作品情報
赤頭巾ちゃん気をつけては、庄司薫の表現が受賞時の評価と結びついた作品である。
大学紛争期の空気を背景に、若者の自意識と社会への違和感を軽快な一人称で描く青春小説。饒舌な語りが、明るさの奥にある不安を浮かび上がらせる。 賞の文脈では、題材だけでなく、語りの密度や時代への向き合い方が注目される。
レビュー要約
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読者の反応は、同時代性と作者固有の語り口を評価する声を軸にしている。作品の背景を知るほど、受賞作としての位置づけが読み取りやすい。
書籍情報
- 出版社
- 中央公論新社
- 発売日
- 1969-08-07
- ページ数
- 188ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784120002786
- ISBN-10
- 4120002780
- 価格
- 70 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論
第61回(昭和44年度上半期) 芥川賞受賞
レビュー
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半世紀前のソフトな語り口の硬派な作品。
高校三年生の僕が話しかけるように独白する文章、一章を読み終えたところである作家の名前が脳裡に浮かんだ。それは半世紀以上前に読んだサリンジャーの作品だ。「ライ麦畑でつかまえて」「九つの物語」「フラニーとゾーイ」と読みながら、感動するでもなく印象に残るでもなく半世紀。本当にサリンジャーの文体に似ているかはまだ確かめていない。 AIにサリンジャーの文体を聞いてみた。若者の独白の形式の話し言葉が特徴の文体とのこと。私の古生代の三葉虫だった頃の記憶は生き残っていたようだ。サリンジャーから庄司薫、村上春樹という系列があるらしい。村上春樹の「風の歌を聴け」や「羊をめぐる冒険」を読んだ時も感銘を受けなかった。当時はホーソンの「緋文字」やジイドの「狭き門」のような辛気臭い小説ばかり読んでいて、サリンジャーは拍子抜けするほど内容がないような気がしたのだ。 まだ私には隠喩とか暗喩を理解するだけの文化的素養もなかったこともあっただろう。特に村上春樹の初期の小説には学生運動のメタファーにあふれているらしいが、私が学生運動自体から隔絶された環境で読んだ村上春樹はある種殺伐としていて妙に風通しが良い小説だと思った。 與那覇潤氏も「江藤淳と加藤典洋」の中で言及しているが、「赤頭巾ちゃん気をつけて」の中で印象深いのは、丸山眞男と思しき大学教授の知性に関するお喋りに「僕」が感銘を受けるくだりと、白衣の下に何も纏っていない女医さんとのエロティックな診察のひと時だろうか。この女医さんは先日亡くなられたクラウディア・カルディナーレのようなイメージを喚起させる。 薫くん(主人公)が通う日比谷高校が学校群になる直前の最後の受験生となる彼にとっての東大受験の機会が学園紛争によって入試を行わないことを決定した。そこで薫くんは東大常連校の日比谷高校のいやらしさについて次のように述べる。 「これを要するに、なんてことだ、学校中が受験競争なんて全く忘れたような顔をして、まるで絵にかいたような戦後民主教育の理想みたいなものを演じていたってわけなのだ。まさに欺瞞的というかキザというかいやったらしいというか、どうしようもないインチキ芝居を学校全体で足並みそろえてやっていたといってもいい」。 この描写はまだまだ続くが彼らの数学年下の私には全共闘が戦後民主主義を否定していたことは何となく理解したが、ノンポリ風の薫くんにまで酷評される戦後民主主義というものはそんなに酷いものなのだろうか、という疑問を拭い去ることができない。 「日比谷って学校は、先生や普通の生徒はもちろん、こういった口うるさい芸術派やそれに革命派までもが呼吸を合わせて、受験競争なんてどこ吹く風、みんなその個性を自由にのばしているのだといった大インチキ芝居を、学校をあげて演じていたというわけなのだ」。 「全国の高校生がみんな頭を悩ましている受験競争を、そのまさに焦点にいながら全く無視したような顔をしていること、これは(たとえそれが表面だけのことにしろ)まさに激烈なる現代の生存競争への一侮辱であり、鼻持ちならぬ傲慢さであり、この民主主義社会では許すべからざるエリート意識なのではあるまいか」。 「この意味でぼくは、民主教育の徹底をはかるという趣旨の学校群制度ができ、それによって日比谷が完膚なきまてに変わったのは、或る意味で当然のことだとも思うのだ」。 「もちろんぼくは、こうなんていうか、いわば現実を直視するスタイルに一種の美しさがあることは認める。何故って、ぼくたちが生きている限り、誰だって否応なしになんかの形で、この現実を直視するスタイルをとらざるを得ないにちがいないんだから。だからつまりぼくが言いたいのは、ただ、たとえば(いまになるとつくづく思うことだけれど)、あのかつてのいやったらしい日比谷をどうしょうもないほどがっちり支えていたようなもの、つまりあの現実を無視したインチキ大芝居なんてものが、実はほんとうに脆いものだったなあというようなことなんだ」。 ここの件は思わず背筋が寒くなるような文章である。 一つには、かつて島田雅彦がアメリカの大学に留学してその記録で「ぼくはアメリカの何でも民主的にしようとするその民主主義にうんざりしていた」と述べた、そのアメリカの民主主義がわずか数ヶ月でめちゃくちゃな崩壊に至ったことへの衝撃と、もう一つは日本の戦後民主主義の脆弱性で、今しもオセロのように四隅を取られてリバースしそうな状況を予言しているかのようだからだ。 「ああいうキザでいやったらしい大芝居というのは、それを続けるにはそれこそ全員が意地を張って見栄を張って無理をして大騒ぎしなければならないけれど、壊すだんになればそれこそ刃物はいらない。誰かほんの一握りの生徒が、この受験競争の最中になりふりかまっていられるか、と一言口に出せばもうそれで終わり、誰か一握りの生徒が『勉強がありますから』と平気で生徒総会を欠席すればもうそれで最後といったそんなものだったのではないだろうか」。 「もっともこれは日比谷だけではないかもしれない。芸術にしても民主政治にしても、それからごく日常的な挨拶とかエチケットといったものも、およそこういったすべての知的フィクションは、考えてみればみんななんとなくいやったらしい芝居じみたところがあって、実はごくごく危なっかしい手品みたいなものの連続で辛うじて支えられているのかもしれない」。 「いまや、受験生は受験一筋に、そして次いではゲバ棒をとってすべてのインチキくさい知的フィクションを叩きつぶすというのが、ぼくたち若者をとりまく時代の方向らしいから」。 「でも、それにしてもかつての日比谷高校ほど、あんなにもいやったらしくキザで、鼻持ちならぬほどカッコよく気取っていた高等学校はなかったのだよ。そしてこれだけは確かたけれど、ああいう学校はつぶすのは簡単だけれど、これまた作ろうとしたってもう絶対に、それこそちょっとやそっとではできはしないんだよ」。 「誰に聞いたって、日比谷が素晴らしい学校だったとか世界一いい高等学校だったなんてほめはしない。何故って、絶対に意地でもそんなことは言わない生徒をあの学校は育てていたのだから。(中略)あんな学校がどうなろうと、別に世界の歴史が変わるわけでもなし、まあどうってことはありません。学校群でダメになったといっても、それは考え方の問題だと思います。なんて、あくまでもかつてのいやったらしい日比谷高校生、鼻持ちならぬ日比谷高校最後の生徒らしく、気取って頑張って答えるのだ」。 ここまでの薫くんの独白で日比谷高校はいやったらしい大芝居や日常の挨拶にいたる芝居がかったコミュニケーションは確かにそれが「文化」であることが理解され、動物と人間を分けている分水嶺であるのだろう。昨今、挨拶は必要か否かという議論がツイッター上で持ち上がっているが、時代のネジを逆回しにしようとする政治的風潮と相まってなんとも寂しい人類の黄昏を感じさせる出来事である。 シェイクスピアの演劇で主役を脇役にして主役だったハムレットを脇役にした劇を観た感想で「すべて優れたものの足をひっぱって喜びたがる人間心理におもねった根性下劣な芝居だなんて口走って」薫くんは憤慨したのである。 それに関して友人の小林は「つまり、おれたちのキザなコンチェルトを蹴っ飛ばして足をひっぱれりゃ、なんでもいいっでわけだ」という。 ここからがこの本のクライマックスだと思うが、全文引用はできないし要約も簡単ではない。でも前に進むために敢えて要約を試みてみよう。 小林はどこをとってもケチのつけようのない薫くんを正統と見なし、自分は異端として薫くんをペースメーカーに利用して揺さぶりをかけたり絡んだりしながら自分の世界を作ろうとしたが、異端を認じている自分に揺さぶりをかけ、絡んでくる輩が多くなり彼らは具体的に誰それではなく時代そのものなのだと言う。 そして小説を書こうと言う志も、もう抱えていることは無理だ。阿波踊りの真ん中でモーツァルトを奏でるような存在そのものが異質なのだと小林は言う。それを薫くんは自分を責苛むいなごの大群のことだと合点する。こうして小林の悩みを薫くんは丸ごと引き受けてしまう。なぜなら、その悩みは自分自身のものだから。 薫くんは兄の仲間たちが書いた「馬鹿ばかしさのまっただ中で犬死しないための方法序説」という論文を思い出し、その中の重大な問題に直面したときは「逃げて逃げて逃げまくる方法」というのをやってみようとする。 この小説と浅田彰の「逃走論」はどちらが先かは分からないけれど、(多分『赤頭巾ちゃん』のほうが先ではないか?なぜなら赤頭巾ちゃんは学園紛争当時の話であり、『逃走論』は学園紛争終結に向けた話だったと記憶しているので)、当時の若者たちはフーガのように遁走するしか生きる道はなくなっていたのに違いない。 この本の中で度々出てくる人生訓は母から言われた「自分のことは自分でしなさい」「ひとに迷惑をかけないように」の二つだが、それに加えて兄の「この世の中に生きる人びとを幸福にするにはどうしたらよいか」という言葉が薫くんの理想となっていく。 小林のネガティブな告白を聞き、我が事として背負ってしまった薫くんはテレビに出てくるタレントもそれを観ている人びとも敵に見えてしまい、よしその一部になり、ゲバ棒だって振り回すだろう、但しやるからには革命を成就させてみせる、とまで思い詰めてしまった。 腹ごしらえをして銀座にでた。当て所なく銀座を彷徨っていると走ってきた五歳くらいの女の子に爪を剥がした足を思い切り踏まれてしまった薫くんだが、少しずつコミュニケーションを取りついには仲良しになり、彼女が買おうとしていた絵本「赤頭巾ちゃん」を選んであげて別れた頃には、すっかり社会に対する敵意を忘れていた。忘れていたのではなく癒やされていたのだろう。 そうして女の子の無垢さに救われた薫くんはまた「みんなを幸福にするためにはどうすればよいか」と思い、とりあえず「大きくて深くてやさしい海のような男になろう。ぼくは森のような男になろう」と幼馴染の由美と散歩しながら暖かな気持ちで「今日はついていた」とこの一日を回想したのだった。 あとがきの中で印象深いのは「何故ならこの世界には、大昔から『言ってはならないこのひとこと』、『それを言ってはおしまい』といった種類のものが確実にある。実はみんな知っていて、それを言わないためには『それこそ全員が意地を張って見栄を張って無理をして』頑張ってきたものがある」という件だ。 こういう頑張りができなくなっているインフルエンサーによって薫くんの時代よりさらに「ぶっちゃけ話」が拡がり殺伐としたものを感じる昨今である。ジェントルマンでいられなくなった寂しい日本の姿をこの小説から半世紀後に目の当たりにしている。苅部直氏が「これは戦いの小説である。あえてもっと言えば、知性のための戦いの」と書いているようにその通りで、私などはいなごの大群側に位置していると思うが、それでもこの半世紀に社会から失われたものの大きさに愕然としている。(了)
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令和元禄阿波おどり
内田貴教授の法学入門で紹介されていたので読んでみた。饒舌な口語体は今でこそありふれているが、当時は斬新だったらしい。内容は、ところどころ面白い。あの時代にその年代だった人達には「刺さった」のも、何となくわかるような気もする。
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半世紀かかってやっと彼を削ぎ落としています
高校の時本書を10回は再読しました。気づいたら自分の文体も作者「のようなもの」になっていました。でも、本物ではありませんでした。換骨奪胎して自家薬籠中のものにし得たつもりでいましたが。「彼は計算して書いている。君は偶然に甘えている」と大学時代の先輩に叱咤されました。「卒業論文の対象には不適切です。趣味ではないのですから」とは担当教官のお叱りでした。とはいえ書き手と主人公もどちらもかわいいですね。別の言い方をすれば、幼稚です。石原慎太郎の方が社会を震撼とさせました。果たして彼は夏目漱石を凌駕する文学者たりえるのでしょうか。出会ってからもうすぐ半世紀になります。あの頃あらん限りのエネルギーを注ぎ込んだ彼を自分を疑問符の中に叩き込んでいます。
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おもしろい!
おもしろい小説です。決して古くないです。
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自由な高校時代
赤ずきんさんと同じ卒業生でし
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オススメされ
とあるアーティストさんが読みやすい本として紹介しており購入♬.*゚ 読むのが楽しみです。
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本質的には、今も昔も悩み多き高校生の頭の中は似たようなものということ
今から50年以上前、大学紛争で東京大学の入試が中止となった1969年を舞台に、主人公である高校3年生の青年の一人称による語りで物語は進行するが、今の時代でも、いわゆる「モラトリアム期」の真っ只中にある現役高校生たちが手に取り読んでみたら、目からウロコの気付きや共感を大いに感じられる内容ではないかと思う。 固有名詞は、当時流行りのもの、例えば内藤洋子、酒井和歌子、といった当時のアイドルの名前が出てきたりするが、例えばこれらは、浜辺美波とか橋本環奈などに読み替えてみては。 そうすると、驚くほど当時も今も、特に真面目で純粋な高校生の頭の中は同じような悩みやもどかしさ、そして若さゆえの微笑ましい希望や「ちょっとトホホ」な思いに満ちているのだなあ、ということを強く感じられるのではないか、と僕自身は思った。 「赤頭巾ちゃん気をつけて」というタイトルの理由は物語の終盤のエピソードでやっと分かった。そして、このエピソードにより、途中その後の展開が不安になるような流れだったのが、一気に明るく爽やかに開け物語が終わる、という展開も良い読後感が得られ満足できた。
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面白かった
"このちっちゃな道草好きのやさしい女の子に、素敵な赤頭巾ちゃんのお話を選んでやりたかった(中略)狼に食べられてもあとでおなかからニコニコして出てくる可愛い素直な赤頭巾ちゃんを"1969年発刊の本書は、映画化もされたベストセラー。庄司薫『四部作』の第一弾。 個人的には『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳』で紹介されていたので手にとりました。 さて、そんな本書は東大闘争のあった1969年、初めて『庄司薫』の名義で発表され第61回芥川賞を受賞した作品で、学生運動を背景に生徒の大多数が当たり前に東大を目指す日比谷高等学校の生徒、「庄司薫」の生活を軽妙で饒舌な文体で描いた作品で。あらすじとしては1968年暮れ、東大紛争により受験するつもりだった東大入試が中止になってしまい悩みながら思弁する庄司薫(薫くん)が、愛犬が死んだ際に足の親指の爪が剥がれた事を『舌かんで死んじゃいたい』が口癖の幼馴染の由美に伝えようとしたり、治療に伺った先の美人女医に誘惑?されたりしながら、銀座をぶらぶらしていると小さい女の子に遭遇。少しおしゃべりしたあとに彼女にグリム童話『赤頭巾ちゃん』の本を買って別れ、最後は由美の家へ行き(やっと)東大はもちろん大学へ行く事自体をやめると告げて二人で手をつなぐのですが。 まあ、発表当時も色々と言われたみたいですが。個人的には文体、展開共にサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』のパクりとまでは思わなくもオマージュ、かなり強く影響を受けているな。と言う読後感でした。 一方で、現在だと森見登美彦の『四畳半神話体系』とかが浮かびますが。インテリ学生が年相応の妄想をダダ漏れしながらぶつぶつ語り続けるテキストは普遍的に支持されるのかな。と感じました(ちなみに私も好きです) 1960、70年代の空気感が色濃いベストセラーとして。またインテリ学生のぶつぶつ話が好きな方にオススメ。
関連する文学賞
- 芥川龍之介賞 第61回(1969年) ・受賞