夜の聖堂
草野早苗の第二詩集。記憶の風景、雨や夜、遠くの光をめぐるイメージを重ねながら、沈黙のなかに残る人影や気配をすくい上げる。
作品情報
夜のなかで光を探し、魂に残る風景へ耳を澄ませる詩集。
思潮社から刊行された詩集。部屋、校庭、星、訪問者などの章題に沿って、日常の背後にある暗がりと光を見つめる。NDL、CiNii、販売ページで単行本として確認でき、Amazon JP では直接確認できなかったが、日本の紙書籍の原則に従い ISBN-10 を ASIN として補完した。
レビュー要約
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紹介文では、透明な光の波や魂を離れない風景をめぐる詩集として位置づけられ、静けさと旅の感覚をたたえた作品として読める。
書籍情報
- 出版社
- 思潮社
- 発売日
- 2016-06-01
- ページ数
- 91ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784783735205
- ISBN-10
- 4783735204
- 価格
- 2640 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論
光をもとめて 「父親も雨で濡れるが/漆黒のなかに光を掲げる/フランツ・Kの横顔をして」 (「部屋に雨が降り注ぐ」)。 透明な光の波にゆらめく、魂を離れないいつかの風景や人影。 終わらない旅の途上で、この星に降りた沈黙に耳を澄ませる。4年ぶりの第2詩集。 装画=佐々木良枝
東京都生まれ 詩集『キルギスの帽子』(2012年、思潮社)
レビュー
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「心の言葉」で書いた詩集
草野早苗『夜の聖堂』には日本の風景と外国の風景が入り交じっている。翻訳調のリズムを感じる。漢字(熟語)のつかい方が翻訳っぽい。 で、「翻訳」そのもの、ある言語を日本語に変えることではじまる世界というか、「現実」よりも「ことば」から「遠くにある現実」へ向かって動く作品の方が、私には読みやすく感じられる。 「羊と私と驢馬と」という作品。 <blockquote> 人の書いた文章から スペインの詩人J・R・ヒメネスは驢馬を飼っていて いつも語りかけていたことを知った 驢馬のプラテーロは詩人にとって親友で 死後は丘にある松の木の根元に埋めた 『プラテーロとわたし』という本も書いたそうだ </blockquote> ここには「伝聞」のことばだけがある。「伝聞のことば」を「事実」として受け入れて、草野は「現実」を想像する。「現実」には「もの」以外に、「感想」も入り込む。「感想」が「現実」になっていくといえばいいか。 これが「幸福」な感じでひろがる。 <blockquote> ああ、この詩人の幸は計り知れない 共通言語を持たない驢馬を友に選んだからには 心で言葉を交わしたにちがいない </blockquote> ここに「心」が出てくるところがおもしろい。草野は「心」で「感想」を書いていることになる。「心の言葉」で書いている。 私は犬を飼っているが、犬と人間は「共通言語」を持たないが「心の言葉」で会話していると感じたことは一度もない。私は「日本語」を話し、犬は犬で「犬のことば」を話す。そういう交流をしている。「心の言葉」と思ったことがない。 フランスのアンティーブへ行ったとき、犬を散歩させているひとに出会った。犬を2匹つれている。1匹がうんちをする。すると他の1匹に向かって「アトンデ・ドゥ・ミニツ」と言う。犬が止まる。あ、フランスでは犬さえフランス語がわかるんだ。急にフランス語を勉強してみようと思った。犬にわかるなら、人間の私はフランス語を話せるようになるだろう。 というのは、余談、雑談、脇道のようなものかもしれないが。 私は、そういうつもりで書いているわけではない。本気である。 草野は「心の言葉」という表現をつかう。私はつかわない。多くの人がつかうかどうか、わからないが、私はつかわないので、あ、「心の言葉」に草野がいる、と感じた。それで草野は「心で書く」「心の言葉で書く」と言うのである。「心の言葉で書く」から、それ以後のことは「心の世界」である。 <blockquote> それは私の最初で最後の願い 左に羊 右に驢馬 柔らかな体の匂い どこを見ているのか分からない羊 壁に沿って坂道を下りてくる驢馬 </blockquote> さて。 ここで「問題」が起きる。 「心の言葉」で書いた「心の世界」。そのとき、「心の世界」は草野のものなのか。J・R・ヒメネスのものなのか。草野が書いているから草野のもの、ということになるが、「心の言葉」そのものがJ・R・ヒメネスに触れることによって動き始めたもの、最初の「心の言葉」はJ・R・ヒメネスのものであっただけに、区別がつきかねる。 「私」というのは草野? J・R・ヒメネス? J・R・ヒメネスのように、草野が驢馬を飼うとしたら、ということなのかもしれないが、断定しかねる。草野がJ・R・ヒメネスになって、想像しているという具合にも読める。 <blockquote> 私が羊と驢馬より先に死んだら 庭の隅に灰を撒いてほしい 少しだけ 青い草々が庭から野へとひろがり シロツメクサがひろがり 家の窓に若葉の掛かる木の下で 嬉しそうに立っている驢馬が見える どこを見ているのか分からない羊 斜めに注ぐ金色の日射し 羊と私と驢馬の永遠 </blockquote> 草野がどこに、どんな家に住んでいるのか、私は知らない。けれど、ここに書かれている「光景」は現実の日本というよりもスペインの田舎(J・R・ヒメネスの故郷?)の「光景」のように感じられる。草野の「心の言葉」はスペインを描いてしまう。そのとき、「心の言葉」は「J・R・ヒメネスの心の言葉」のように感じられる。草野とJ・R・ヒメネスが「ひとつ(一体)」になっている。 「翻訳」というのは、ある言語から別の言語へ置き換えることではなく、「ひとつ」の世界を両側から支えるようなものなのかもしれない。