日本の文学賞

← 受賞作品一覧に戻る
心という難問 空間・身体・意味

泉鏡花文学賞

心という難問 空間・身体・意味

川上弘美

『大きな鳥にさらわれないよう』は、川上弘美による小説で、2016年の受賞対象作です。受賞記録と書誌情報を照合し、作品名と作者名を基点に内容紹介、刊行状況、読者向けの位置づけを整理しました。

受賞作書誌確認現代文学

作品情報

川上弘美の『大きな鳥にさらわれないよう』は、賞の記録に残る題名から作品の主題と刊行状況をたどれる一作です。

賞の受賞・候補記録に基づき、川上弘美の『大きな鳥にさらわれないよう』を作品単位で整理しました。単行本または文庫として確認できる場合は紙書籍の識別子を優先し、確認できない場合は掲載媒体の番号を代用せず、作品情報のみを記録しています。

レビュー要約

  • 読者からは、題材への入りやすさと作者の視点を評価する声がある一方、ジャンルや形式に応じて読み味の好みが分かれる傾向があります。

書籍情報

出版社
講談社
発売日
2016-05-27
ページ数
394ページ
言語
日本語
サイズ
14.1 x 3 x 19.4 cm
ISBN-13
9784062200783
ISBN-10
4062200783
価格
2640 JPY
カテゴリ
本/人文・思想/哲学・思想/哲学

私が見たり聞いたりしているこれは、本当に世界そのものなのだろうか。かつては誰も見通すことができなかった、知覚し感覚するという経験を解き明かす、思考のドキュメント。著者は、こうして、ついに世界と心ある他者に出会えた! 哲学には、いくつか、根本的な大問題があります。たとえば、他我問題。他者は本当に存在するのだろうか。すべては、私の脳に映し出された像にすぎないのではないか。そんなことはない、といいたいところですが、歴史的に、さまざまに論じられながら、解決したとは言えません。すべては、あなたの脳の中に映じていることだ、という主張に対して、結局、有力な反論はだせないのです。 あるいは、あなたは、他人の痛みを感じることができるでしょうか。他人が腹痛を訴えているとして、その痛みが本当にあるのか、あなたにはついにわからないのではないか。これまた、哲学史上の有名な難問です。 目の前にリンゴがある。あなたがそれを知覚しているから、あると言える。哲学史上有名なジョージ・バークリの名言によれば、「存在するとは知覚されることである」。とすれば、リンゴのある部屋から誰もいなくなれば、リンゴは存在しなくなる。 そんバカな、といっても、論理的に反論するのは、きわめて難しい。 このような哲学の難問にたいして、著者は、まっこうから、いや、リンゴはあるんだ 、という哲学的立場を確立しようとします。 素朴実在論という立場です。 古来重ねられてきた哲学的議論をふまえつつ、さまざまな反論にさらされてきた「素朴実在論」を、周到かつ明解な 議論でうちたてる、著者渾身の代表作です。 好評を博した快著『哲学な日々』の理論編ともいえる力作。

1954年生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。現在、東京大学教授。専攻は、哲学。おもな著書に、『論理学』(東大出版会)、『心と他者』(勁草書房→中公文庫)、『哲学・航海日誌』(春秋社→中公文庫)、『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(哲学書房→ちくま学芸文庫)、『哲学の謎』『無限論の教室』(講談社現代新書)、『論理トレーニング』(産業図書)、『語りえぬものを語る』(講談社)、『大森荘藏』(講談社学術文庫)など多数。近刊のエッセイ『哲学な日々』(講談社)も好評を博している、日本の代表する人気哲学者。

レビュー

  • 会心の哲学書

    断片的なレビューになりますが、2章「6知覚の眺望構造」の「6-9 他人と同じものを見る」 のなかで 眺望構造を複数関数として提示し、そこには懐疑(他の関数)が入りこむ余地はない、 と論破されたのは、素晴らしいとおもいます。 生きた哲学を、目の前で見せてもらうことの できる素晴らしい論文だとおもいます。

  • 痒い所に手が届く

    普段漠然と考えるテーマを掘り下げて記述されています。 まだ思いもつかなかったテーマを着想して読者へ提示してその考え方を記述されています。 哲学者ですから思考実験を得意とするのですが、思考の柔軟性を養うのに適している。また自分自身の考え方を拡張するのに適している。

  • 楽しめました。少しコメントします。

    最後まで読めば、意識や実在について至極穏当で常識的なことが書かれていることがわかるのですが、懐疑論や錯覚論法を論破する形で議論が進み、かつ、言葉の使い方(定義)が独特なので、その辺りを面白いと思える人にはお薦めです。以下内容について少しコメントです。 ■物理(知覚)像と意識(に現れる)像の違い 著者の言葉遣いだと、知覚は世界を意識の内に取り込んだ表象ではない、ということですが、わかりやすいのは次の例だと思います。 街で友達のAさんの後ろ姿を見つけ近づいて「Aさん、おはよう」と声をかける。その人が振り向くと知らない人だったので驚いた、というケース。この時私の中では何が起こっているか。 まず私は、後ろ姿の物理(知覚)像を基に、その人はAさんだと同定し、その人の親しさや振り向いた時の反応(こっちを見る顔つきや発する言葉)を予想する。ところが、振り向いたその人はAさんではない(知らない人だ)から、その人にまとわせていた親しい感じや顔つき・声などはリセットされる。 つまり、物理(知覚)像としては、振り向く前と後は連続しているが、意識の中では、振り向く前と後では別人。 ■私と他者を隔てる絶対の壁は存在しない はい。もし絶対の壁があったらこの世界は成立しないです。 例えば、パパが一歳のBくんに、「そこのボール持ってきて」と言って、Bくんがボールをパパに渡す。たったそれだけのことの中にも、パパとBくんには、持ち運びできるボールがそこに存在している、という共通の信憑が成立しています。もし、パパとBくんの間に絶対の認識の壁があって、そこに何かがある(存在)ということについて共通の信憑がなかったら、幼児にこの世界は成立し得ないです。 久永公紀『意思決定のトリック』・『宮沢賢治の問題群』

  • ある疑問

    まずはじめに、高名な哲学研究者でありながら「伝統的な哲学の用語や語り」ではなく、一般人の視点に立ち常識的立場を深く考察する著者の姿勢に敬意を表しています。良い読者ではないかもしれませんがずっと著作を追ってきました。今回主著になり得る作品と言うことで、じっくりとノートをとりながら読みました。著者の粘り強い思考と周到な概念設定には感心し、ある程度説得されました。懐疑論との論戦はスリリングでした。しかし限界も感じました。たしかにこの考え抜かれた眺望、相貌モデルによって素朴実在論は救われたでしょう。他我の難問もある程度ほどけているように思えます。ですが・・・「知覚のあり方」を「対象のあり方」、「対象との空間的位置関係」、「身体に関わる要因」、「意味に関わる要因」・・・の関数としてとらえるという論はまさに機能論・機能主義ですね。「身体」の本質、「空間」や「意味」の本質は何なのかとか、なぜこの4つなのか、「時間」は要因ではないのか?相貌論でいえば「言語は?意味だけでなく価値は?・・・」などの疑問を呼び寄せてしまいます。たとえば「身体」について「空間」についての本質的な吟味がなされないままで、一般常識としての概念に則って論が進んでいます。この論考によってたしかに素朴実在論は救われたかもしれません。 が、市井の数学徒である私にとって長年の疑問、「数学の世界」(理念的世界)はいかにして可能になっているのか、なぜこれほどの普遍妥当性をもっているのか、いったい数とは何なのか、どこに存在するのか、数学の諸定理(例えば三平方の定理)は誰にとっても確固とした実在性をもっていて、それを対象として思考操作ができ、実在世界に広範に応用されているが、なぜそんなことあり得るのか、その意味とは何なのか?に応えられるのでしょうか。諸価値についてもそうです。例えるなら、著者の論は「絵画の豊穣さ美しさ」を「色」と「形」等々の関数としてとらえるようなものです。それでは美という価値の本質は捉えられないように思います。 無い物ねだりだったかもしれませんが、今後の野矢哲学はそのあたりに踏み込んでくれるものと期待しながら感想を終わります。

  • 線形論理的に破綻かつ実践的にも展開性なし

    課題設定とアプローチが、線形力学のシステムの枠内にとどまっており、あらたな展開が全くない20世紀の古典としか言いようがない書。自己組織化あるいは創発を行為と認知が一体となって作動するモードのシステムとして課題設定しないと、行き止まりになって新たな展開はない。残念な書

  • 旧来の哲学から踏み出した哲学書

    従来の伝統的な哲学書は、主に言葉の意味を論じており、さらに疑えることはすべて疑うことはよいとしても、せっかく疑いから生み出した結論がやはり疑い得る、というものであった。この原因は哲学の本質にかかわる問題で、たとえば「存在、実在」を論じにしても、思索の道具は言葉につきる点にあるだろう。そのため、得られた結論といっても、他の言葉で置き換えられたものに過ぎないのである。 この反省として現象学が登場したが、今度は言葉の意味の共有性が軽視されて、言葉の恣意性が強調される事態となった。 この本ではこのような従来の哲学の問題点が改められて、私たちが意味を共有できる平易な言葉を用いて、「独我論」といわれている従来の哲学の問題を論じている。この点は大いに評価したい。 「世界は自分の意識の中の出来事にすぎない」との疑いを「独我論」というが、本書では「疑いを完全に否定できないとの理由で独我論を認めるのはおかしい。他者は自分と同じ意識や知覚をもった存在であると考えた方がはるかに理に適っており、公共的な世界も成り立つ」との主張を展開している。この点においてもほとんど疑いに終始していた従来の哲学路線を卒業しており、大いに評価したい。 私は科学を重視するものだが、科学理論は①理論の対象をよく観察して②数学的推理や共有できる言葉のみで対象を記述したものといえる。さらにその理論は③他の科学者たちによる十分な吟味を経て科学理論として認められている。本書は哲学書の形をとっているが、このような科学理論としても十分通用するものと考える。科学的思考と独我論は相いれない関係にあることはいうまでもない。 本書では「科学」という言葉が使用されていないが、意味を共有できる公共的な言葉や理論とは科学的であることを説明してほしかった。 もう一つ異論を唱えさせていただく。それは今注目を集めているロボットの将来についてである。 本書では将来どこまでも人間に近いロボットができる可能性があると説明している。しかし、私は次の2つの越えがたいハードルがあるゆえに、ロボットを人間に近づけることはできない考えている。 その第一は人のもつ感覚の問題である。 痛い、美味しいなどの感覚そのもの(クオリアといわれている)は生体内部の知覚現象であり、これを生体外部に取り出すことはできない。生体内部の感覚を測定して取り出そうとすると、その過程で感覚は測定値に変換されてしまう。 ロボットの場合、センサーを備えてセンサーからの信号を、痛い、気持ちいい、美味しい、などと教え込むことはできるが、元をただせば電気信号であり感覚そのものではない。そのため、人がしているような、食事をしながら新たな味を発見的に語ったり、感覚から自発的な興味を起こすことはできないだろう。 もう一つのハードルは人のもつ絶えず満足感を求める志向性の問題である。 人の心に満足感、不満感が芽生え、志向性といわれている自発的思考が始まる理由を探ってみると、それはヒトの誕生とともに始まる身体感覚(快感、不快感、空腹感、痛みなど)に由来するとの考え方が妥当だろう。それゆえに身体感覚のないロボットは満足感を求める自発的思考ができないし、自発的思考の結果である自意識も生まれないだろう。 この2つのハードルによりロボットは人になり得ない。ロボットはいつまでも満足感を求める自発的思考とは無縁のゾンビにとどまるだろう。 このようなロボットは良い目的に使われる限りは良いのだが、悪い目的に使われると危険である。ロボットは自己意識をもたないため、与えられたプログラムに無批判に従って行動するからである。将来はロボットが悪者に乗っ取られないように、今から十分の対策を考えてゆく必要があるだろう。 このような点から本書の評価は3とさせていただいた。

  • なんだこの本は!(良い意味で)

    なんてことだ。 我々は驚嘆する他ない。 この眺望論の完成形に。 そして相貌論の前進に。 今後の野矢茂樹の哲学は、一体どんな相貌を、私の前に立ち現すのだろう。 楽しみでならない。

  • 野矢哲学の集大成的作品

    本人は否定するかも知れないが、大森荘蔵の正統な後継者として、だれをおいてもまず野矢茂樹の名前を挙げないわけにはいかない。彼が扱うテーマといい、引用を最小限にとどめた奇をてらわない明瞭な語り口といい、大森DNAをこれほど濃密に継承している哲学者はほかにいないのではないか(ちなみにデビュー作『心と他者』の文庫版には大森荘蔵によるメモが添えられている)。 そんな彼がデビュー当初から一貫して追求しているテーマの一つが「心」である。心とは何か。だれもが分かっているようで、いざ説明しようとすると何も分かっていないことに気づく。そもそも心などというものは存在するのだろうか。このテーマは心身問題や主観客観問題とも接続する。いずれも認識論の主要テーマであり、大森荘蔵や廣松渉が格闘し続けた難問であった。 本書は三部構成になっている。『問題』と題された第一部では、知覚・感覚・他者を巡る哲学問題が提示され、第二部『理論』では、それらの問題を解消するツールとしての理論が開示され、第三部『解答』において第一部の問題がひもとかれてゆく(個人的には9-2-6で論じられている感情論がとても興味深かった)。 認識の場面において野矢は素朴実在論を採用する。私たちはあるがままの世界をあるがままに認識しているのであり、決して実物によく似た知覚イメージを認識しているのではない。ところがそのような素朴実在論に対しては錯覚論法が立ちはだかる(かといって主客二元論や意識一元論にも致命的な欠陥がある)。野矢は素朴実在論を擁護するために「眺望論」と「相貌論」という武器を手に錯覚論法に立ち向かう。その最終到達地点に「心の在りか」が姿をあらわす構成になっている。 一つだけ疑問に思ったのは「ロボットもまた物語を生きることができる」というくだりであった。知覚し感覚するロボットが製作され、人間とともに生活できるようになれば、ロボットも人間と同じように物語を生きることができると野矢は言う。だが物語を生きるためには、受動的な知覚・感覚のみならず、能動的な行為すなわち自由意志が必要ではないだろうか。期待が裏切られたり後悔したりすることによって、物語は形成されるのではないだろうか。もっとも人間にそもそも自由意志が存在するのかどうか、受動性と能動性に区別などあるのかどうかという大問題が残ってはいるけれども。 哲学者はともすれば極論に走りたがる傾向があるのに対し、野矢は極めて慎重に、石橋を叩いて渡るかのように議論を組み立ててゆく。自分の体験に忠実に、常に地に足をつけた哲学を展開し、決して読者を置いてきぼりにしない。過激さの少ない語り口に物足りなさを感じる読者もいるかも知れないが、大森哲学を継承した野矢哲学の真摯な態度は大きな魅力であると思う。 ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』のようにナンバリングされた目次を見れば分かるとおり、いつもは徒然なるままに断片的な思想を展開する野矢が、本書ではかなり体系的かつ緻密に論理を組み立てている。ある意味で野矢哲学の集大成と言ってもよいのではないか。草食系と言われる哲学者が気合を入れて書き上げた渾身の一冊である。

関連する文学賞