作品情報
戦争を忘れても、戦後は終わらない。
『東京プリズン』は河出書房新社刊の長編小説。出版社公式ページで毎日出版文化賞、紫式部文学賞、司馬遼太郎賞の受賞作であること、448ページ、ISBN 9784309021201 と確認できる。
レビュー要約
-
個人史と国家史を大胆に結びつける構成が強い印象を残す。戦争責任という重い主題を、少女の視点と虚構の裁判によって現在の問題として立ち上げている。
書籍情報
- 出版社
- 河出書房新社
- 発売日
- 2012-07-06
- ページ数
- 441ページ
- 言語
- 日本語
- サイズ
- 14.2 x 3.5 x 19.9 cm
- ISBN-13
- 9784309021201
- ISBN-10
- 4309021204
- 価格
- 1980 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/文芸作品/日本文学
16歳のマリが挑んだ現代の“東京裁判”を描く、感動の超大作。朝日、毎日、産経各紙で、文学史的事件と話題騒然!
1964年生まれ。「SALE2」の編集を経て1995年以降文芸雑誌に作品を発表。山田、松浦以降の女性作家として注目。『蝶の皮膚の下』など。
レビュー
-
良い
良い
-
2023年のいま、この本は「賞味期限」切れかも
1980年と2010年の間の複雑で判りにくい回想シーンが過剰に埋め込まれているが、メインストーリーは主人公マリの成長物語である。15歳で一人メイン州の片田舎のハイスクールに追いやられた(とひがんでいる)マリが日米間の絶対的な文化格差を味わい、自然国家日本と人工国家アメリカの人々の考え方の違いを痛いほど思い知らされ、敗北感を抱いて帰国する一年間の留学経験が語られる。 それは特に国家の統治システムの違いに集約される。ヌエ的な天皇の存在はマリにも不可解だが、それが異常で悪いとまでは考えていない。日本国が神話で成り立っているのならアメリカ国もゲティスバーグ宣言のpeopleという神話から成り立っているとのではないかと。 同時に両国民には、神話の違いなどを越えた共通の想念があるということも、ホストファミリーとの付き合いの中で判ってゆく。それをどう概念化して行くかが、マリの新しい課題となる、と言う趣旨だ。 入り組んだ回想シーンで語られるのは、この家の知的な女三代の歴史でもある。特に母・京は沈黙の部分が多いだけに想像に富んで魅力的だ。 京は娘マリが留学した16歳の時に終戦を迎えた。祖母の話では極東国際軍事裁判(東京裁判)で通訳をしたというが、母はそんな御大層な話ではなく、戦時中も女学校で英語を学んでいた経緯から知人に頼まれて千駄ヶ谷のマッジホールで起訴状などの文書の翻訳をしたのだという。「BC級戦犯で下っ端よ」と母は言った。だが京は起訴状を作成するアメリカ人と一体だったと理解される。アメリカに留学したかったが反対されてあきらめ、日本の大学を卒業した後、米国関係機関で働き(外務省?)、30歳で結婚、三児を産んだ。マリの留学は母親の願望の追実現と読める。京にとっての1645年は敗戦ではなく解放だった。アメリカ男性の圧倒的な強さに「娼婦的」に憧れたが、結婚もかなわず、日本人で、アメリカ輸出商品を扱う会社経営者と結ばれる。会社は1985年にアメリカが仕掛けた円高誘導の「プラザ合意」で倒産。夫も直後に死亡し40年遅れの「敗戦」を味わう。京の父親が中国で得たという不明な金で買った家も抵当で失った。せめてもと京が選んだ娘マリのメイン州の宿泊先は、二言目に"American way of life"を誇るWASPの家庭で、ベトナム戦争敗戦の話題は御法度だ。留学先がドはずれな田舎だと嫌うマリにとって、京の素朴なアメリカ賛美は堪えられない。 一年下のクラスに編入されたマリの昇級試験を兼ねた「ディベート」集会が全校生徒とその父母迄も招いて行われる。講堂は裁判所の設えになっている。集会を主催する現代史のスペンサー先生は東京裁判で天皇が免責されたことに不満があり、マリの留学を機に裁判をやり直したいと考えていることが判る。先生は、ベトナム戦争後の社会の分断を立て直すのに、「ゲティスバーグ宣言」が古すぎるのであれば、真珠湾奇襲攻撃によってアメリカ国民が一体化したという神話を、元天皇を断罪することで再確認したいのだ。マリは、天皇は旧憲法上で元首とされているが、同時に憲法を基に国政を総覧する立場にあり、個人的な戦争責任者ではないと主張するが、大方の賛成は得られない。さらに検事役のマリが弁護役に転じてしまったことで、肝心なディベートゲーム自体を破壊してしまった。議論は打ち切られ、まばらな拍手が起こる中で、「ベトナム戦争の重荷を外したい」とマリに語ったホストファミリーの父で同じ学校の生物学教師のティムが執拗に手をたたいているのが目につく。「民主主義とは孤独なものだ」と悟る。 最後の仮面裁判は実際には行われず、マリの夢の中の出来事かもしれない。その中でマリはスペンサー先生に言う。もし世界が円の中にあるとしても、コンパスの針を刺す中心点(その中心点に民主主義アメリカがあると先生は言いたいのだろうが)などはない。円の内側にあるのは壮大な虚無である。しかし円を成りたたせるにはその内側が虚無で満ちていなければならないのです。マリは一人納得するがこれもアメリカ人には理解不能だろう。 私が感動するのは、ティムの拍手で、ここにアメリカ民主主義の原点が確かにあることを認めるのだが、同時にこの小説の有効消期限は終わったとも感じざるを得ない。トランプ大統領就任以後アメリカは全く変わってしまった。嘘でも言い逃れでも何でも使って、自分の主張を通しさえすれば良いとPeopleが考える国になってしまったのだ。ある国際政治学者が心配する事態を聞き逃すわけに行かない。「戦争の可能性は……次はアメリカの方が危険かもしれない」と。
-
新書並みに綺麗でした。
内容が読書前の予想と違っていました。
-
この夏、失われた歴史について、何度も考える
学生の頃、源氏物語や勅撰和歌集を学んでいて漠然と違和感を感じたのは、天皇の好色さであった。恋についての物語、恋の歌の多さであった。天皇の仕事とは、常に恋をし、恋の歌を詠むことであるのか。週刊誌で読む芸能人のようだ、などと不謹慎なことを思った。当時の自分の知っている天皇や皇室とは著しく異なった印象に、なぜだろうと不思議だったが、そもそも天皇に対して疑問を持ったりそれについて話したりすりことはなぜかできなかった。 戦争教育を大事にしている学校に通っていた。広島の原爆ドームを見に行き、祖父母ほどの年齢の方に東京大空襲の話を聞く勉強会があった。憲法第九条を丸暗記させられた。しかし、戦争犯罪として裁かれた内容とはどんなもので、天皇の責任がそこにどうあるのかについては、まったく触れられることはなかった。そう仕向けられていた。それができない空気が、そこにあった。 天皇の即位20周年では、奉祝曲をEXILEが歌った。わたしはこれが全く腑に落ちず、なぜだと思いテレビの前で散々文句を言っていたら、戦中派の年老いた父が、 「鎮守の神社の秋祭りでもテキヤがよばれるだろう?高級な芸能人は、高級なテキヤみたいなもんだからいいんだよ」と言ったことがあった。 古代の天皇は恋をし歌を詠み、女性を孕ませ子孫繁栄させる。自然と調和し、収穫を祈るシャーマンである。秋祭りは収穫を感謝する。生んで増えて地に満ちる。子孫繁栄はと五穀豊穣は基本的には同じである。 しかし、それは明治以降の近代国家の君主とはまったく異なる天皇像であった。 天皇の機能的な側面。システムとしての天皇。政治から遠ざかり、最高の神主であった天皇は、近代国家にて軍服を着た政治家にさせられてしまった。 最近、アメリカのお札について、面白いことを教えてもらった。 1ドル紙幣の裏には、In God we trust (われわれは神を信じる)と書かれている。アメリカは、キリスト教宗教国家である。ここに書かれている神とはイエス・キリストのことである。 鷲の絵がある。鷲は、右足で平和を象徴するオリーブの枝をつかみ、左足で13本の矢をつかんでいる。矢は戦争を意味するのだ。 平和を求めるが、正しい戦争であれば、戦う。という意味であるらしい。 そして、正しい戦争とは、彼らの神に命じられた戦争なのである。お札という一番世俗的なものにまで神について印字しているのがアメリカらしい。また、1ドル紙幣にまで神を書こうとする人たちが、自分たちの神であるキリスト教以外の他の神について、どう思っているかは、現在でもいろいろな行動に表れている。 小説の後半、スポットをあてられ次々あらわになっていく戦争の問題。アメリカが負け傷に思っているベトナム戦争、そして日本人が大きなダメージを受け、しかしそれをなきものにしてきた太平洋戦争の敗戦、東京裁判、天皇制。マリが「天皇とアメリカは双子だ」という。そう、戦争をするためには神が必要である。アメリカで1ドル紙幣に書かれている神。それが近代日本では天皇の役目となったのだ。 戦争について。アメリカについて。天皇について。 重大な日本の歴史に関して、今まで語られなかったこと。分断されてしまった戦前と戦後。つながらない切れた歴史を、つなげていく物語が東京プリズンである。 戦争の傷跡は、いまだ私たち日本人の痛みである。生きづらさそのものである。 「東京プリズン」を呼んで気づかされ、戦後タブ―とされ、ないことになっていたこの歴史について、もう一度語り合う機会をもらったのだ。 これぞ大いなる文学の仕事、日本文学の傑作である。
-
去勢されたニッポン、いまも女々しくアメリカに膝を折るか。
1945年8月15日、ニッポンは去勢された。 著者はフェミニストじゃないのだろう。 でも、この感覚は理解できる。 以来ニッポンは女々しくアメリカに膝を折ってきた。 いまも。 本書の内容を端的に言えば、 15歳の日本人少女が留学先のアメリカの学校で、 「天皇の戦争責任」について肯定する立場でディベートに参加させられる、 というお話。 1980年、15歳にしてアメリカの最果てに留学させられた主人公は、 アメリカに馴染めない。 アメリカに馴染めない気持ちは、ぼくも何となく共有できる。 20代に初めてニューヨークを訪れた時も、 家族とハワイに出かけた時も、 最近仕事で立ち寄る西海岸や中南部の地方都市でも、 不愉快な気持ちになる。 アメリカの文化も政治も尊敬しない。 思えば、お気に入りのバンドもアメリカ・オリジンはいないな。 焼夷弾で日本の街を焼き尽くし、戦後の自国の立場を有利にするために原爆を投下、 意図的に民間人を殺戮しておきながら、 平和に対する罪などを持ち出すわけだし、 いまでも偶発的な奇襲となった真珠湾のことを、根に持つ人たちも多い。 もちろん、天皇陛下をカミとして担ぎ上げた人たちの罪は極めて大きいのだけど、 イエス・キリストをカミの子だと崇める人々に、 天皇陛下をカミと信じた日本人をクレイジー呼ばわりされる謂れなど無いと思う。 まして、カミを裁くことなどあってはならないと思う。 1980年から2011年、もしかして太古、もしかして1960年代、 高円寺、新浦安、アメリカ最北東のメイン州、あるいはベトナム、 主人公が時空を不自然に移動する設定に、 少し困惑するのと、 なぜタイトルが「東京プリズン」なのかが読み取れない。 これは、マリにとっての「東京裁判」のお話だと思うのだけど。 未だ我々日本人は東京プリズンに囚われている、 ということなのだろうか。
-
脳内で交響楽が響きわたる小説
赤坂真理さんの『東京プリズン』をたったいま読了した。 小説というよりも、長大でダイナミックな詩であった。この2日間、電車移動中に活字を追いながら、ずっと不思議な感覚のなかにいた。力強い浪のうねりにもみくしゃにされ、と思うと不意に浮上させられ、やっと息継ぎができると思ったら、再びまた別のうねりがやって来て海底に引きずり込まれる。海にいるかと思ったら、実はそこは川であり、川かと思ったら森林であり……とにかく言葉とイメージのダイナミズムとアクロバティズムに翻弄された2日間であった。 そして、最後の数ページ、終わるのを惜しむように意図的に速度を落として読み進めていたとき、自分の頭蓋骨の内側で、マーラーの第8交響曲によく似た、しかしもっと複雑な調性を持つ交響楽が鳴り響いているのを感じていた。 いろんな読み方ができる小説だと思う。疾風怒濤の成長を描いたアヴァンギャンドな教養小説、愛着と憎悪の両価性を揺れる母娘の物語、あるいは、反復されてきたあらゆるトラウマの始原としての戦争、戦後の日本と米国、世界とか宇宙とかという、とてつもない大きなスケールの話……。いろいろな意味の可能性が多層的に見え、多声的に聞こえてくる。でも、私は、まずは「詩」として言葉に身を委ね、翻弄されるのがよいのではないかと感じている。 残念ながら、いまはまだここまでしか感想を言葉にできない。もっと具体的で分析的な言葉が析出するには、もう少し時間が必要そうだ。ただ、はっきり言えるのは、短編集「コーリング」や「ヴァブレータ」以降、自分なりにフォローしてきた赤坂さんの作品のなかで、掛け値なしの最高傑作である、ということである。
-
う〜ん
日本人は、学校で日本史(とくに明治維新後)を学んでいないという事実を確認するには、とても良い本。その通りだから。 分厚いわりには、スピード感をもって読めるのは、過去の自分と今の自分を電話で繋げるという、作者の工夫力による。 ただ、残念なことに内容が、案外と軽い。最後でガッカリした。とにかく締め括りが甘い。 それは、何故なのか? 天皇とイエスキリストを殆ど同列に置いてしまえる作者の感性ゆえなのか? これは、「救い」が全く無い本である。ゆえに爽やかな読後感が無い。 途中までは、楽しめたので、☆ふたつ。 いつか作者が、「本物」に出会えるよう、願う。
-
非常に残念な読後感としか言いようがありません。
出版時には大変話題になり、いくつかの賞を受賞した大作。 戦後の日本を総括する小説と言われ、また東日本大震災の直後に出たので、311以降の心象風景も詰め込まれた、傑作だと本の帯を含めて各所で喧伝されていました。 実際は、主人公=作者(主人公の名前は作者と同一です)の私小説であり、高校1年生のときのアメリカ留学の辛いディベートの経験を中心に、作者とその家族が生きた記憶を、主人公の回想で構築した、「今までの自分の人生のカミングアウト」小説に近い。 それに、タイムスリップと幻覚というSF手法を用いているので、正直言って非常に読むのがしんどい小説でした。(しかもSF的な手法が全く成功していないように見受けられます) タイトルからも連想される「東京裁判」についての記載も、結局作者が何を言いたいのかがよくわからず、すっきりしないまま放り出されるように小説は終わります。 作者は自分の人生の総決算としてこのような大作を書いて、大きな満足を得ているのかもしれませんが、それにつきあわされる読者はかなりキツイものがあります。 やや辛辣な意見になりますが、このような小説が出ることで、小説を読む人が減るような気がしてなりません。
関連する文学賞
- 毎日出版文化賞 第66回(2012年) ・受賞
- 紫式部文学賞 第23回(2013年) ・受賞
- 司馬遼太郎賞 第16回(2012年) ・受賞