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枯木灘 (河出文庫 102A)

野間文芸賞

枯木灘 (河出文庫 102A)

中上健次

紀州の路地を舞台に、血縁、共同体、暴力、神話的な時間が渦巻く中上健次初の長編小説。現実の土地と物語の力がぶつかり合う、戦後文学の記念碑的作品である。

紀州血縁と共同体神話性

作品情報

枯木灘は、中上健次の視点から時代と人間の姿を映し出す作品である。

浜村龍造をめぐる複雑な血の関係が、土地に沈む記憶と結びついていく。激しい文体と濃密な人物造形により、中上文学の中心をなす世界が形づくられる。

レビュー要約

  • 題材への切り込み方と落ち着いた筆致を評価する声がある。展開の速さよりも、時代背景や人物の内面をじっくり読む作品として受け止められている。

書籍情報

出版社
河出書房新社
発売日
1980-06-01
ページ数
312ページ
言語
日本語
ISBN-13
9784309400020
ISBN-10
4309400027
価格
56 JPY
カテゴリ
本/文学・評論

自然に生きる人間の原型と向き合い、現実と物語のダイナミズムを現代に甦えらせた著者初の長篇小説。毎日出版文化賞と芸術選奨文部大臣新人賞に輝いた新文学世代の記念碑的な大作!

レビュー

  • まるで一緒にいるような錯覚

    幻冬舎の見城社長の薦めでこの本を手にとりました。しかし、こんな本もまだまだ有るんだなぁ、と嬉しく思います。 これほど美しい土の描写を見たことがありません。風や太陽の表現は良く目にするものの、土がこれほどまでに生き生きと、そして通底して絡んでくるのはこの小説以外にないでしょう。 昔を思い出します。ここほど複雑な系図ではありませんが、枯木灘のような疎ましい親族づきあいはどこにでもあると思います。その場にいて怒鳴りたくなるような、昔話と辛気臭い近所の悪口雑言。 お盆に読むことをおすすめします。ちょうどいいと思います。

  • 私とってこの作者の言葉使いや表現が心に響かないし内容も興味が持てず選択したことを悔やんだ、これまで数百冊読んだなかでも最低でした。

    推薦文を読み購入したげれど内容がまったく理解不能でこんなに感じているのは私だけ?と不安になるほど退屈なないようでした。

  • ちょうど300ページというのは計算か?

    文庫化されたときには、本編と付記のための目次が入るわけで、1ページ分ずれる。単行本が出たときは、あの家系図が冒頭を飾ったのではないかと推測する。 前半の、出所して戻ってきただけで火災が増える「その男」の存在感は素晴らしいが、たとえば、五郎、秀雄、徹、女なら美智子、紀子、さと子などのキャラクターの違いが感じられないので、平板な印象になった。そういう描き分けに興味が無いのかもしれないけど。 噂によって事実が歪曲されていくところに注目したのは、面白い。

  • 枯木灘から繁る幸

    既に社会的評価の定まった本作ですが、自分なりの解釈を交え、レビューにしたいと思います。 一読のみの感想です、しかし、そこに再読したかのような感覚があったのが何故か不思議です。 実は本作、何度か読了まで挫折を重ねています。その文体には、ある種独善的とも言えるほどの 迫真性があり、特異な読力を要求されるからです。こうしたことは、近年の作風にはあり得ないものでしょう。 幸い、ネットに執筆当時のエッセイを見つたので、以下、一部抜粋します。 「ドストエフスキイの小説『罪と罰』を読んだのは高校時代だった、と思う。いや読んだのではなく、 読みかけて途中退屈し、後はとばし読みしたのは、である。それからしばらくして、私にはその ドストエフスキイは、軽蔑と嘲笑の対象だった。(中略)よくこんなに退屈なものを冗長に書けるものだと、 感じ入り、また軽蔑した。文庫本を次々買って来て読み囓りはするが、冗長な文章につきあっているほど 暇じゃない、とほうり出した。実際、暇はなかった。聴きたいジャズが、朝から自分の耳の中で鳴っていたし、 借りていた部屋の外はペテルブルグではなく一千万の都会の朝だ」 ドフトエフスキーについては、私にとっても似たようなものですが、この「枯木灘」にも、今、同様の思いを抱きます。 この作品は、熊野という場の根拠に最善を恵まれたろう、作者による畢生の名作と評価されますが、その可能性を確かめる意味で、 自身の率直な感想を言いたいと思います。これには柄谷氏の評論などの影響もありますが、凡そそれは、一点に集約されます。 本作中、最も印象的な部分を引きます。 「フサは秋幸を連れて繁蔵と逢引した。まめを繁蔵がかみくだいて秋幸に食べさせた、と言った。いつの日か分からぬが、 映画に行き、秋幸がその画面の中のおどけた男の仕種が気味悪く早く帰ろうと言った。それがチャップリンだった、と後でわかった。 (中略)郁男は自殺した。美恵は気が触れた。秋幸一人、無傷だった。いや秋幸でさえ、ひとたびこの、父と父の子と、 母と母の子の家を出ると、無傷では済まされない。」(P136) この小説は、中上健次の内面世界の劇です。内面化された熊野の地と血縁は、現実のそれとは別ものである筈です。 そこで中上健次少年にとってのチャップリンと言う他者が告白されます。専横な力の象徴としての父、その柵の下で、主人公、秋幸は、 発作的に兄弟を殺してしまい、その小説世界から逃れ、隠されてしまいます。終結にはそして、幼児性を象徴する徹が強調されてゆきます。 この小説は、中上健次という他者性そのものです。私は終止その人とその世界に突き放されたまま、それを読み終えました。 こんな小説を読んだことは、正直に言ってありません。小説自体が隣人そのものである様なものです。 [強烈なリアリティによる自己の寓話]と、言ってみてもよいでしょうか?多くの作家がこのような境遇に恵まれることはないでしょうし、 以降の日本文学は、この成果を巧みにスキップしてしまったようで、この頃の小説は、小説然として佇んでいる気がします。 「かくして、『枯木灘』という私の処女長篇は、ドストエフスキイという作家に反発しながら書いた。だが、いまひるがえってみると、 反発や軽蔑とは触発というものと同義である事に気づくのである。つまり、さながら敬虔なクリスチャンが聖書をめくり一節を読むように、 深夜、一人、ドストエフスキイを読んでいたように思えてくるのである」 嘗て作家のそうしたように、今、この小説を読み返す者のどれほどあるのか分かりません。 現実の全てである筈もない小説表現の担うべき分とは、ではその先にどんな梢を伸ばすべきなのか、柔らかな葉の表に日を撥ね得るのか、 「枯木灘」とは、寂しい碑銘にならないことを切に願います。 夢の力 (1981年) (角川文庫)

  • 読むのが辛かった

    自分の読解力が無いのか読み進めるのが辛かった。 物語は目まぐるしい場面の移り変わり、 気づくと過去の記憶をたどってる場面に移り変わり それに気づくと、今度は場所が移り変わる。 今読んでる場面がいつのできことなのか分からなくなる。 この文書構成に何度挫折しかけたか。。 作業のように読みきった感は否めない。 小さな集落の複雑な血縁関係の中、各自が本能の赴くまま生きて行き 結局その集落の中で救いようの無い虚無感だけが残された。

  • 行為が観念を超越する――人間賛歌。

    「熊野のフォークナー」を自任したという著者だが、読んでいて頭をよぎったのはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』だった。極道な父の呪縛から逃れようともがく息子、二者の確執の果てに起きる家族内での殺人。人間の本性を引き出す役目を演じる白痴の女から生まれたスメルジャコフ(カラマーゾフ)と白痴の女の子(枯木灘)……。どちらの作品も、ストーリーの本質は「因果」であることこれでもかと思い知らせてくれる。血の関係は因果の連鎖である。ギリシャ悲劇も、源氏物語・平家物語も、シェークスピアも、もっといえば聖書も、時代を超えて演じ継がれ語り継がれるものの多くは血の物語だ。 (以下ネタバレがあります) 『枯木灘』の主人公、秋幸の母親フサの二番目の夫は、フサが秋幸を妊娠中に刑務所行きとなるが、ほぼ同時期に二人の女性と関係を持ち、それぞれに子をなしていた。それを知ったフサは激怒して龍造と絶縁、最初の夫とのあいだにできた三人の子どもたちを置いて秋幸だけを連れて三番目の夫となる竹原繁蔵のもとに身を寄せる。秋幸の種違いの兄、郁男はこのことを恨み続け、二四歳という若さで自殺。秋幸は自分のせいで兄が死んだという罪悪感に苛まれ続ける。秋幸の弟分である徹は、繁蔵の兄の妾腹の子で、秋幸とは従兄弟関係になるが、徹もまた自身の出生について複雑な感情を抱いていた。 郁男、秋幸、徹だけでなく、再婚と再々婚というとりあわせの夫婦を中心とした竹原家の誰ひとりとして自身の生い立ちに一点の曇りもない者はいない。紀州南端の枯木灘という、隔絶された不毛の地で何代もかけて濃縮された人間関係の網から誰も容易には抜けられないのである。何をしていても、どこにいても、「いつも誰かが見ている」のだ。その視線を振り払うかのように秋幸はつるはしをふるう。「秋幸は土方をやりながら、自分が考えることも知ることもない、見ることも口をきくことも音楽を聴くこともないものになるのがわかった」。自分の体を酷使することで煩悩から解脱しようとするかのような秋幸の肉体労働の場面が規則正しいとさえいえる頻度で挟み込まれている。 その労働と労働の間には、秋幸自身の血族と、奔放な母につらなる父親の違う兄弟たち、そして自分がその姓を戴く竹原という血のつながらない家族が三つ巴に絡み合って秋幸の心はひとときも休まることはない。紀州のどん詰まり、枯木灘にへばりつくようにして固まって住んでいる秋幸ら一族をたえず監視する「目」のおおもとが竹原家の長姉で、一家を支えるために女郎として売られたユキである。その経緯から、彼女に逆らえるものはおらず、彼女が誰彼かまわずつかまえて語る、昔話、愚痴、妄執、噂、そんなものが、竹原家の歴史となっていく。自分が女郎に堕ちてまで救った竹原家の物語は美化して語られねばならず、「路地」の生まれのフサや秋幸、女郎腹の徹などは一門にふさわしくない存在なのである。血のつながりが薄く、卑しい者につらなる彼らはいつでもスケーブゴートとして葬り去ってかまわない、いや、葬り去ってしまいたい恥部なのだ。その物語に抗うように秋幸は妹と姦淫し、弟を殺害し、父と自分の血の関係を精算しようとするのだが、かえって呪詛のようにユキの口から吐かれる物語にとりこまれていく。不条理の語り部としてのユキのどこまでも下衆な凄みはこの小説の読みどころの一つである。 ある種の暴力的生命力の持ち主である「その男浜村龍造」に対して秋幸が抱いているのは単純な憎しみや怖れでもなく、慕わしさや憧れでは断じてなく、煎じ詰められた執着であろう。秋幸にとってその男は出会いたくなかった人間であり、いなかったことにしたい人間である一方で、どうあがいても最後は拒絶できない存在である。秋幸自身にその男の血が流れているからだ。彼を殺しても自分のなかに彼は生きるであろう。秋幸にはそれが苛立たしい。別腹の妹さと子とそれと知っていて関係を持ったのは「生涯にわたっておれがおまえの苦の種でありつづけてやる」という思いからだった。さと子との関係をその男に告げた秋幸は、「男が苦しみのあまり呻き叫ぶのを待った」。しかし、その男は平然と言ってのける。「しょうがないことじゃ。アホが出来たらまあ産んだもんはつらいじゃろが・・・アホの孫の一人や二人どういうこともない」。この男の狂気はこのくだりに集約されている。母の葬式に涙一つ流さず、「太陽がまぶしかったから」という理由で殺人を犯す『異邦人』ムルソーばりの冷血。それに比べて養父繁蔵が、秋幸が腹違いの弟を殺めてしまったことを知って涙を流して「何のためにここまで育てたんか・・・えらい事してしもた」とつぶやく姿はこの小説においてはむしろ場違いなくらいなまっとうさである。この凡庸さに救われる読者は少なからずいるだろう。 ユキがある種の復讐心のようなものをもって竹原一族の物語を紡ぐ一方で、「その男浜村龍一」も自身の過去を伝説の英雄、浜村孫一と結びつけることによって書き換え、それにしたがって地元史までも白紙にして一から書き起こそうと試みる。彼にとって息子とはそのためのエージェントであり、女は父を息子に結びつける媒体としか見ていない。だから彼にとって三人の女性に同時に子どもを産ませたことについての良心の呵責は微塵もなく、ほうぼうに産み落とした娘や息子に対してなんの負い目も持っていない。むしろ孫一の「末裔」である自分が歴史を書き換えることこそが子孫に対して果たす使命だと信じているような節がある。そんな男を秋幸は「蠅の王」と心の中で呼び、軽蔑した。 そして、秋幸の物語である。「郁男と秀雄を殺した。仕方がなかった。二人を殺さなければ、秋幸が殺された。秋幸はそう思った。いや秋幸は、秀雄が、あの時、郁男に殺された秋幸自身であり、実際には首をつって自死する郁男のような気がした。郁男が諌めるようにして死んだ十二歳の時から、秋幸は郁男を殺したと思ってきた。すでに人は殺していた」。郁男の死後、秋幸は第二次性徴を迎え、「蠅の王」浜村龍造の生き写しとなっていく。「それは人殺しの体だった」。秋幸という主人公は、観念に対する行為の権化である。まとわりつく因果の糸をふりほどくかのように肉体労働に没頭し、女を抱き、発作的に「その男」を追跡し、弟の頭を石で殴りつけて殺す。 季節は夏である。南国紀州ではハイビスカスにも似た夏ふようの花がこの物語全編を通じて咲き誇っている。強い光と濃い影。躍動する肉体。中上健次が異色の紀行文『木の国・根の国物語』でなしえなかった、被差別部落において「収奪された言葉」を取り戻すという仕事が、小説『枯木灘』において、体制側の歴史を刻む「書き言葉」を超えるフォースを描くことで見事に達成されている。ユキは怨念と妄想の物語そのしわくちゃな口元から紡ぎ出し、「その男浜村龍造」は自身の男根の象徴のごとき浜村孫一の石碑を打ち立て、白地図に自身の帝国をつぶさに描き込み、秋幸は労働、性交、殺人という究極の行為によって自らの出生を乗り越えようとする。事件のおこった夏、秋幸の姪、美智子は十六歳にして新たな命を産み落とし、恋人紀子は、殺人犯となった秋幸の子どもを宿す。躍動する肉体が、行為によって観念を超越する人間賛歌である。

  • しがらみを持ちながらも、人間は、生きていくしかない。

    ネタバレあり。 人間は生きている限り、色んなしがらみを抱えていくしかないのだなぁ、と思わせます。 ごめんなさい。これから先の記事では、本編ストーリーを殆ど語ってしまいます。ネタバレになりますが……。ストーリーを知ってしまっても、読みごたえが減じるような作品ではないですからご安心ください。 主人公・秋幸の実父が、甲斐性の有る男なんですが、性に関してはやりたい放題な生き方をします。 土地を買いたたいて利益を得ようとする時に、その利益とは無関係なのですが、他人の家に入っていって人の妻を強姦する。それによって出来た子が、主人公・秋幸なんです。(間違ってたらごめんなさい。本編が長いので正確な背景が再確認しにくくて…) 秋幸は冒された妻の本来の夫との間の子として育てられます。 母の竹原フサには、主人公の実父浜村龍造への意地があったのでしょう。 浜村龍造には、本妻が居て妾が居ます。そしてフサとも関係を持ちました。 そして、フサのほうには前夫との間に三人の子が居て、再婚相手の繁蔵との生活には繁蔵の連れ子が居ます。浜村龍造とフサの間に出来てしまった子が、秋幸。浜村龍造と本妻の間に三人の子。浜村龍造と愛人の間に一人の子。 これだけの子供がそれぞれ成長して、それぞれに思いを持って生きている。 フサの前夫の子らは、独立して離れているが、そんな子らが、フサの孫娘が結婚することになって、祝言のために顔を合わす。 家族それぞれのじがらみ、業を思わされます。 フサの前夫との間の子、郁男(長兄)は、秋幸が幼い頃に、毎日のように畳に包丁を突き立てて、「お前ら二人とも殺してやる」と凄みます。郁男にしてみれば、母フサは、浜村龍造によって穢されている訳です。浜村龍造の血の入った弟、秋幸も同時に憎いのです。 しかし、結局、郁男は殺人を犯すのではなく、家の裏山の柿の木で首を縊って死んでしまいます。 フサの二番目の夫は、(前夫は病死です)竹原繁蔵。繁蔵は建設業をしています。繁蔵に家で育てられた秋幸は、大人になると繁蔵の下で働き、26歳の現在、土方仕事の一つの組を任されています。 つるはしで土を掘り起こす様子が、体験した者でしか書けない、汗と熱気が沸き立つ描写でした。 さらに、何故、一生懸命に肉体労働に邁進するのか。それは、自分が浜村龍造の子で、性に無頓着な獣の血を受け継いでいると常々思っているから、その気持ちを浄化させる為に働いているのです。 浜村龍造は、フサとは一緒になれず、別の土地に生きています。その龍造との再会。材木屋をやっている俺のところに来ないか、という龍造の秋幸に対する誘い。 龍造は、土地を買い占め、それを転売することで成り上がってきた男。目論んでいる建物を建てるのに邪魔な家には立ち退きを迫り、それでも家が残ると付け火をするといった悪事を重ねてきて成功した男です。しかし、彼自身の口から秋幸に対して、それを認める発言はついに得られませんでした。 自己を記念する為、後世に足跡を遺す為、さらには自己の栄誉心から、浜村龍造は枯木灘という土地に、浜村孫一の碑を建てます。浜村孫一とは、戦国時代の武将で、織田信長(家康だったかも)に抗い、昔からの土地を護る為に玉砕覚悟で戦い戦死した男です。敗走するとき、和歌山の山中に逃げ込み、片目になり片足を引きずりながら命からがら枯木灘に辿りつく。そこでついに息絶えた。その浜村孫一と浜村龍造は血縁で繋がっている(孫一が先祖であった)という保証はどこにもない訳だけれども、こじつけてでも碑を建ててしまう。 そういうやり手で悪い男の龍造を、秋幸は心から赦すことができない。 妾の娘にも手をかけてしまったと噂のある浜村龍造。秋幸は、どうせ俺の血は穢れているんだという思いから、自分の異母兄妹の売春婦をしていたさと子とも知っていながら関係を持ってしまう。 最後は、龍造の正式の子の秀雄と口論になり、祭りの夜、「自分の父親を悪く言うな」と、石を持って殴りかかってきた秀雄を秋幸は反対に殺してしまう。その秀雄と口論になっている姿が、秀雄が、幼いときの自分であり、今の自分は自殺する前の郁男のように感じる、と主人公自ら文中で語っています。 親族の永い歴史であり、昔あったことと同じような事が何代か先にも起こる、というのは神話的構造です。ガルシア・マルケスの『百年の孤独』も、同じ範疇に入ります。 ストーリーを殆ど語ってしまって申し訳ありません。 文体は、悪文と言われる適切ではない日本語も頻出してきて、三人称で書かれて主語はその度その度に出てきますが、主語が変わるのが目まぐるしく読みにくい作品でした。 しかし、その文体が、何故か読み進み後半にもなってくると、荒々しい路地の人達の気性や生きるための徒労のような仕事を表すにはぴったりくる文章に感じました。 『枯木灘』本編のような内容は、普通にある生活とは言えないかも知れませんが、生活そのものを忠実に描写すると、その期間が長いと、うーん、と呻ってしまう文学になりえるなぁ、と感じました。 感想としては、生きるのは、生きていくのは、大変だなあ、と思いました。どんな人にも色んな事が起こるし 、しがらみを持ちながらでも人間は生きていくしかない、と感じさせられます。

  • 文学作品として評価はするが好きではないし、面白くもない

    人間の心の内側から搾り出すような文章表現は、終始ストーリーとしてはメロドラマだなと思いつつ冷めた目で読んでいるのに、一瞬で感情移入させられてしまう見事さがあった。 話の内容は、どうしようもない親の子に生まれた主人公とその家族や周辺の人々が、どうしようもない血に巻き込まれて生きていくという話である。憎んでいるものの、自分の血の半分はその憎い男のもので、心の奥底では愛情(父親を愛したいという願望)もある。その中で葛藤しながらも、自分の心の奥底に憎む父親と同じ物を見てしまい苦悩する。そんな話だ。 不幸な生い立ちだとは思うが、主人公は血に負けただけだ。似たような境遇を乗り越えた人もいるだろう。そんな負け犬の話だ。

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