほど肯定的でなく、東電・政府(また人によっては立地を受け入れた地元の町村)に対して憤りを強く表していました。 ※ 一般読者にとっては問題ではないでしょうが、ここで引用される学術文献が日本での原発に関する社会調査と、スピバックその他の社会思想に限られています。私は社会学者そのものではないのですが、アメリカの社会学の文献(そもそも非日本語の文献)もきちんと調べたのでしょうか。また日本語であっても社会学以外の地域研究も狩猟したのでしょうか。とりわけ、理論部において著者の貢献がどこまで独自なのかは、彼が引用する文献リストでは不分明です。修士論文であれば尚更、大風呂敷を広げる前に、対象がどんなに小さくとも厳密にし、また貢献もどんなに小さくても明確にすべきでしょう。 【アクチュアルな問題】原発の立地する双葉郡を対象とした著者の調査は十分に意義のあるもので、先述のような問題はあるにせよ更に発展させるべきでしょう。しかしこれを「フクシマ」論と称し、また著者も積極的に「福島県」出身(ただし「いわき」であり原発の地元ではない)を触れ回っているのは、誠実さに欠け、また現在の情況を鑑みるに有害だとさえ言えます。 すなわち、この本が売れる土壌として、人々がもはや双葉のみならずフクシマ全体が放射能に汚染され、また原発立地の当事者と看做してる情況があります。他方で、双葉はともかく、一般的な県民には(ごくわずかの核燃料税を除けば)原発による利益は無く、むしろ今は大なり小なりの放射能汚染を蒙り、そして「フクシマ」というだけでの負のレッテル張りに悩まされています。ウェブ上や私の周辺でも、福島県出身というだけで原発の恩恵を受け、そして原発を積極的に推進した咎を負わせようとする心無い人が十二分にいました。 そのような情況の下で、双葉郡住民が積極的に受け入れたことを「フクシマ」の問題手として提示するのは、著者と出版社にとっては派手に売るよい戦術であるものの、「フクシマ」や県民に対する誤解を増すばかりです。いわきも原発の交付金は受けておらず、原発の恩恵は大きくない一方で、今は(放射能の線量はさほど高くないにもかかわらず)震災直後に物資は滞り、いまも観光客は激減しています。(相馬、会津、郡山、福島市等々もしかり。) 著者はそのいわき出身であり、むしろそのような誤解を解きたいと思ってしかるべきなのに、本では県内の違いをぼやかしています。そして佐野眞一氏からの献辞でも見られるように、あたかも調査対象である原発そのものの地元出身であるかのように思わせ、特権的なポジションを甘受することに躊躇が無い。(そもそも「あとがき」において国道六号沿いの風景を殊更に醜く描写しており、これを読むと佐野氏が言う「郷土への愛」があるとは思えないでしょう。) 私はこのような著者のスタンスと売り込み方に強い憤りさえ覚えます。 【追記 2011/8/18】著者の最近のtwitterを見たところ、私のコメントと同様に福島県内での多様性に目を配るべきではないかという著者にコメントしている社会学系の研究者がいた。それに対し著者は、この本では問題設定を(本文中で)原発立地村に限定しており、そのようなコメントは「鳥類図鑑が載っているのに蝶々が載ってない」というクレイムと同じだと返している。 もしも著者と同じ例えをするならば、著者はまず烏(原発立地村)の調査だけで鳥類図鑑(「フクシマ論」)と銘打って、更に自分が鳩(「いわき」出身)だからといって烏の気持ちもよくわかるという売り方をしている。しかし上述のように、烏の言うことを持論に合うように都合よく解釈している傾向があり、また検証を不可能にさせている。そして都合よく機会主義的に「フクシマ」の意味を広げたり縮めたりしている。この2点に、社会科学者として、また今この時期に発言する者としての不誠実さを感じる。 著者はトークショーやベストセラーランキングをRe-tweetしたり、行政とのコネクションを作り、自分を売り込むことに忙しいようだ。しかし、この本自体は所詮は内実共に「修士論文」でしかなかったのであり、自分の論の不完全さを素直に受け止め、世間に大風呂敷を広げるのをやめたほうがいい。またそのように諭すのが、吉見俊哉氏や上野千鶴子氏といった指導教官の為すべき指導ではないだろうか。

  • 「フクシマ」なのに、なんともおだやかだが力強い読後感

    「あの日」の高度を思いっきり上げて、ズーと遠くまで見渡せるようにする。150年ぐらい前の地平線まで見晴らしが良くなったら、沖縄が日本に取り込まれた明治の黎明期まで、時代をさかのぼっていく。村会議の議事録から、アメリカCIAの外交メモまでもあくまで丹念にひも解いて、白地図を埋めるように自分の見晴し台の周囲に一つ一つ書き込んでいく。 そして、あの日、自分が立っていた見晴し台が、歴史の文脈の中でどんな経度と緯度に立っていたのか、自然にわかるようにする試みに没頭する。この地図を作製した開沼寛さんは、東大大学院生で弱冠29歳。ふるさと福島をあくまで押さえたトーンで決して表立って、感情を持ち込まずに描いた。それが逆に彼の声を心の深い位置まで届かせるので、ボリュームの割にとても読みやすい。 その一瞬一瞬で道理に合っていても、その立っている場所そのものがが既に不条理だとしたら、人はボタンを掛け違えていることに気づかない。その小さなボタンの掛け違いが、あらゆる場所とレベルで静かに進行して、最終的に『あの日』すべてを失う巨大な不条理にたどり着いた。自然の不条理はいつか和解出来るが、人間の引き起こす不条理には怒りが沸き起る。ただ、それをぶつける対象は、図に出来る程単純ではないことが、良く分かった。 見晴し台の前方に広がる空間にこれから何が書き込まれるだろうか。僕はこの若い社会学者に「少し、頭を冷やせ、先はまだまだ長いぜ。」と肩を叩かれたような気持ちになった。「フクシマ」なのに、なんともおだやかだが力強い読後感がうれしかった。

  • 中央と地方との関係にせまった一冊。原発論と思って読むとものたりないかも。

    戦前までさかのぼり福島県が原発立地自治体になった経緯がよくわかる。福島県は炭鉱や水力発電で日本のエネルギーに貢献してきた歴史があり、立地自治体になったのは偶然性もあるが必然性もあったのだろう。 「本書は原子力や原発それ自体の研究ではない。」「本書で解き明かしてきたのは、今日みられる地方の自動的かつ自発的な服従の歴史的形成過程だった。」とあるように、本書のメインテーマは中央と地方との関係。中央と地方との関係に植民地性や切り離し、排除・固定化、隠蔽などを見いだしている。 原発はメインテーマではなく、原発を通して上記のメインテーマに迫っている。従って、原発の問題点(事故の影響や核燃料サイクル、使用済み燃料問題)についての言及はほとんどないし、原発の是非について何か主張があるわけではないので、そこに期待して読むと物足りないだろう。ただ、インタビューや資料引用も豊富で、読み物としてはなかなか面白かったです。 原発の是非に関心のある者としては、原発の問題点に加え、立地交付金などの原発を支える制度面をしっかりと書いて欲しかった。原発による成長は、将来世代への抑圧の構図も持っている。今後は時系列の視点をもった研究に期待。 新自由主義、小泉改革、電力自由化への理解が浅いままイメージで語っている印象を受けた。 「現在少なからぬ地方が、新自由主義的な政策のもとで競争に放り出された状態にあるのだとすれば」「その実態が「地方同士が生存を求め合いなりふり構わない弱肉強食の闘争のなかに追いやられるあり方」になっていくことはこれまで見てきたとおりだ。」 日本は新自由主義的な政策をとっていると本気で思っているのだろうか?日本は、個人の面では競争社会になっているが、地域間競争という意味では日本はまだまだ社会主義的な国家である。地域、地方は自由な競争に放り出されていない。一長一短あるが橋下氏らが主張しているように地方が自立できないなど弊害の方が大きいのでは? 今後の期待を込めて3点。

  • 「処女作には全てがある」という言い方もあるとするなら

    分厚い本であったが一気に読み切った。大変引き込まれた。感想は三点である。 一点目。著者が353頁で言いきっている通り、本書は原子力や原発に関わる本ではない。あくまで原子力と原発という「素材」を通して見えてくる、日本の近代から現代に渡る地方と中央の歴史である。地方がどのようにして、中央に取り込まれてきたのか、若しくは中央が取り込んだのか、もっと言うと結果として地方が能動的に中央に取り込まれるようにしたのかを扱った著作である。 従い、素材としてはおそらく原子力や原発で無くても本書のテーマは成立したと思われる。但し、著者は原子力と原発に「地方と中央の在り方」の縮図を見つけたということである。おそらくそこに著者の慧眼がある。非常に鮮やかに、いやむしろ鮮やかすぎる位の切れ味が本書にはある。 二点目。大震災の発生に伴う福島原発の事故の為に一気に本書が刊行されたと僕は理解した。著者は本書の冒頭部分を事故前に書いたという点は僕らとしてきちんと踏まえて行かなくてはならない。では事故が無かったら本書はどうだったのだろうか。それを考えることには意義がある。 今回災害を経験して感じたことは、災害とは引き出しの奥に隠していたものを一気に机上に乗せてしまう力であるという点だ。災害の発生によって「隠していたもの」が見えて来た中で、本書の視点の切れ味が初めて光っているということだと思う。特にフィールドワークを通じて、原子力ムラに住んでいる方を従来の紋切り型では無い形で浮かび上がらせた部分は、今回の災害を経たことでリアリティーが増したと僕は考える。 三点目。本書の射程距離は実は誠に大きく長い。直観的だが、その「大きく長い」という点を「若書き」とする批判も出てくるような気がする。但し、実際に著者は若いのだ。「処女作には全てがある」という言い方もあるとするなら、著者の今後の展開を大いに楽しみにすることは僕の権利である。

  • 社会学というフィールドの凄みさえ感じさせる本であると思う

    著者は1984年生まれ。この本の刊行当時、若干、27歳という若さであった。帯には指導教官でもある上野千鶴子が「新進気鋭の社会学者の登場」との推薦文を書いているが、私もそう思う。他のレビュアーは、調査手法の拙さ、などから本書を評価していないものもいるが、この著書が凄まじいところは、原発というメディアを通じて、明治維新以降の中央の地方支配の深化、そして日本の成長神話と服従のメカニズムをみたというその視座であり、その眼力である。私は門外漢であるが、社会学というフィールドの凄みさえ本書は感じさせる。それは、フォーマリティーに則っていないといった方法論に対してのケチな言いがかりが空虚に空回りするような、世の中の構造を分解整理し、それを解説するための論理を組み立てていく、その編集力の凄さであると思われる。若い頃にこんな本に出会ったら、社会学に惹きつけられたかもしれないとさえ思わせる。加えて、本書は3月11日以前に書かれた。そのために原発事故というノイズが入っていないで、フクシマを生み出した成長という欲望をバイアス抜きでしっかりと捉えることに成功している。その事実は奇跡的であるし、その結果、読者は原発立地地区の現実をより客観的に理解することが可能となっている。どっしりとした読後感を覚えた。

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