作品情報
安吾と中上の批評を通して、文学における「ふるさと」と他者性を問い直す。
『坂口安吾と中上健次』は、坂口安吾への批評と中上健次をめぐる論考・対話を集めた柄谷行人の著作である。安吾が見いだした文学の「ふるさと」と、中上が取り組んだ「路地」の問題を交差させ、日本近代文学の根源を問う。1996年に太田出版から刊行され、第7回伊藤整文学賞を受賞した。
書籍情報
- 出版社
- 太田出版
- 発売日
- 1996-02-01
- ページ数
- 308ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784872332650
- ISBN-10
- 4872332652
- 価格
- 1351 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論
Amazon.co.jp: 坂口安吾と中上健次 (批評空間叢書 9) : 柄谷 行人: 本
レビュー
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FRIENDS
私は柄谷行人氏が書くものが好きで、その一方で、彼が強く推す方の作品は何故その印象に届かないのだろう、と不思議に思っていました。初めて読んでから30年が経って、そのことを不思議とは思わなくなりました。その変化を可能にしてくれた氏の文の力に感謝します。ありがとうございました。
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書斎派
文芸畑に疎いですが水準が高い評論に肖りたくてこの度拝見しました。 ナチズムに通じたハイデガーの存在論と似ているようで似ていない坂口安吾の 存在論を知ることが出来ました。特に大風呂敷を展開して論を立てることは、 力量不足で出来ませんが、大きな収穫でした。読めば読むほどに足りなく 文学の無限回廊に陥ったようです。中上健二の評論にもかなりのページを 費やしており各々が深い内容ですので為になりました。
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「朋輩中上健次」だけで手に入れる価値あり
追悼文「朋輩中上健次」が収められており これだけで手に入れる価値のある本です。 初出の雑誌上で初めて読んだときは 柄谷氏はこんな感じの文章を書くのかと驚かされました。 中上氏の死期が間近なのを知って どうしても頭の中で追悼文を書いてしまう「批評家」。 友とのアンビバレントな関係。 それらの情感とそれを突き放して認識する透徹感が絶妙な点で均衡した文章で書かれており, その感覚がいつまでたっても印象となって消えません。 追悼文なので短いですが 日本の「私小説文学」としての最高峰の文章だと思います。
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中上論も良いが、安吾論も素晴らしい。
本書発刊当時、すぐに買って読んで以来、今回当時と同じ旧版で再読した。ドゥルーズを必死でかじっていた当時学生の僕は、本書で書かれた安吾の「文学のふるさと」、中上の創作の源泉(=「紀州」「熊野」といった言葉で象徴的に語られるもの)をドゥルーズの言う「情動」と紐づけて分かった気になっていた。勿論、この解釈は百%ハズレではないはずだが、青臭い学生だった僕にとってそういう理解は単に単語のイメージを連結させて整理した気になっていたに過ぎず、実際これらの単語で語られていたもの(「リアルなもの」とも言える)を肌で理解する洞察と経験に欠けていた。つまり、安吾や中上が実際どう凄いのか、ということを何も分かっていなかったのである。 それから20年余りが経ち本書の内容もサッパリと忘却した今回(笑)、改めて中上論として本書を読み直したのだが、意外にも安吾論の方が心に刺さることとなった。それは著者が中上と同時代を生きて親しかったが故に、ここで語られる中上の分析が非常に具体的な分、中上個人の出自や資質に非常に依った論の展開をされているからである。(勿論、作家個人にしか還元できないものが大きいことは、中上を語るうえで当たり前なことである。)一方で、何十年も前に書かれたテクストから組み立てた安吾論の方が抽象度が若干高い分、一般性も高かったらしい。 「狂気の反対物は正気ではなく、夢の反対物は覚醒ではない―それは<現実>である。」(p.16) 「分裂病の患者に、君の考えは妄想だ、理性的に、現実をあるがままに見給え、(中略)といったところで無意味である。たしかに患者は現実をみることをおそれている。しかし本当に彼がおそれているのは、眼前の現実ではなく、直視しえず言語化もできないようなある<現実>である。」(p.17) 例えば、このような引用箇所における<現実>について、僕は最近、友人が統合失調症になったことをきっかけに考えていたことと、余りにもフィットしていて驚かされた。そして、安吾論で柄谷氏が言及している、安吾自身の神経症や彼(と柄谷・中上氏)の40代についての関心は、実際僕も同じような年になりつつある今、とても面白く読めた。 最後の関井=柄谷対談は、柄谷氏を持ち上げ過ぎな嫌いが無いではないが、全体としては、上記のように細部まで説得力と刺激が満ち溢れた一冊だった。
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スケールの大きい男のイメージと文学世界
以前から好きな作家である坂口安吾と中上健次を、好きな批評家である柄谷行人が論じるという著作なので、興味深く読むことが出来た。その三人の文章を、それぞれ気持ちいい、面白い、心に響くと感じて読んでいたのが、著者の文章のまとめ方で一つに像が結ばれていく過程が、読んでいて独特だった。自分が受け取った感触で言うと、それは自分を包み込む皮膜に対して不快感を感じることが出来、自分を包む世界の同義反復な構造に潜む歪をや違和を感じてラディカルな対抗世界を作り上げていく姿、だった。一種生理的ともいえる「いわゆる世界」とのズレをバネにして文学世界を造形していく過程を文学作品から帰納して読み取っていくのを辿っていくと、いままで読んできた二人の作品を再び読んでみたくなるし、そんな違和感に炙られている自分にも文学的な思惟を誘ってくれる。 そして、彼らの姿を振り返ると、とてもスケールの大きい男のイメージが浮かぶ。少年であったり中年であったりの年齢的な差を越え、夫であったり父であったり社会人であったりの役割を超えて、何か、男、と一言で言うときの懐の深さというか強靭さというか、優しい心を胸に抱いたまましかめっ面で一人孤立して立っているというような、ある意味憧れの姿がある。そんなイメージの中身について知るという観点でも楽しめた一冊。
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文字通り底の浅い議論
安吾論冒頭で、「比喩にまみれて底の見えない議論にはもううんざりだ」と宣言しているが、言語が本質的に比喩でしかない以上、比喩=言語に頼らず議論ができると、いい歳して妄言している柄谷の手になる本書は、その出発点からして所詮、文字通り底の浅い議論、十分な説得力をもちえない、独断的な放言集に終わるしかなかった。随所に散見される、論理を尽くさぬ柄谷の直感的な物言いぶりには呆れ果てるばかりである。これでは柄谷行人ではなく莫迦谷意固地ではないのか。
関連する文学賞
- 伊藤整文学賞 第7回(1996年) ・受賞