日本の文学賞

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一条の光,天井から隆る哀しい音 (講談社文芸文庫 こD 1)

読売文学賞

一条の光,天井から隆る哀しい音 (講談社文芸文庫 こD 1)

耕治人

『一條の光』は耕治人による小説。かすかな光の感覚に託して、老いと孤独、救いへの希求を描く。

老い家族信仰

作品情報

一條の光は、時代の陰影の中で人が抱える痛みと意志を見つめる作品。

一條の光は、題名に込められた状況や人物の動きを入口に、生活の重さ、家族や共同体との関係、過去から離れられない心の揺れを描く。受賞作として読まれた背景には、個人の経験を社会の空気と結びつける筆致がある。

レビュー要約

  • 読者には、抑えた語り口で人間の弱さや執念を浮かび上がらせる点が受け止められている。一方で、時代背景や文体の硬さを意識しながら読む必要がある作品でもある。

書籍情報

出版社
講談社
発売日
1991-05-01
ページ数
251ページ
言語
日本語
ISBN-13
9784061961272
ISBN-10
4061961276
価格
1870 JPY
カテゴリ
本/文学・評論/文芸作品/日本文学

脳軟化症の妻は“私”を認識できない。──何度目かに「御主人ですよ」と言われたとき、「そうかもしれない」と低いが、はっきりした声でいった。──50年余連れ添った老夫婦の終焉間近い困窮の日常生活。その哀感極まり浄福感充ちる生命の闘いを簡明に描く所謂“命終3部作”ほか、読売文学賞受賞『一条の光』、平林賞『この世に招かれてきた客』など耕治人の清澄の頂点6篇。

レビュー

  • 失われた時を求めて

    『一条の光』、一読なんの話やらさっぱりわからなかった。 冒頭、「(妙味の)会得」、「これだ!」という瞬間があると始めて、「私の場合、ごみと関係がある」と延々とゴミの話が続いて、一条の光が見えたと言われても何の話をしてるんですか?と。 で、読み直して、 「コレダ! と思ったのだ。それまでも自分のことを書いたが、自信はなかった。そのとき必然性が生まれたのであった」 と言ってる以上、自分にとって小説を書くとはどういうことか、その本質がわかった啓示の瞬間(エピファニーとでもいうもの)を綴っているんだと漸く気づいた。面映ゆい気持ちから随分遠慮、遠回しの書き方になっているけれど。 つまり、ずっと自分のことを小説の素材として書いてきたが、なぜそんなことをしなくちゃいけないか分からずにいた、でもこれからは違う、書くことは自分にとって「必然」なんだ、と悟って(冒頭に求道者にも触れてる)、「自信」が生まれた「感動の瞬間」、今までやってきたこと、これからやることに対する全肯定が生じた至福の瞬間を書いてるんだと。 では、なぜこのゴミがそんな瞬間を生み出したか。それは説明してない。だからここからは解釈になる。でもヒントはちゃんと書いてくれている。 「人間の生活とゴミは切り離せない。生活していると、ゴミは出る。どんな清浄な部屋でも、ゴミは出る。掃除したあとはきれいだ。チリひとつとどめない。そんな状態が何時間か続く。いつのまにか部屋の隅などにゴミがたまる。清浄な部屋でもこんな有様だから、掃除が行き届かない部屋のゴミは大したものだ。ゴミと暮らしている 、と言ってもいいだろぅ。…人間が文化的な生活をはじめとき、ゴミは生まれたに違いない」 とあって、「清浄」を求めた「掃除」が延々と書かれている。「出るにゃあ」と言うフジ子に「廊下に立っている私は、なんとなく幸福な気持」を感じながら。で、フジ子が去って、 「私はフジ子を忘れるためにも、せっせと書いた。…思いつくまま、手あたり次第に書いてきたのであった。十枚二十枚のものもあれば百枚のものもあった。…夢中で書いていて、突然足音が耳に入る-…。私は父母のことを書いていた。…兄や妹のことも書くようになった。兄も妹も死んだのだ。…私は机に向かい、続きを書き出した。三十分経ったか一時間経ったか、わからない。私は時間の観念を失った。そんなことが、ときどきあるのだ。夢中で書いていた私は、ペンを置いた」 これって「掃除」のアナロジーじゃないでしょうか?次から次に「掃除」するべきものが見つかって夢中になって対応してしていくという。で問題の瞬間がくるわけです。 「四畳半と三畳には、そのゴミのほかにはチリひとつない。小指の先ほどの鼠色のそのゴミは、生まれたような気がした。見つめていると、生きているように感じられた。不思議なことが起きた。そのゴミを起点として、一条の光が闇のなかを走った。私は闇のなかにいつのまにか、いた。一条の光は私の過去であり、現在だ。それは父母であり、兄妹 であり、私の出身校であり、勤め先だった。結婚でもあった。要するに私の生涯だった。 生涯を一条の光が貫いたのだ」 「ゴミ」を直ちにネガティヴなものとは断定できないが、いずれにしろ、人間として生きるうちに避けがたく生まれてしまう残余、簡単に整理できないもの、気づかぬうちに堆積してしまい「清浄」のためには「掃除」し続けなければ立ち行かないもの、それを意味してるのではないでしょうか? 小説を書く営みとは「清浄」のための日々の「必然」であったんだと。耕にとっては。そう解釈しました。また、ゴミが在る、ということは他ならず、自分が生きてきた、生きている、いま在ることの証左なのだという電撃的な認知の体験を綴ってもいるではないでしょうか?これは青山七恵の『かけら』と位相の大変近い小説だと思われます。存在をめぐる「ごみ」と「かけら」の小説。 また、この小説を差しはさんである、千家をめぐる小説、人生の最後の時を巡る小説のすべてで「清浄」が成就していることが、小説、言葉のもつ力(たとえば耕の妻が耕の言説を肯定も否定もせず発する「そうかもしれない」という言葉が実現するような)が成就していることが、この本を得難いものとしているのだと思われるのです。

  • 文学の奇蹟

    末期癌に侵された著者は、痴呆症の妻と対面する。50年間連れ添った夫婦の最後の会話が交わされる。それから集中最後の「そうかもしれない」を書き上げ、著者はまもなく亡くなった。81歳。 どの作品も読んだあと、仄かな恩寵に包まれる。神仏が現れるわけではないが、読後感を表すのに恩寵という言葉が最もふさわしく思える。夫婦二人が滅んでいく苦難の姿をいわば現在進行形で描写して、類まれな清澄にして平安な境地へ誘う。奇蹟としか言いようがない。

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