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神的批評

新潮新人賞

神的批評

大澤信亮

宮澤賢治を「絶対平和の詩人」という像だけで捉えず、その作品に潜む暴力性と自己破壊的な倫理を読み解く文芸評論。近代文学と批評の問いをたどりながら、暴力を非暴力の地平へ導く思考を探る。

宮澤賢治文学批評暴力と非暴力自己破壊的倫理近代文学

作品情報

絶対平和の詩人に孕まれていた暴力性は、いかにして非暴力の地平へと至ったのか。

「宮澤賢治の暴力」は、第39回新潮新人賞評論部門の受賞作である。のちに大澤信亮の初の単著『神的批評』に収録され、宮澤賢治、柄谷行人、柳田國男、北大路魯山人を論じる四篇の一篇となった。賢治の詩や童話にある平和のイメージを問い直し、そこにある暴力と倫理の問題へ批評の言葉で向き合う。

レビュー要約

  • 生きることと他者を傷つけることの結びつきを正面から問う批評として紹介され、重い主題を倫理と思考の問題として掘り下げる姿勢が評価されている。

書籍情報

出版社
新潮社
発売日
2010-10-01
ページ数
253ページ
言語
日本語
ISBN-13
9784103278115
ISBN-10
4103278110
価格
391 JPY
カテゴリ
本/文学・評論/評論・文学研究/文学理論

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レビュー

  • 丁丁丁丁丁=最低最低最低最低最低

    「宮澤賢治の暴力」だけを読みました。 かつて宮澤賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と断言した。〜これらの極端な感覚がどこから来るのか、私はずっと疑問だった。 〜「ほんたうにみんなのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」という過激な自己犠牲心といい、賢治の内部には何か不自然な過剰さがある。 なるほど、言われてみれば「極端な感覚」だし、「不自然」だな。 上記の内容について齋藤孝氏はどうお考えになるか? 聞いてみたいと思いました。 p30に賢治さんの〔丁丁丁丁丁〕という詩がのっています。 (尊々殺々殺 殺々尊々々 尊々殺々殺 殺々尊々尊) ふーっ、「極端」、?

  • 大澤信亮の価値

    大澤信亮「宮澤賢治の暴力」『神的批評』 たとえば、吉田司の『宮澤賢治殺人事件』およびそれを受けた柄谷行人・吉田司・関井光男・村井紀の共同討議「宮澤賢治をめぐって」(「批評空間」第II期―14号)では、賢治の作品が戦時下において戦意昂揚に用いられていた事実が指摘されている。 羅須地人協会の当初のプランはおそらく、生産者が組合形式で生産することで資本家による搾取=産業資本を揚棄し、しかも、そのように生産された品物を生産者たちが直接交換し合うことで中間業者による搾取=商業資本をも揚棄するというものだった。 賢治は、共同体と共同体の間に生まれ、共同体内部に流れ込んだ貨幣経済を揚棄するポイントを、共同体と共同体の間で生まれた世界宗教の起源に遡ることで見出そうとする。 上記は宮澤賢治が「農民芸術概論綱要」で述べていたというが 柄谷行人のNAMや「世界史の構造」の議論に酷似している。 大澤によれば、賢治は田中智学(国柱会)の 純正日蓮主義に強く影響されたという。 「柄谷行人論」は新潮2008年11月号の雑誌版と異なり 『世界史の構造』への言及がある。 下記のやりとりの影響があったかは分らないが 解説の印象は無くなり、カッコよくなっている。 sasaki_makoto 2009/06/05 06:55 「柄谷行人論」ですが、 大澤さん自身が柄谷氏の発言を直接聴かなくなって からについては、NAM、文学の終り等に 関してステロタイプな記述だったと 思います。 nobuakiohsawa 2009/06/07 21:03 せめて自分の書き込みに価値があるかどうか自問してから書き込んでください。 僕の文章をどう読むのも自由ですが、そこにのみ反応してしまうのは、 あなた自身がステロタイプな人間だからだと思います。 sasaki_makoto 2009/06/07 23:58 あると思います。 誰にとっての価値という意味でしょうか? 僕は「柄谷行人論」を単に批判したい訳ではありません。 柄谷行人を分析する事に空疎さは感じませんでしたか? 柄谷行人の価値の大部分は文体だと思います。 nobuakiohsawa 2009/06/08 16:56 いいえ。ありません。少なくとも僕には皆無です。 唐突に「ステロタイプだ」と言い捨てられて何を言えばいいのか。 それで何かを言った気になれるあなたの単純さが疑問です。 言いたいことがあるなら、自分のブログで、相応の時間と長さをかけて、 論じる対象に最低限の礼を尽くした上で、自分の意見を正々堂々と述べてください。 気が向いたら返事をしますし、何も思わなければそれまでです。読まない可能性もあります。 でも、僕の反応がどうであれ、それはあなた自身にとって価値のあることだと思います。 sasaki_makoto 2009/06/08 23:20 柄谷氏の最近の発言で価値がありそうな事を書きます。 1、「近代文学の終り」は早稲田文学の編集者に言わされた だけです。終ったのは文学というより批評です。今、批評は 東…浩紀とかいう連中が細々とやっているだけです。 2、ネットでの批評は問題にならない。いつ書き直したか分ら ないから。出版物になって筆者の発言を評価する事が出来る。 外国でもそうですよ。 3、両義的な事は言わない。意味が明瞭な事を書く。 今回のやりとりで3の事を考えました。 僕には「言いたい事を言葉やブログで述べる」という感覚はなく 「文字表現の可能性」を考えているので。 「柄谷行人論」は「意識と自然」、 「マルクスその可能性の中心」、「トランスクリティーク」の 雑誌掲載時と単行本収録時の差異のみに注目した方が カッコよかったと思います。 初期から最近まで網羅的になったので解説を集めた 印象にもなっている。 「柄谷行人論」には賛辞が多かったでしょうから 僕は省略しました。 ステロタイプは悪い事ですか? 世界の大友克洋や村上春樹(多分)の作品の 登場人物もステロタイプですよね。

  • ___

    『神的批評』は第二十四回三島由紀夫賞候補作である。 五名の選考委員による該作選評の一部を『新潮』2011年7月号から引用。 辻原登 「粗削りなレトリック、飛躍の多いロジックは批評において瑕瑾とはならない。」 川上弘美 「その先は、どうなっているの、どうなっているの。と、期待したとたんに、 ふいっと作者がはしごをはずしてしまうような印象を持ちました。」 町田康 「その一方で、ここをジャンプしてしまってよいのか、と思われる部分があり、 もっとネチネチしてもよいのではないか、と思った。」 小川洋子 「途中の展開に時折疑問が湧いた。思考が深まりそうになると、すぐにさまざまな 人の引用が出てきて、論点が微妙にずれてゆく。結果、タイトルに掲げられた中心 となるべき人物は霞んでしまい、妙にセンチメンタルな感慨だけが残される。」 平野啓一郎 「人間にはどんな「希い」も許されていない、自分も他者も愛することが出来 ない、というのは、著者の飛躍である。」「本作には、腹を据えて論理を徹底 させるべき箇所に限って、感傷的なレトリックで誤魔化したり、別のテキスト の引用にズルッと横滑りしたりするところがある。」

  • 他者と私に向き合う本気の批評

    「神的」と、ややものものしいタイトルを掲げた著者のデビュー批評集。その意図するところは色々と解釈できようが、人間を人間たらしめてる条件としてあるサムシングに宗教的な次元を感じ取り、それを「神」の顕現する場として理解した上で、その次元においてクリティカルな思考と創作を展開しているのだろうと思う。発想も文章も非常に魅力的で、魂がこもっており、ぐいぐい読ませる。 内容は、大きな注目をあびた宮沢賢治論に加え、柄谷行人論、柳田国男論、北大路魯山人論の4本からなる。いずれにも通定しているテーマとして、暴力・殺す事、他者・私、共に生きること、という三つの軸があるように思える。とくに賢治論と魯山人論において提示される、他者を殺す者としての私を究極的に反省した果てに見えてくる光景、その狂気とすれすれの論理の導出の仕方には圧倒されるものがあった。私が他者を苦しめ、奪い、殺し、食べながら生きることの現実と意味を、日常的に全身全霊で思索しながら構築された真摯な言語がそこにはある。 著者のブログによれば「僕は、『バガボンド』や『ジョジョの奇妙な冒険』や『HUNTER×HUNTER』や「ニコニコ動画」や「2ちゃんねる」よりも面白い批評を、本気で目指しています」とのこと。また本書の中でも著者の少し気負い気味な「批評(家)宣言」が行われている。その志には大いに共感するところで、またこの作品を読んだ限りでは、そこに「文芸批評」の新しい可能性を十分過ぎるほどに見て取ることができる。とにかく面白かった。

  • 「神的批評」ならぬ「パウロ的詐術」

    『神的批評』には期待したのだが、私は間違っていた。本書もまた90年代以降の象徴界の機能不全という症状を示す症例に過ぎなかった。 「自分を愛するように他者を愛せ」という命法は自と他を等値しており、非対称性が消去されている。「自分が自殺するようにおまえ(たち)も死ね」と言い換えることもできる。それこそは秋葉原事件の犯人の精神でもあるだろう。 誤解を恐れずに云えば、生きたい奴は生き、死にたい奴は死ねばいい。ただそれだけのことだ。おかしな共同性を持ち出すことはかえって危険だと思われる。しかも、その共同性たるや全生物にまで拡張されかねないとは……。私はオーガニックな全体性を拒否する。「愛」という想像的原理を有機的全体性にまで拡張適用させようとするのは、とりもなおさず象徴界の機能不全を示す症状に他ならない。そこからジェノサイドに至るまでの距離は意外と近い。 「私たちの究極的な使命は、自分を心から愛せるかどうかにしかない(本書p173)」このような信じ難いほどナイーヴな言葉は少なくとも私には受け容れがたい。勝手に「私たち」などと書かないでもらいたい。「あなた」と「私」は全く別のそれぞれに独立した人格なのだ。むしろ、私が共感を覚えるのは大澤の師匠にあたる福田和也の次の言葉である。「人を殺すかもしれないし、殺すだろう」。 身近に喰うや喰わずの農民がいるのに、肉食云々を真剣に考えることができるという事実こそ、宮澤賢治の特権的立場を示している。彼には良心の疚しさがある。彼は自らに対してニーチェが批判する意味での僧侶として振る舞う。 宮澤賢治におけるニーチェ的僧侶性(生に反すると言う意味での悪しき「死の欲動」)を共有せよ、といわれる理由はない。食物連鎖における人間の位置を強調することは、社会的格差や階級といった問題を隠蔽する。生物学的思考が社会科学、政治、法といった象徴的なものを隠蔽する。賢治自身にとっては自らの後ろめたさを忘却することができるのだ。 イエスの刑死を自己犠牲と解釈することはパウロ=護教的詐術である。ローマの官憲による殺人という政治的なものの存在が隠蔽されてしまう。あるいは出来事(刑死)の物語化(自己犠牲)といってもよい。 さらに崇高な自己犠牲の精神を他者に共有することを求める動きは宗教共同体の護教的論理に摩り替えられる。かくて自己犠牲は権力によって強要されるに至るのだ。実際、「雨ニモ負ケズ」に代表される宮澤賢治の諸作品は前線の日本兵に携えられるに至った。 こうして見てくると、宮澤賢治が極めてパウロ的護教的人物であることがわかってくるだろう。ニーチェ『道徳の系譜』岩波書店・ちくま書房・光文社や田川建三『イエスという男』作品社あたりを本書 と併せて読むと面白いかもしれない。 私は一度たりとも宮澤賢治の欺瞞に騙されたことはないので、最初から彼の暴力性を暴くことには興味が持てないのだ。 「神的批評」という題はベンヤミンの「神的暴力」を想起させるのだが、むしろ本書に一貫しているのは護教的=法維持的な暴力である。

  • みんなのための自己犠牲のバイブル

    『神的批評』は、激しい自己犠牲の魂と真面目な心が感じられる評論でした。私は自己犠牲よりも自己保存をつい優先してしまう軟弱な人間なので、著者の大澤信亮(のぶあき)さんの高邁な思想に喝を入れられた思いです。私も見返りを求めず、みんなの幸せのために身を捧げる勢いで頑張ろうと思いました。 「宮澤賢治の暴力」は、大澤さんの新潮新人賞受賞作です。大澤さんはこの評論で、宮澤賢治の最重要テーマ「自己犠牲」にガッツリ取り組んでいます。賢治は「よだかの星」「グスコーブドリの伝記」「銀河鉄道の夜」などで、自己犠牲の問題を追求しました。利害や欲求を超えた行為を推奨するカントの『実践理性批判』、みんなの幸せのために我を滅ぼすキリストの命題なども引用され、自己破壊によって世界を救済する思想が語られていました。自分の大切なものを放棄し、自分を殺そうとする者を愛せ……。 「柄谷行人論」は、柄谷行人・マルクス・デリダなどの「贈与と交換」に関する評論です。「与えられたものは重要ではなく、見返りを求めず、与えなければならない」というデリダの『死を与える』に、私は感銘を受けました。交換には生きるか死ぬかという意味での「命がけの飛躍」と、たとえ生き延びたとしても自己を他者の使用に委ねなければならないという意味での「命がけの飛躍」が二重に要求されるという話も心に残りました。 「私小説的労働と協働ー柳田國男と神の言語」は、資本主義によって分断された「私」を救済する評論です。「所有権」や「プロレタリアート」という概念が生まれると、分断された「私」も生まれます。柳田國男によると、大昔は語ることと歌うこと、遊ぶことと働くことが区別されていなかったらしいです。現実に向かって「じぶん」を「わけあたえる」ことによって、分断を克服する思想が表明されていました。 「批評と殺生ー北大路魯山人」は、食事による殺生に関する評論です。私たちは他者を苦しめ、食べ、殺しながら生きています。自らを問わせるものが他者であり、他者は人間だけに限りません。ただ、この評論の後半では過去の出来事が中二病じみた小説もどきのような文体で書かれていて、「何だか痛い文章だなー」と私は思いました。

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