作品情報
『変容』は、個人の経験を通して時代の陰影を読ませる作品である。
伊藤整の『変容』は、受賞当時の文学的関心をよく示す作品である。人物の心理、生活の手触り、社会の変化が重なり、静かな緊張を保ちながら読者を物語の奥へ導く。
書籍情報
- 出版社
- 岩波書店
- 発売日
- 1983-05-16
- ページ数
- 430ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784003109625
- ISBN-10
- 4003109627
- 価格
- 6 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/文芸作品/日本文学
老年期に入ろうとする主人公たちが展開する心理や行動は,性の快楽が青年の特権ではないこと,さらには,それらの行為を通して人生の真実により深く到達するのは,若者や壮年よりも老年であることを啓示する.作者自身,また日本文学でも未開拓であった「老年」に真正面に取組んだ作者最後の傑作長篇小説. (解説 中村真一郎)
レビュー
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汚れなし!
とても綺麗な状態でした。ありがとうございます。
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「終わった人」になるよりは「変容」したい
平成30年、超高齢社会で今度は健康寿命なんていう言葉がハバをきかせている。 「変容」が単行本で発行されたのは1968年(おお、あの激動の1968年)で、そのころはきっと寿命が伸び始めていて寿命が性的寿命を超えてしまったころだったのだろう。そうなると健康寿命ならぬ性的寿命が尽きる前後の男女の諸相が描かれるようになったとのではないか。しかし、一方で、主人公の妻は若くして結核で死んでいるなど前近代の寿命感もあり、妻の死あってこその話でもある。 今はなかなか死にはしないのでエゴを抱えたまま夫婦ともども性的寿命が終わってしまい「終わった人」なんて呼ばれてしまう。品のない「終わった人」になるよりは、主人公が最後に語るパラグラフのような男女関係を築けるような初老の男に「変容」することはできぬものか・・妻には「男のエゴ」で片付けられそうだが・・ 以下、最後のパラグラフを引用・・・「共通の過去を持ち、何でも話し合い、何でもすることができて、しかも、いつでも他人でいられる男と女って、まれにしかあるものでない。これから先僕は、ときどき寂しくなると君に逢いたくなるにちがいない。どうぞお願いだから、そういうとき僕にやさしくして下さい。」私がそう言うと、彼女は白い象のような顔で、にこにこと目の下に皺を作って微笑み、おませな少年の話を聞く女校長のように、自信ありげにこくりこくりとうなずいて見せた。・・・
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恋愛というモノ
再掲 変容 伊藤整 岩波文庫 文庫初版1983 伊藤整(1905-1969) 初出は1967-翌年にかけて雑誌「世界」に連載されたもの。68年に単行本化 読んだものは2008年の8刷。 簡単に言えば、60歳を前にした男の女性遍歴の独白と人生論。それが400ページを超える本書の中に詰め込まれている。何が正しい、何が悪いという基準は本書には必要ないのであろう。男の我ままや狡さも見え隠れするようにおもう。 恋愛に決まった形は必要であるはずがないのであるから。 主人公より先輩の画家が言う「老人の世界は、一つ一つのことが新しい発見であり、体験なのでして、たとえば私が永年描き慣れて来た人間の女性の美しさというものも、ここに来ると違ってみえるのです」 主人公が別のところで「私もやがて六十になる。残り少ない生の期間を、生きている事の証明である感覚に訴えるものを追いもとめることを許してもらおうと思う」 また「性は、それ自体が善とか悪のけじめをなす一線だとは、今の私には感じられない。男と女が同じ方向に傾いた心を持つとき、二人は性をきっかけに結びつくのだ。性は人間の接近のきっかの一つでしかないと今の私には思われる。老齢が近づき、性の力が衰退してゆくとき、残り少ない発動の力を、さらに正と邪によって区別し、抑圧し、圧殺することへの本能的な嫌悪が私の中に生きている」 そして最後の女性になるであろう彼女に向かって吐露する「共通の過去を持ち、何でも話し合い、何でもすることができて、しかも、いつでも他人でいられる男と女って、まれにしかあるものでない。これからさき僕は、ときどき淋しくなると君に逢いたくなるにちがいない。どうぞお願だから、そういうとき僕にやさしくしてください」
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life long eros
谷崎、川端、伊藤、三島というエロスを探求する芸術家は、高度な文芸評論家でもあることを知らされます。
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老年の性の深淵は美しい(?)
この作品の巻末にある中村真一郎の解説に下記のような衝撃的な一節が出てくる。 「この小説は、女性が六十歳を過ぎても充分に性的に活発であり、男性は老年になってもなお、年上の女性に魅力を感じるという、一般の社会常識では考えられない恐るべき事実を描き出したのである」 この文の前半の部分、女性が60を過ぎても性的に活発というのは多分事実であり、それを言うなら男性だって60を過ぎてなお性欲旺盛な人はゴマンといるだろう。 だが、文の後半はちょっと違うのではないかと感じる。老年になってなお年上の女性に魅力を感じる男性は、多分少数派だろう。 その少数派のひとりが、この小説の主人公の老画家、龍田北冥なのだろう。究極の年上女性好きである。作品の中で、50代後半の主人公龍田は、60を過ぎた女性を次々とモノにしていく。一人目は女性歌人、二人目は日本舞踊の女師匠というぐあいに。しかも、メイクラブシーンの描写がびっくりするほど生々しく克明で、60過ぎの彼女たちの肉体美(?)に素直に感動し本気で賛美している。 このあたり、人によっては生理的にちょっと・・・と感じるかも知れない。 むろん龍田は、より若い女性に興味がないわけでもないし、容貌もどちらかといえばイケメンで、若い頃は女性に不自由しなかったようである。イケメンでなおかつ50代後半の有名画家であるから、女性にモテないはずはないわけで、その証拠に、以前、絵のモデルとして使ったことのある40代の歌子(今は銀座のバーで働いている)と縒りを戻して同衾する。ちなみに龍田は15年前に妻を病気で亡くしている。 さらに龍田は、後半の部分で、自宅に夫婦で住まわせている運転手西崎の妻梅子からあまりにも露骨な性の誘いをうける。 なんと、龍田があとで八畳間の金庫を見に来ることを見越した40歳 (満39歳?) で女ざかりの梅子は、夫や派遣の家政婦が不在である機会を利用して八畳間に太腿丸出しで大の字に寝転がり顔に新聞紙をかぶせて昼寝(のフリ)をしていたのである。 金庫を見に八畳間にやってきた龍田は、梅子の露わな太腿を見て突き上げるような激しい性の衝動を覚える。 でも、まさか住み込みの運転手の妻に手をだすわけにもいなかい、と、ぎりぎりのところで自制心が働いて、性の誘いには乗らなかったが、この場面で、男性の性衝動に対する、詳細な心理描写を試みている。それが大変興味深かった。 本作は1968年刊行で、今からちょうど50年前である。その当時の60歳は完全に老人であり、井上靖や松本清張の小説を読めば分るとおり、40歳の女性も容赦なく初老扱い。 それに比べれば2018年現在から見れば、60前後の男女に対する考え方はさておき、40代の歌子や39歳の梅子はまだ充分若い。 そういうまだ若い女性の誘惑にも増して、龍田が60過ぎの女性に強い思いを寄せるというのは、冒頭で引用した中村真一郎の解説文どおり、「一般の社会常識では考えられない」異常な嗜好性だと感じた。 その反面、若い頃から女性美を追求し続けてきた画家龍田だからこそ、爛熟した女性の肉体に究極の美と性の深淵を見出し得たのかも知れないとも思った。 同じ老人文学でも、谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」や川端康成の「山の音」「眠れる美女」、松本清張の「六畳の生涯」「老春」「遺墨」などのほうが、老人が若い女性に夢中になるぶん、いたってオーソドックスである。ちなみに、この中で松本清張の「遺墨」だけが、61歳既婚の老哲学者呼野信雄と33歳の真佐子との間に肉体関係ができる。しかも秘書役(速記者)の真佐子は呼野老人に心酔し熱烈に慕っている。 これらのオーソドックスな老人文学に比べると、伊藤整の本作はやや例外的だともいえる。そんな本作の中でさえ、60過ぎの著名女性歌人千子は、何十歳も若い青年の愛人 (おそらく短歌の弟子か?) ができると、あっさりと龍田との関係を断って、若々しい青年との夢のような情事にのめり込んでしまう。 本作が、老人の性とは、年を取った男性や女性にとっての性の意味とは、あるいは老いと対比してみた若さの意味とは、ということを徹底的に追求した老人文学の傑作であることは間違いないと感じました。
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穏やかで明るい老いらくの性
題名の意味は、主人公の人生観および女性観の「変容」ということのようです。 画家の龍田北冥は妻を失って以来、自由気ままに女性たちとつき合ってきましたが、還暦間近になって心境にある変化が訪れます。ただ若かったり、夜の蝶であるというのでなく、自分の過去に関わる女性に惹かれるようになる。旧友の故郷に記念碑が立ちその除幕式に招かれた時から、彼女たちと再びかかわりを持つようになります。 亡き友である倉田万作の姉で不幸な結婚生活をおくった咲子や、妻の嫉妬を恐れ自分が倉田に押し付けた歌子、父の地盤を継いで自ら短歌結社を主宰する女流歌人の千子、和装学園の園長のせつ子など、関わる女性も、その関わり方もさまざまです。 画境の方も変化を兆し「私の描く女性は、背景の中に立体として立っているという人間らしい独自性を失って、背景とともに全体の構図の面白さを作る平べったい人間の形のようなものに」なってゆきます。老いを目前にした心境の変化に、その画境の変化も見事に対応させて物語は進んでゆきます。 主人公は、歌子が倉田との間につくった娘を見るため永代橋のそばにある歌子の家を訪れます。その際にも日本橋や茅場町、月島など、倉田とともに青春を過ごした場所を回想しながら歩き回る。これも一連の変化と同じ動機ですね。描かれた昭和40年代の東京が私には懐かしいばかりです。 もちろん、主人公のこういった変化の原因は老いと死の自覚にあるのでしょうが、だからこそ、決して若くない彼女たちへの眼差しはただただ優しい。バーを経営する歌子が、自分のあげた金を落ちぶれたパトロンにつぎ込んでも、成り行きで何度か逢引きした還暦の女流歌人に自分より若い男の影が見え隠れするようになっても、主人公は理解のある態度で接する。 「年寄りにとっての性、それは性そのものが本当に自分の快楽なのでもない。相手を喜ばせることに生き甲斐を見ていることだ」 「老いらくの性」を扱ったこの小説は主人公のこの向日性のおかげで、さまざまな形で彼女たちの多くと別れを迎える場面でも、穏やかな明るさをたたえています。
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話題本です
話題だったので購入しました。ただそれだけです。アマゾン文庫だけに話題本が即購入できる!!!!
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やはり一昔前の純文学作家の文章力は凄い!
老人の性というものを描いたという面では、時代の違いを感じはします。石川達三の「四十八歳の抵抗」の主人公は21世紀の今の時代でいえば70代でしょう。この作品の主人公の画家は未だ還暦寸前ですが、やはり今の時代と比較してしまいます。 それにしても、やはり一昔前の純文学作家の文章力は凄い!と改めて認識しました。物語の展開を見ていると渡辺淳一の「失楽園」等の諸作品に似ていますが、文章力と主人公の思考の描写力が違い過ぎます。即ち、迫力と情緒が圧倒的な差があるのです。例えば冒頭の若い母親達に関しての主人公の感慨を描いた文章を読んだだけで、それを感じるでしょう。特に親友の姉である女性の独白が続く章は圧倒的で、性というものの持つ因果と、人間の絆というべきものの悲しみが見事に描かれています。 ただ、雑誌「世界」の連載であったこともあるのでしょうが、後半の展開は少し間延びというか、連載を続けることの作者の苦しさ、工夫の乱れという様なものを感じます。これが長編小説の難しさなのでしょうが、なんとか乗り切っているのはさすがです。こんな小説を書く力量を今の作家には期待できないものでしょうか?久し振りに「小説を読んだ!」という感です。
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