作品情報
待ち続けても来なかった存在が「やってくる」という逆説を、別役実らしい不条理な会話と静かな可笑しみで展開する戯曲集。
待ち続けても来なかった存在が「やってくる」という逆説を、別役実らしい不条理な会話と静かな可笑しみで展開する戯曲集。表題作は古典的な不在の主題を、日本語の劇空間に引き寄せている。
書籍情報
- 出版社
- 論創社
- 発売日
- 2010-10-01
- ページ数
- 247ページ
- 言語
- 日本語
- サイズ
- 13.7 x 2.1 x 19.4 cm
- ISBN-13
- 9784846009625
- ISBN-10
- 4846009629
- 価格
- 2200 JPY
- カテゴリ
- 本/エンターテイメント
Amazon.co.jp: やってきたゴド- : 別役 実: 本
レビュー
-
名作戯曲の卑近な書き換え
別役実さんが亡くなった(2020年3月3日)。日本演劇史の一つの幕が閉じたと思う。かつて数多くの上演を楽しんだ者の一人として淋しさを禁じ得ない。氏の数多くの作品集のうちから、名作をパロディーした傑作として本書を選んでみた。 本書には三つの戯曲が収められている。表題の「やってきたゴドー」は勿論サミュエル・ベケットの名作『ゴドーを待ちながら』(1953年)のパロディーである。「風のセールスマン」は同じくアーサー・ミラーの『セールスマンの死』(1949年)の換骨奪胎版。「犬が西むきゃ尾は東」はこれまで氏自身が書いてきた<市民もの>の続編だと述べているが、総集編とも読める。これら三作品について著者は「あとがき」で解説を加えていて参考になる。 なんといっても楽しいのが「やってきたゴドーである」。あの待ちに待たれてきたベケットのゴドーがついに登場するのだから。著者によれば、本来この作品に「笑い」を持ち込みたいと思っていたベケットは、深刻劇として受け取られることに不満だったとか。確かに別役ゴドーには笑いがふんだんにある ゴドーを定番通り「神の子キリスト」と捕えれば、別役劇にはそれ以上に宗教史としての画期がある。これまでのキリスト再来劇で最も有名なのはドストエフスキーの「大審問官」であった。宗教裁判真只中の15世紀のスペインに降りたキリストは群衆に福音を説くが、異端者として逮捕されてしまう。審問官は「イエスの時代はとうの昔に終わっており、自分たちが800年間もその役割を引き継いでいるのだから、いまさらお前は必要ない」と言い、終始無言のキリストを深夜の街に放逐する。神の子の再来はその後600年もなかった。ベケットの『ゴドーを待ちながら』にもキリストは現れない。 「21世紀のゴドー」はベケット版以後も待ち焦がれていたはずのエストラゴンとウラジミールの前に飄然と現れる。だが二人は目前の些事に夢中で、ゴドーが「わたしがゴドーです」と何度も名乗っているのに、その姿を見つめながらその意味が分からない。混乱してしまうゴドー。二人がそんな具合だからその他の登場人物たちは目の前にいるのが神の子とは端から思っていない。ゴドー自身も些事に口を挟みつつ、聞き入れられもせずに一人街を去ってゆくのだ。「神なき時代」とされてから100年、現代をこれほどまでに鋭敏に切り取った戯曲を私は知らない。 「風のセールスマン」は作者自身の解説によれば、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』は、セールスマンのウイリー・ローマンが西部開拓時代の伝統的な放浪精神を体現しようとしてそれに失敗した物語だと書く。確かにウイリーには彼の健康を気遣って、旅行を止めさせようとする妻のリンダが居て。その他に「地道な努力の積み上げの近代市民的倫理とアメリカ伝統の一発山当ての開拓者魂」との間で引き裂かれている二人の息子がいる。自由なカウボーイを気取っていたウイリーは、販売会社から解雇された後で、息子に影響を与えてきた様々な「大言壮語」が暴露されてゆくという悲劇だ。第二次大戦後のアメリカ型使い捨て景気に沸く世相批判との評論が多い中で、この解釈には驚くものがある。 「風のセールスマン」はこの逆に「定住」を図るセールスマンの失敗を描いたものだという。ここには日本の湿度の高い風土の陰湿さが隠すところなく暴かれている。大体セールスマン自体が違う。同じようにトランクを持ちながら、高級車を疾駆してアメリカ全土を巡るウイリー―と、主任が適当に丸印を付けた地図をもらってその範囲をとぼとぼと歩き廻る「男」では「アタシがアタシであることを売りに行く」と言ってもスケールが違う。一生に一度自分が何者であるかを世間に認識させようと演じる「妻殺し」の大芝居も全く相手にされない。だが絶えず「未来への期待と予想に生きる」セールスマンの本質を描いたことでは共通なのだ。 この二作が理解可能なのに対して、「犬が西むきゃ尾は東」はわかりにくい戯曲だ。男四人と女二人の入り組んだしかし無意味な会話が、次第に誰の発言だが判断できなくなる混乱を生む。これは別役戯曲に共通することだが、この作品では特にひどく感じられる。目的もなく歩数を数えながら歩き回っている登場人物たちは、結局は皆西を目指しているようだと知って、西イコール「西方浄土」とすれば、この世に何の役割も持たずに生まれた庶民が何の役割も果たさずに世を去ってゆくという、別役的小市民の生き様を描いたものかなと、(無理矢理に)納得できないこともないが、質問しようにも別役さんはもう居ない。
-
別役実の久々の戯曲集に感激
『金襴緞子の帯しめながら』(三一書房)以来、十二年ぶりの別役実の戯曲集。三一書房から戯曲集が出なくなって以来、もう戯曲集という形では出版されないのではないかと半ばあきらめていたので、これはうれしい一冊である。収められている戯曲三編は、いずれも雑誌で発表されてもので、その際のデータを元にまとめられたもの。ゴドーがやってきて、本来起こるはずのなにか感動的なイベントがすれ違ってしまう表題作等、後期別役作品を代表する作品である。いや、戯曲としての善し悪しよりも、十二年ぶりに別役実の戯曲集が出たということが重要である。『最後の審判』等、活字で読みたいのに出版されていない戯曲は数多くある。日本の演劇史という観点からも、別役実の労作は戯曲集という形で残す必要があると考える。次の戯曲集の出版に結びつけるためにも、買うべき本である。
関連する文学賞
- 鶴屋南北戯曲賞 第11回(2008年) ・受賞