作品情報
受賞記録から読む、来住野恵子『ようこそ』の輪郭。
<p>思潮社,2016,978-4-7837-3517-5<p><ul><li>タイトル:ようこそ</li><li>タイトル(読み):ヨウコソ</li><li>責任表示:来住野恵子 著</li><li>NDC(9):911.56</li></ul>
レビュー要約
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読者反応は、作品の題材や受賞歴への関心を軸に受け止められている。書誌情報が限られる作品では、賞の記録や作者情報を手がかりに評価される傾向がある。
書籍情報
- 出版社
- 思潮社
- 発売日
- 2016-05-05
- ページ数
- 115ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784783735175
- ISBN-10
- 4783735174
- 価格
- 2640 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論
うたいながらゆく 「きみが笑った/ひとりでに泣いてた/答えはここだ」 (「The maximum output」)。 「贈与の見返りを求めることのない、そのものへのただひたすらな愛。詩人は、たとえば、そのようなケイローンの無償の愛に全身全霊を込めて応えようとしているのである」(吉田文憲)。 光をおくる26編。 装画=北川健次
1959年東京生まれ 1990年「ユリイカの新人」 『ブリリアント・カット』(1982年、私家) 『リバティ島から』(1996年、書肆山田) 『天使の重力』(2005年、書肆山田)
レビュー
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「いっそ連れ立って/この世の果てまでちゃらんぽらん」
いつか まあたらしい朝が来て 誰も知らない星の種が爆ぜる 生まれたものは帰る 喜々としてみな還る きんいろのひかりに ちいさな顔がほほえむ 奇跡でも幻でもなく 世界をふたたびあたためる薪よ 死にくべられた荒野に萌えわたる息吹よ はるかな指の頂から燦然とよみがえる冬の言葉(ほのお)よ (「冬の言葉」より) * * * いのちの生成と再生を詠う、静謐な求道者のような詩集だと思った。無辺の宇宙から微塵な原子まで、闇の告発も希望の光もひとくるめに孕んだ詩たちが、どれもとても音感ゆたかにひろがってきて、ふしぎと元気をもらえた。 * * * らんらんと目が冴えて眠れない 幾千の夜の薬玉を割る 水たまりに ちゃらん 月あかりに ぽらん 眼裏に漆黒の紙吹雪あでやかに 散り敷く未曾有の喜劇とふり返れば いずれも似たり寄ったり よろめきながら虚空へ消える 見ず知らずのおまえ わたし いっそ連れ立って この世の果てまでちゃらんぽらん (「無番号フール」より) ………この宇宙のどこかに必ずきみがいる ………ぼくは宇宙の嗅覚だからわかる (「知覧の仔犬より」より)
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「海の言」がすばらしい
来住野恵子『ようこそ』を読みながら、最初に棒線を引いたのは、 きれいごとでも きたないことでも どこかかならずうつくしい (「無番号フール」) よく耳にすることばである。来住野の「発明」したことばではないかもしれない。しかし、なぜか、印象に残った。「きれいごと」「きたいないこと」の「こと」がひっかるのか。あるいは、すべてのことばが「ひらがな」で書かれていることがひっかかるのか。よくわからないが、思わず読み返してしまった。 次に棒線を引いたのが、 あらぬののあれののあらぬよにいだかれ みだれさかれふりきれてなみ いたみ のたうつひとつひたうつひかり (「あれの発」) これは「音」がおもしろい。ひらがなが「意味」をかきまぜる。「音」が「意味」を超えて、別なものに融合していく感じがする。 前の引用と強引に結びつけると、その「融合」は「きたない/うつくしい」の「融合」に似ているかもしれない。ほんとうは別なものなのに、どこかで通じ合うものがある。そういうものを来住野はみつめているのだろうか。 三つ目に棒線を引いたのが、 てのひらの孤島 絶海の飛翔の声、こえ、超え 分けないで分かれないで分からなくても (「アリア、降り止まぬ火の翼の」) ここにも「融合」がある。「声、こえ、超え」と漢字とひらがなを繰り返して、「意味」を「音」に引き戻している。「音」を通ることで、違う「意味」へとつながっていく。 で、その「融合」を 分けないで分かれないで と言ったあと、さらに 分からなくても と言い直している。 あ、これが来住野なんだな、と思った。 「分ける」ははやりのことばでいえば「分節する」。「分かれない」は「分けない」であり、「分節しない」。「分節する」ということは「分かる」ようにすることだが、その「分かる」へ動いていってしまうのではなく、「分からなくても」と「未分節」の状態でいいと思い、そこにとどまる。ここに来住野の「思想/肉体」があるのだな、と感じた。 最初に棒線を引いた行に戻ってみる。 きれいごとでも きたないことでも どこかかならずうつくしい 「きれいごと」は「きれい」ではなく、ほんとうは「きたないこと」。「きれいをよそおっている/こと」。「きたないこと」は文字通り「きたない/こと」。ここでは、「きれいごと」と「きたないこと」を重ねることで「きたない」が「分節」されている。しかし、そういうもののなかからも「うつくしい」を「分節」することはできる、と来住野は言っている。 「きれいごと」「きたないこと」の「こと」という領域を「未分節」の状態からとらえなおせば、「うつくしい」は引き出せる。「きたないこと」からはすぐには引き出せないが、「きれいごと」の場合「きれい」がそこに存在しているから、それに焦点をあてればそれはそのまますぐに「うつくしい」と「分節」しなおすことができるだろう。 ただし、その「分節」の「しなおし」ということを、来住野はしないのだ。「未分節」のままにしておく。つまり「分からないまま」にしておく。「分からなくてもいい」と、「放置」しておくのだ。 なぜ? 信じる 信じない 断言してしまえばどのみち暴力だから (「位置について、八月」) 「分節」は「断言」であり、「暴力」である。誰に対して暴力なのか。自分に対してか、他人に対してか。「世界」に対してかもしれない。よくわからないが、「断言/断定」を避ける。「断言/断定」を避けるということは、「分節」を「指針」にしないということでもあるだろう。何かを「これ」と決めて、それに従うのではなく、そのときそのとき、その場に応じて、「分節しなおす」ということなのだろう。 そんなことを考えていると、「海の言」という作品に出合う。 ふたつの眼をもつ生きものは 何でもふたつに分けたがる かたちのないぼくのからだにもことばの線をすっと引き あの線のむこうは光それとも闇 この線のてまえは生あるいは死 ぼくにはどちらだっておなじこと 水だからね 切れない割れないこわれない はじめもおわりもみないっしょくたにつながれて いつもひとつ、いつも全部さ。 ここにも「分節」への拒否が描かれている。「ことばの線をすっと引き」は、「分節」がことばによっておこなわれていることを明らかにしている。 世界を「分節」するのではなく、「未分節」にもどすためにこそ、ことばをつかいたい、「未分節」を詩にしたい、という来住野の願いが書かれているともいえる。 「光/闇」「生/死」は一般的には相いれないもの、矛盾、対極にあるものだが、これを「おなじこと」と言う。「未分節」の状態があり、そこから、たまたま「光」が「分節」されるとき、それが「光」になり、そうではないものが「闇」に「分節」される。「分節」されたものが絶対ではない。「絶対」として固定するとき、そこに「暴力」が生まれる。いつでも「未分節」のなかで「融合(みないっしょくた)」し、瞬間瞬間に「分節」を繰り返せばいいというのが来住野の「思想/肉体」である。 これを「水」という「もの」で比喩として、象徴として語っている。 「いつもひとつ、いつも全部さ」の「ひとつ=全部」というのは、「一元論」である。来住野は「一元論」としての詩を書いている。 「一元論」の象徴を「水」というだけでは、ちょっと味気ないかな? で、先に引用した「一元論」を来住野は二連目で語りなおしている。 目を閉じてごらんよ きみのなか 刻一刻生滅するぼくの呼吸ぼくの韻律(すがた) うたうとき恋するとき ぼくはきみをめぐり宇宙を運ぶ 嘆くとき祈るとき どんな視線も届かないひかる鼓動をきみに伝える いつの日かきみがかたちを失っても ぼくの刹那すべてにきみがいる まるごと息吹でいる 「目を閉じる」はいまある「分節」を見ない、ということ。「刻一刻生滅する」とは瞬間瞬間に「分節されなおされる」という意味である。単に「生まれる」のではない。また単に「消えていく」のでもない。「生まれ」同時に「消える」。「生まれる」ことは何かを「消す」ことであり、「消す」ことは何かを「生む」ことである。その、融合した運動が「宇宙」なのである。そこには「鼓動/息吹」だけがある。「運動」だけがある。「静止」というものはない。
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