作品情報
『天狗争乱』は、歴史小説を入口に人間の心の動きを描く作品。
幕末の水戸天狗党を題材に、理想と現実のはざまで揺れる人びとを描く歴史小説。政治的な熱狂が個人の運命をのみ込んでいく過程が重厚に描かれる。
書籍情報
- 出版社
- 朝日新聞出版
- 発売日
- 1994-04-01
- ページ数
- 451ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784022567246
- ISBN-10
- 4022567244
- 価格
- 2780 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/文芸作品/日本文学
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レビュー
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歴史を通して同じところ(場所)を再認識する
自分が生活していたところにこんなことがあったのかと再認識できる。 教科書とは違うドキュメンタリーに近い感覚。
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幕末の裏側はこうでした
本作の著者は歴史上の汚点を見事に活写させ、手加減無しです。 水戸天狗党の乱は兼ねてから知っていましたが、この度、その真実が明かされました。 凄まじい長編でしたが、武家政権のおしまいがこんな悲痛、凄惨な事実。歴史を知りたい方には是非読んで頂きたい傑作です
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天狗党とはなんだったのか?
水戸藩の尊王攘夷派のうち、激派が横浜港鎖港を目的とした挙兵を筑波山にて行い、福井県敦賀にて降伏するまでのおよそ1年を取り上げている。天狗党は北関東で軍資金集めのため、半場、恐喝・強要・放火・傷害・人質強要などを起こす、暴力団と化していた。この情勢時に水戸藩士の要請を受けた水戸藩主徳川嘉篤の要請を受けた水戸支藩松平頼徳が領内取り締まりの名目で名代で水戸へ赴くことになると、尊王攘夷派の鎮派である、榊原や尊王攘夷檄派である、武田耕雲斎らが加わり、当初は幕府の命令という大義名分があったものが徐々に薄まっていった。そこへこの情勢を聞きつけ、自ら暴力団と化し、幕府から討伐対象になって困っていた天狗党が合流することになり、和合した松平頼徳らと天狗党の一団は賊徒とされ幕府の討伐対象になってしまった。茨城は那珂湊に、2か月あまり立てこもり、幕府に連勝していたが松平頼徳が甘言に騙されおびき出され殺害され、幕府に逆らいたくない穏健派の榊原ら1千人らは那珂湊にて降伏、残る天狗党と尊王攘夷激派の武田ら800人余りは行き場を無くし、合流し、京都の一橋慶喜を頼り、上京を目指した。しかし、慶喜は自ら天狗党の討伐を命ずるよう朝廷に頼み、討伐に乗り出した。それを知った天狗党は頼るべきものが無くなり、慶喜に降伏、結果800余名のうち、352人が死罪、24人が拘禁中に病死、110人が遠島(これは幕府により船を回すよう依頼された薩摩藩の抵抗により実施されなかった)、他追放(後に赦免された)となった。遠島に処されたが赦免された武田耕雲斎の孫の武田金次郎ら110人が朝廷の命令で水戸に帰るところで本書は終わっている。 本書の感想として、一橋慶喜(徳川慶喜)に天狗党が裏切られたと強調しているが、それには強い違和感を感じた。 まず天狗党は挙兵する前に藩主や慶喜に意見を主張し、頼るべきであった。やむを得ず挙兵するのしても、藩主の同意を得るべきであり、これが得られないのであれば、当初から天狗党は暴力団となる運命にあったと言わざるを得ない。要は藩主慶篤や慶喜にとって(いくら賛同するところがあったとしても)家臣が勝手に反乱を起こしたに過ぎない。それを慶喜がかばいだてすればどうなるか?松平頼徳と同様に賊徒となり、切腹になるだけであろう。別に挙兵に同意しているのでないのだから裏切っていない。それでも裏切ったという者は自分だったらどうするのか?切腹覚悟で天狗党をかばいだてするのか? 本書で詳しく述べられていないが、武田金次郎は水戸へ帰洛後、水戸の尊攘派に敵対した門閥派に徹底的な報復を行っている。そして金次郎はその後落ちぶれている。こういうことを考えると、赤穂浪士事件のとき、浪士の切腹を主張した、「今処刑しないで、生きながらえさせ、将来身を持ち崩した場合を考えると、今処刑したほうが良い」とした主張を肯定出来る。金次郎も敦賀で処刑されていたほうが良かったのだ。18歳と(今でいうと高校1年生)若年で処刑を免れたとなっているが、天狗党で処刑された者でもっと若年の者は複数いるし、武田耕雲斎の子供で3歳で処刑された者もおり、不公平だ。親が賊徒を理由に3歳の子が何故処刑されねばならないのか?今武田耕雲斎の銅像が飾られているが、むしろこの3歳の子供を表彰するべきであろう。金次郎も18歳といえ、親や祖父の意向に逆らって行動できたはずで、処刑されても決して理不尽ではないが、3歳の子供に選択の余地はないであろう。 また耕雲斎らの家族らがどのような処分を受けたか、本書とその他の資料で異なることも注意が必要である。 那珂湊で松平頼徳と天狗党の一派は2千人程の戦闘力を有し、幕府・諸藩討伐連合軍を圧倒していた。連戦連勝であり、時には自軍の10倍くらいの損害を与えていたこともあった。頼徳が幕府に逆らうつもりは無かったが、もはやこれまでと覚悟を決め、水戸城を総攻撃でのっとっていたら随分変わっていたと思う。しかし甘言に惑わされおびき出され、処刑され、穏健派1千人が投降してから情勢は変わった。激派と穏健派が供に戦っていれば勝てていたのだ。しかし激派と違って穏健派は幕府に逆らってまで抵抗する気はなかったのである。水戸藩内の抗争までの覚悟であった。 私の考えでは激派と穏健派は投降前に話し合いを持っていたと思う。その証拠に天狗党の幹部飯田は戦いで負傷し、歩行不能となった。穏健派幹部の富田三保ノ介の従僕松本嘉吉と偽わり、投降した穏健派に紛れ込んだ、とある。天狗党からすれば誰が穏健派にいるか詳しくないだろうし、勝手に詐称すればばれる恐れが高い。ということは穏健派の了承を得ていたと考えるほうが自然だ。降伏条件が天狗党討伐への協力ともなれば、そのままでは投降後戦わなければならない。榊原らからすれば、戦えば死傷者が出るから嫌だし、2か月ほど一緒に戦ってきた仲だ。仲間意識は多少なりともあるだろう。出来れば穏便に那珂湊を退去してもらいたいのではないのだろうか?とすれば事前に会合をもっていたとしても不思議ではない。その席で、天狗党はおそらく反対したであろうが、榊原らの決意は固かった。ならば、ということで、飯田ら負傷者や継戦意欲の無いものの引き取りを要請したのではないだろうか?そして投降日の朝までに那珂湊を引き払うこととした、と考える方が自然だ。 天狗党からは飯田らが、逆に穏健派で投降に反対の者、耕雲斎・鮎沢・三木らは天狗党に移った。穏健派の投降条件に死罪にしないというのがあった。 ところが敦賀で天狗党が降伏・処刑されると、幕府は手のひらを返し、榊原ら43人を処刑し、拘禁中戦病死150人あまりと過酷な処置を行った。天狗党の処刑、800余人に対して352人処刑されたのに対し、穏健派らは1152人中、43人とまあ一応穏便な処置と言えなくもないが、戦病死者150人と決して過酷でないとも言い切れない。 処刑されたのは榊原ら穏健派幹部と天狗党の投降者(飯田は獄死)らである。 同時期に天狗党幹部らの家族の処刑も行われた。
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すごく面白い
冬の豪雪地帯の行軍。桜田門外の変以後の水戸浪士と彦根藩の対決。沿道にある諸藩の対応。そして水戸藩出身の幕府将軍の水戸反乱軍への対応。どんな冒険登山記などを読むよりはるかに面白い。
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維新の矛盾
幕末の水戸藩が維新の矛盾を凝縮させたものであったこと、信頼と裏切り、忠誠と叛逆、愛情と憎悪の間で引き裂かれ、血で血を洗うような極地に立たされていたこと、こういう事を知らずに、例えば「水戸学」などを齧っても何の意味もないだろう。586頁、名著発掘でした。
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謬見もまた良しか。
策を弄せずして進退を穿つ・・・・常陸国久慈郡大子村から越前敦賀新保駅までの難行軍を率いた武田耕雲斎 以下千名、水戸天狗党である。藩内部の抗争から一線を画し、大半が下級武士団に属する彼らが目指す京都 には禁衛総督府職に預る尊攘派の支え、前藩主水戸斉昭の七子徳川慶喜がいた。天狗党には倒幕の意思は なく、朝廷を崇敬し国内の人心を統一、幕府の権力を強化し外国からの圧力に対抗する(文中)ものであった。 長州藩と連携、横浜港鎖港を幕府に迫るというのが本来天狗党挙兵の目的である。(文中) 尊攘派公武合体派の猫の目の変わるような覇権争から大義喪失の危機感を余儀なくされた天狗の一団のより どころこそ慶喜その人であった。ここで天狗の一団としたのは、その人員構成が武士団だけではなかったか らである。士農工商相交え、藩内外からは尊皇攘夷の思想に共鳴する心ある人々が天狗党に参画した。戦闘 部隊には婦女子を含む農兵や町家の人間も参加していた。俗にいう奇兵隊概念は長州藩独自ではなかった。 千名にも及ぶ武装集団の行軍は各藩の脅威である。幕府から天狗討伐を申し渡されている弱小藩にはそれな りの知恵があり、街道に迫ってくる天狗党に事前に藩境の間道を案内して通過させる術をとり、頃合を見計ら い大砲をあらぬ方向に撃ち放って幕府に天狗打ち払いの口実を繕う苦肉の面目を保った。それ以上に行軍は、 季節の大雪など自然との戦いに心身共に苦難を強いられる。越前に着く頃には譜代の大藩加賀、大垣、桑名 、彦根が連携して一万の兵力で待ち構えている。総帥武田耕雲斎は加賀藩を代表とする「投降」の説得交渉 に首を縦に振るのか否か、幕府は因循な慶喜を利用した懐柔策で高みの見物をしていた。天狗側はあくまで 「嘆願」である。慶喜を尊皇攘夷の旗印と信奉しているかれらにとって譲れない核心であった。しかし当の慶喜 自身が幕府を顧慮するのか決して自らは表立って意思表示はしない。突き放すような厄介払いを他藩に押し付 けた。降伏にあらずんば討伐である。ついに天狗党は折れた。武田耕雲斎はじめ藤田小四郎ら幹部たちは慶喜 の変心をどう理解したのだろう。慶喜が尊皇派を隠れ蓑とした藩門閥派の領袖だったと怨嗟する声は吉村氏の 作品には一切記録されていない。
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天狗党事件の幅の大きさ
過激な水戸の尊攘派数百人が京都まで長旅して,敦賀あたりで捕縛される・・・そうした一般的な知識しかないまま読み始めた。 上記の予備知識は,大筋では間違いないものの,今まで事件の一面(粗筋)しか知らなかったことを思い知らされた。那珂湊での幕府軍との戦いの熾烈さ,藩主の命を受けて水戸入りしたはずの尊攘派・松平頼徳の運命に典型的に見られるような,天狗党に絡む人々の思惑の多重さ,天狗党阻止を命令されながらも,激しく戦った藩と軍資金を提供して抜け道へと導いた藩と・・・ そうした人々の動きを厚く描写しつつ,敦賀での352人斬首という悲劇に向けてストーリーを展開していく吉村の巧さが光る作品だった。
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誠実であろうとした余りの悲劇
文章自体が非常に良く練られている。 史料の膨大さにも驚かされるが、その料理の仕方が上手い。 鳥瞰的な視点を持ちつつも、それを決して表には出さない。 武田耕雲斎と先頭にした人々が、悪路を越えていく描写は、情報も得られずに、進む恐ろしさを感じさせる。
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