書籍情報
- 出版社
- 講談社
- 発売日
- 1985-10-01
- ページ数
- 222ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784061836013
- ISBN-10
- 4061836013
- 価格
- 98 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論
Amazon.co.jp: 文学の輪郭 (講談社文庫 な 24-1) : 中島 梓: 本
レビュー
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世界を把握し、再現して、そして信じるために
1977年の表題作の論考、他3篇と、85年の文庫あとがきを含んだ評論集。40年弱前の気合の入った文章で、それでもまだ「文学」というのが信じられていた時代の文章なんだろうなと感じた。著者の本は数冊読んだことがある。 「あまり多様化し複雑化しすぎた現代」において、「文学とは何か」といったことを考えたい人であればおすすめ。ただ、この著者の特徴だろうが、同じ内容を別の表現で何度も繰り返していく、という文章スタイルなのでーそれで核心に近づいていくというわけだがー、やや混乱させられるかもしれない。以下は私なりのまとめ。 *********************** 「文学は、どこへ行くのだろう。」 こういう書き出しで、論考は始まる。著者の問題意識としては、現代社会における絶対性の欠如、つまり、文学的状況の絶望的な混沌ーとくにテレビの登場ーに対して、「文学とは何であるか」、そして、これから先の文学はどうなるのか。それを読むことに意味はあるのか、といった、「文学」を信じられなくなった現代において、文学はどうなるのか、という問題意識がまず提示される。この問題意識には、今でも同時代性はある。あり過ぎるくらいだろう。 「文学の輪郭」というのは、文学の定義であり、在り方であり、どのような方法論に拠って作品が成り立っているか、という点への考察だ。文学への不信に対しては、作者自身が何らかの方法論=文学観を持たねば、いけないし、そうでないと作品の強度(自律性)は保てない。 「ブルー」は解釈を排した世界=感性により、「死霊」は思弁により、「熱海」はメタフィクショナルなパロディによって、それぞれ作品の自律性を獲得している。「熱海」は同時代性を持っているということで評価されるが、同時に、寿命が短いということも言われる。(カミュ「異邦人」を誰もが読んでる前提でないと成立しない等) あとがきによると著者の関心は、その後は方法論的な部分よりも、とにかく面白い物語を書いてやろう、くらいの方向に行ったものと思われる。そこは、個人的には残念だとも思いつつも、90年代以降の「純文学」のしょうもなさを考えると、「ロマン主義」の変型としてのジャンル小説、というのも、それ自体が「文学」への批評ということなのかなとも思う。 要は、自分はもう「文学」(近代文学)はあきらめますよ、ということになる。世界を文章の上に再現するような「神たらんとする意思」を捨てたというわけだ。 文学の自律性、つまり、自己目的化された再現の機能がないといけないが、そうなると同時代性は損なわれる。そうなると、読み捨てられるのを覚悟で書き続ける、というのも一つの立場か。ただ、それはそれで今の出版業界で、行き詰っている部分かなとも思う。まあ、色々と考えさせられる論考ですが、私小説(=個人的な体験)がやはり一つの方法論としての強さになるというのは、やはりそうなのかなと思った。
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真剣に取り組んでいる姿勢
取り上げている村上龍「限りなく透明に近いブルー」 は、何度も読んで,同時代人としての同期を確かめようと思ったことがある。 取り上げている他の2作は、村上龍ほど何度も読んでいないので, 中島梓がいうことは半分くらいしか分からない。 それでも,真剣に取り組んでいる姿勢には頭が下がる。 ぜひ他の2作も何度も読んでみたい。
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中島梓こと栗本薫のデビュー作
表題作の「文学の輪郭」が読みたくて注文した。この作品で著者は群像新人賞の評論部門を受賞して批評家デビューした。内容はタイトルの通り、村上龍が騒がれた当時の文壇の状況を、文学作品を挙げながら、解説していくもの。まさに「文学の輪郭」をなぞるようになっている。 村上龍のデビュー作であると同時に芥川賞受賞作の『限りなく透明に近いブルー』とそれに対比させて、埴谷雄高の『死霊』が論じられている。そして、第三極につかこうへいの『小説熱海殺人事件』が配置されている。村上の小説が日本において伝統的な私小説の系譜で論じられるなら、埴谷の小説は西欧においてメジャーな写実的な小説として捉えれている。例えばそれは、スタンダールの『パルムの僧院』で描かれている「ワーテルローの戦い」であり、バルザックが書く「人間喜劇」である。もちろん、埴谷はドストエフスキーを強く意識して『死霊』を書いている。ドストエフスキーもまた写実的な小説を書く作家である。ただ、登場人物が様々なイデオロギーを背負っているため、いくらか哲学めいているのである。なお、ドストエフスキーが小説を書く際、バルザックをお手本にしたのは有名な話だ。 さて、著者は、村上の小説と埴谷の小説を対比させながら、論を進めるのだが、内容はいくらか教科書的である。加えて、意味が不明瞭なところもある。それはいいのだが、何故、第三極に、つかこうへいが置かれているのか謎である。また、著者もあとがきに書いているように、デビュー作なのであえて、間違いを直さなかったとあるが、所々言葉の使い方が変である。例えば1p二行目の「命題」とか。 しかし、総じて、いい評論だと思う。私小説についての説明はとても上手いし頷ける。
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誤字1つに1分で挫折
30年ぶりに読み返そうと電子版を購入。本棚のどこかに文庫本があるのは分かっていたので、買い直しになります。どんな結論だったかと終わりの方から読みなおしていたのですが、読み始め1分で次の文章が目に飛び込んできました。「私たちにとって重大なのは文学か私たちにとりもどしてくれる矛盾の全容の感覚である」。慌てて文庫版を探し、該当箇所(187頁)を開くと「文学『か』」ではなく「文学『が』」。全体でいくつ誤字があるのか不安になり、電子版はそこで挫折。結局、30年前に買った文庫で読みなおしました。また、文庫にあった「中島梓&栗本薫 著作リスト(’85年4月現在)」(星野友紀編、215~222頁)が電子版ではカットされていて残念。
関連する文学賞
- 群像新人文学賞 第20回(1977年) ・受賞