日本の文学賞

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死を生きた人びと――訪問診療医と355人の患者 (0)

日本エッセイスト・クラブ賞

死を生きた人びと――訪問診療医と355人の患者 (0)

小堀鴎一郎

訪問診療医である著者が、多くの患者の看取りを通して在宅死と終末期医療を考える記録。患者が望む最期と、それを妨げる制度や家族の問題を具体的に問う。

在宅医療看取り終末期死生観

作品情報

どう死にたいかを、看取りの現場から問い直す。

みすず書房刊。フランス語版も確認。

レビュー要約

  • 現場の経験に根ざした具体性と、読者自身の死生観に触れる問いが評価されている。医療制度への批判も実感を伴う。

書籍情報

出版社
みすず書房
発売日
2018-05-02
ページ数
216ページ
言語
日本語
サイズ
13.4 x 1.9 x 19.5 cm
ISBN-13
9784622086901
ISBN-10
4622086905
価格
2480 JPY
カテゴリ
本/社会・政治/福祉/高齢化社会

***************************************************** これまでに355人の看取りに関わった訪問診療医が語る、患者たちのさまざまな死の記録。 定価(本体2,400円+税) 現代日本では、患者の望む最期を実現することは非常に難しい。「死は敗北」とばかりに ひたすら延命する医者。目前に迫る死期を認識しない親族や患者自身。そして、病院以外 での死を「例外」とみなし、老いを「予防」しようとする行政と社会。さまざまな意図に絡めと られ、多くの高齢者が望まない最期に導かれていく。 「病院死が一般化するにつれ、自分や家族がいずれは死ぬという実感がなくなり、死は ドラマや小説の中に出てくる出来事でしかなくなっていった」。多くの人びとが死を忘れた ことが、すべての根底にあると著者は考える。 しかし著者の患者たちは、日々の往診の際に著者と語り合ううちに、それぞれの最期の あり方を見いだしていく。8割が病院で死亡する現代日本において、著者の患者は、その 7割が自宅での死を選んでいる。 「死は「普遍的」という言葉が介入する余地のない世界である」。日本の終末医療が在宅 診療・在宅看取りへと大きく舵を切りつつある今、必読の書。

小堀鷗一郎(こぼり・おういちろう) 1938年、東京生まれ。東京大学医学部医学科卒業。医学博士。東京大学医学部付属病院 第一外科、国立国際医療研究センターに外科医として約40年間勤務。定年退職後、埼玉県 新座市の堀ノ内病院に赴任、在宅診療に携わり、355人の看取りにかかわる。うち271人が 在宅看取り。現在 訪問診療医。母は小堀杏奴。祖父は森鴎外。

レビュー

  • 市井の人にこそ読んでほしい

    死にかたや死について深く考えさせられる本。

  • 良かったです。

    良かったです。

  • 現役医師

    ご自身の経験談が、事例で書かれており、ドキュメントのドラマを見ているようでした。 在宅医療の創成期の貴重な記録になると思います。

  • この本は

    医療関係者と介護関係者が読む本かと思います。NHKでの「大往生」や「親のとなりが自分の居場所」を見たので、それに関係した本かと思って買ったのですが、ちょっと自分の思う事とは違ってました。

  • 死に向きあって生きること

    新型コロナウイルスへの対応で、医療現場がひっ迫しているという報道に接して、改めて、献身的な医師・医療従事者で支えられてきた日本の医療を思い返し、本書を再読したくなった。 1.本書の内容について 日本は多死時代に突入する。2025年、800万人の団塊の世代が後期高齢者(75歳)となり、後期高齢者が人口の4分の1(2200万人)を占め、そのうち4分の1~5分の1が要介護と認定され、年間の死亡数が160万人~170万人に達する。本書は、高齢者の人口爆発を目前に控えた中、患者、家族及び医師が何をすべきかを問うものである。 著者は、この問題の根本に、死についての思想の欠如をみる。医療は、死を敗北と思い込み、生かす医療に集中し、死の質を省みない。患者とその家族は、病院死が一般化して40年が経つ中、死を自らと無縁の遠い存在だと感じ、死に向き合うことを避けたまま、また在宅死(在宅看取り)という発想がないまま、いざという場面で病院に任せる選択をする。 その結果、救命・治癒・延命の医療を受け、病院死に至るという死の在り方が、社会通念化している。これに対し、著者は、病院死から在宅死へのパラダイムシフトが必要であるという。背景には、死亡者数の激増と医療費削減に伴って在宅死を避け得ない時代が来るという認識のみならず、訪問診療医として355人の臨終に関わった経験からくる確信がある。 本書では、著者が関わった42の事例の紹介されている。各事例は、著者が、患者が最後の拠り所とするところを共に求める努力をした過程であり、様々な思いを遺して世を去った人々の無言のメッセージである。そこでは、生かす医療や病院死が、患者とその家族にとって必ずしも望ましい死ではないことなど、「在宅死のリアリティ」が提示される。 国は、この10数年、終末期医療の場所を病院から自宅に移す政策をとっており、在宅医療・在宅看取りという言葉も知られるようになった。それにもかかわらず、在宅看取りが普及しない。著者は、報道、統計データ及び官庁の資料などから、背後にある様々な問題や社会の構造に迫る。この「在宅死のアポリア」の解明が本書のもう一つの軸である。 著者は、冒頭に述べた問題への最も効果的な解決策は「かかりつけ医」を持つことに尽きると結論する。患者とその家族の状況を熟知している「かかりつけ医」が、患者とその家族との信頼関係のもと、望ましい死を考えることを促し、いざという場面において入院治療(病院死)か在宅治療(在宅死)を的確に判断する、という仕組みが不可欠ということである。 2.本書の著者と方法論について 著者は、大学病院と国立医療機関に40年勤務した。同機関の院長を最後に定年退職した後、埼玉県新座市の189床の急期性病院に赴任し、その数年後の2005年から往診(訪問診療)に携わるようになった。また、著者は、森鴎外の孫である。鴎外は、著者が生まれる前(著者の母、森杏奴が13歳の時)に死去している。 著者は、別の機会に、「外科医という白黒が判然とする職業を選んだ背景には、……物書きの世界……から距離を置く意図もあった」と述べている(『鴎外の遺産第1巻林太郎の杏奴』11頁)。また、著者は、本書の「あとがき」において、「外科医という黒白の明瞭な世界で半世紀を生きて」きて、「まとまった文章を書いた経験は皆無である」と述べている。 その上で、著者は、「訪問診療と一人一人の看取りという、マニュアルのない、黒白のつかない世界での体験をまとめるにあたっては、事実の断片をコラージュしていくという方法論が有効であろう」と考え、本書において、「事例と引用文で成り立つ、すなわち事実のみで成立する書物を作ることを試みた」としている。 本書で紹介されている著者の関わった42の事例は、それぞれ一つの事実として取り扱われ、徒な情緒性は排されている。引用文には、上記で触れた報道、統計データ及び官庁の資料のほか、鴎外、幸田文及び中勘助の作品からのものもある。これらも、作品の中で扱われた死から、人の死への向き合い方に関する事実を取り出すものに過ぎない。 しかし同時に、著者は、事例の中に無名の人々への挽歌を込め、本書が「日々の切れはしからなる物語」となることを願っている。事例が蘇らせる一人一人の死にざま(生きざま)、それに寄り添って共に努力する著者の姿は、二重の「物語」となっていると思う。また、著者は触れないが、事実を積み上げて社会の構造を照らすさまは「史伝」を遠くに想起させる。 著者は1938年生まれで、本書の出版は2018年である。往診活動及び本書の執筆は、後期高齢者となり、医師という職業の最終場面を迎える中、職業的さらには生物学的な死を見据えて、著者が選択した生き方といえる。多死時代が目前に迫る中、自身、家族そして社会の死との向き合い方を考える上で、確かな立脚点を与えてくれる名著である。

  • もっと早く読めばよかった

    小堀氏のような医師が日本に何人くらいいるのだろう。年をとれば死ぬのは当たり前。身体も頭もだんだんと弱っていくのも当たり前。その姿を見守って親を見送ってやりたいと思っても、たった一人で何もかも決断して実行しなけりゃいけないのか?今の日本ではほとんど不可能なんじゃないか? 先週(4月15日)、88歳の父の様態が急変したので、救急車を呼んでしまった。運び込まれたK大学病院の医師は「なぜ連れてきたんだ!」と怒っていた。 父は前立腺がんや心房細動などの病を抱えながらもなんとか元気で、二週間前まで週2回デイケアに行き、週1回訪問リハビリを受けていた。正月あたりから少しづづ食は減っていたが、二週間前に急に食べられなくなった。かかりつけ医にみてもらうと「心不全」。入院してもいいが、どういう状態で退院になるかわからない。本人が入院したくないなら、外来で点滴して、少し様子をみよう、ということになっていた。訪問診療や訪問看護の手配をしようとしていた矢先だった。 救急車を呼ぶ直前まで父は自分で歩いてトイレに行ったので、かかりつけ医のいる病院よりも家に近いK大学病院(前立腺がんの治療中)の救急外来に電話して今から連れていくと伝え、許可を得た。急に熱が38度近くにまであがり、しんどいと訴えた。まだ自力で車に乗れる状態だと思った。救急外来ならなんらかの処置をしてもらって家に帰られると思った。でも、トイレからベッドに戻った父は白目をむき、苦しそうに痰をはこうとする。足をばたつかせる。私はパニックになって救急車を呼んだ。ケアマネの「警察介入」という言葉も頭をよぎった。 今、父はCCUで管だらけになっている。最初の3日間は拘束されていた。記憶はごっそりと抜け落ちている。でも、意識がはっきりしてきて、苦しさも和らいだらしい。話もできる。「ありがとう。迷惑かけた」と繰り返し言う。食べられないけど…。 私が覚悟をきめて、家のベッドで父を看取るべきだったのか? もっと早く、訪問診療を受けるべきだったのか。 小堀先生が身近にいると、どんなに心強いだろう…。

  • 本は何の問題も無かったです。

    今後老齢社会看取りについて考えさせられました。

  • 自分・家族・社会にとって「望ましい死」とは何か

    著者は大学病院の外科医として40年間勤務の後、定年退職後は埼玉県の民間病院に勤めそこで初めて訪問診療にかかわる。訪問診療医としては患者とよく話し合い苦痛緩和の処置のみで延命措置は一切行わず、13年間で355名の患者を看取るが、在宅死は271名、病院死は84名と、在宅看取り率は76.3%になる。(全国平均の在宅看取り率は12.6%だから大きく上廻っている。) 本書の内容は大きく2つからなる。1つは、著者が訪問診療医として経験した355名の看取りから42名の事例を紹介する。一人一人に様々な事情があり無名の死者からのメッセージだ。2つは人の末期や死に関する優れた文芸作品、終末医療の動向に関する報道記事、変わる医療行政に関する政策文書等、多様な媒体からの引用と若干の考察だ。この事例と引用がないまぜの状況を著者は事実の断片のコラージュと呼ぶが、この形式は読む者が「望ましい死」とは何かを考える上で効果を挙げている。 評者も多くのことを教えられ考えさせられたが、特に印象に残ったのは以下の4点である。 1.終末期の療養場所について60%以上の人が自宅を希望しているが、現実の在宅死は12.6%にとどまる。著者はこのギャップの背景に患者本人も家族も「死を遠い存在として直視することを避けている」ことにあると指摘する。 2.著者の外科医時代もそうだが、一般の医師は「救命・治癒・延命」を第1義的に考え在宅医療をよく知らない。また、最近の大病院では多職種連携カンファレンスによるオートメーション医療となっており、オーダーメイド医療は進め難い。 3.世界40ケ国の医療環境調査によると、日本の医療は「生かす医療」では2位だが、「死なせる医療」(「死の質」)では20位以下にランク付けられる。 4.人生の最期の段階で、救急車を呼ばずにすませ、検死案件としないためには、「かかりつけ医」が重要な役割を果たす。評者も早急に訪問診察を行ってくれる医師を探し相談しようと思った。

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