作品情報
ナショナリズムの由来は、ナショナリズムを軸に読者を作品世界へ引き込む。
近代社会の構造からナショナリズムの発生を問い、資本主義や自由の問題へ広げる大部の社会学的考察。 受賞歴により再注目され、現在も著者の代表的な仕事として参照される。
レビュー要約
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題材への切り込み方と読みやすさが評価されている。一方で、扱うテーマの重さや独特の語り口に好みが分かれる読者もいる。
書籍情報
- 出版社
- 講談社
- 発売日
- 2007-06-29
- ページ数
- 877ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784062139977
- ISBN-10
- 4062139979
- 価格
- 7142 JPY
- カテゴリ
- 本/人文・思想/哲学・思想/哲学
第61回毎日出版文化賞(人文・社会部門)受賞 あらゆる知を博捜し、15年の歳月をかけて考究した待望の巨編2000枚、ついに成る! 資本主義、ファシズム、イスラーム、キリスト教……民族、国家、近代、帝国…… 人類最後の難問 ナショナリズムを解く! 大澤社会学の記念碑的達成! ナショナリズムは近代社会に固有な現象である。……だが、近代を探究する者、近代を知る者にとって、ナショナリズムは躓きの石である。――<本書「あとがき」より> さらに、考えてみれば、資本主義とは過剰なゴミを生産するシステムである、と言えなくもない。ある社会システムが資本主義であるかどうかを判定するには、製品が、その使用価値を失う前に廃棄されているかどうかを見ればよい。資本主義は、人々に、製品がまだ十分に使用に耐える内に、その製品を捨て去り、新たな製品へと置き換えることを要求する。だから、ゴミは、資本主義の陰画であり、双子の随伴物である。ゴミが芸術となるとき、実は、資本主義が、死んだ、停止した様態において展示されているのである。ところで、ナショナリズムの現在が、芸術の現在と同じダイナミズムに規定されているのだとすれば、われわれが探究すべき鍵は、やはり、資本主義にあるはずだ。――<本書「予告編」より>
レビュー
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ナショナリズムの行方:地域なき地域性
ナショナリズムは、国民が生成される古典的時代、国民国家同士が戦った第一次・第二次大戦時代、その後のアジア・アフリカ植民地の独立運動時代に分けられた。それは、政治と領土、社会を動かす要素と地理が一致していた時代の意識であるはずだった。 労働者が国を超え連帯しようとしたインターナショナリズムは、第一次大戦に入ろうとすると国ごとに分裂し、 第二次大戦後の自由主義・共産主義の対立も、双方が資本主義という原理上での競合の一つだったことを現した。 しかし、冷戦が終わり、通信・情報化が進んだ90年代、政治と領土を超えたナショナリズムが広がっている現実はなぜか? 大澤真幸氏は『ナショナリズムの由来』において、詳細に記している。 <国民の意識から> 国民が持った意識は、国民の言葉、俗語、小説の系譜から語られる。 1対1の書簡スタイルから、私小説、彼・彼女を俯瞰的にみる近代小説の構造が、 国民意識を醸成したことを、多くの引用において語る。 <国民の行動から> 国民が行動し、戦った原理を、広義の資本原理、経済的な規定を超えた一般的な社会システムとして、内部メンバーがより包括的な経験可能領域を指向して展開する競争によって定義する。西欧を発展させてきた、自己否定と真理の探究は、科学的実証主義で、技術の発展と普及を支えてきた。交通・運輸から通信・情報の発展は、空間と時間をより拡張して使えるようになった。 <ナショナリズムの終わりの後のナショナリズム> そして、グローバル社会化は、時間の問題として、領土で隔てられる国家同士も、世界に関わる企業も、個人もまた、より包括的な経験可能領域を指向して展開する競合の場、「帝国」の構成員となってゆくはずだった。 しかし、90年代からの、領土を越えた民族・宗教・言語などでの連帯活動が広がった。 これが、ナショナリズムの終わりの後のナショナリズムとされる。 <多文化主義と表現できないナショナリズム> 多文化主義も、他の民族・宗教・地域の生活文化を認めるその境界・区別を解消はしない。 実践のレベルでは、個別的な経験領域を適用してゆくしかないのだから。 その結果、人種なき人種主義、文化的な差異が人種と同等に、本質的で持続的な差異として扱われる現象や、「享楽の盗み」として、景気のよいときにはただ乗り論、悪いときには機会を奪う人として’外人’を扱う心理が広がる。 そして、このナショナリズムの発露の中では、そのその民族性・宗教性・言語などの生活文化が、普遍でないとは分ってはいる。 事例のカリブや在日朝鮮人の表現できないナショナリズム。その表現できないことがその底にあることが、境界事例ではなく、一般的な人、大衆もまた同様だと連想させる。 <グローバリズムとナショナリズム> 普遍的なことと特殊的なことが同居していることを、筆者は語りなおし、 資本社会での経験可能領域での絶対性欠如が、 理想的な共和制から生まれたファシズムの絶対性への希求へと現れる危険にも触れている。 所感: 大澤真幸氏は、『行為の代数学スペンサ−=ブラウンから社会システム論へ』を、グローバリズムとナショナリズム、普遍性と個別性の歪に適用しきった感じがする。既存の論説の網羅ではなく、意識と行動、行為の対象の中での思考だ。 普遍的なことと特殊的なことの接合こそ、人間の器質性ではないのか?意識されるものがグローバル化するほどに、意識できない器質性による地域の特殊性が浮き出てくる。生活する空間での対象との相互作用が蓄積した結果、個人を超えて意識される共通項。大衆は、地域固有の文化から切り離されてできたものだとハンナ・アーレントは云うが、個別分野をこえて共有された生活感覚は、それを記録し・共有できる手がかりをもてば顕在化する。 ’人種なき人種主義’の他方に、’地域なき地域主義’も、ありそうだ。 人種にも宗教にも言語にも限定されない地域が醸成する刺激を共有する生活文化があっていいのではないか? そして、これは、資本主義にバランスする環境主義へとつながるのではないか? ’経験可能領域と資本主義の親和性’は、 『社会システム理論』 ニコラス・ルーマン を深く連想した。ルーマンは、西欧社会の一員として自己組織化するシステム群と’愛’と’芸術’という地平の外への人間存在を語っているが。
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検証なき解釈学
大澤氏が一級の知性の持ち主であることはわかるが、方法論がどこか根本的にズレている気がする。レトリカルに装飾された「理論」を都合のいい事実だけを引き合いに出して滔々と語る手つきは、ある意味では鮮やかであるが、全体は単なる解釈学に過ぎない。これでは、ナショナリズムという現象を説明していることにはならないだろう。
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壮大な失敗作!?
筆者はどちらかというと大澤社会学に対してはシンパである。その筆者が構想・執筆十五年の力作にケチをつけるのもどうかと思うのだが、本書には大澤の美点よりも欠点がより現れているように思われる。 まず評価できるポイントを書いておこう。やや難解な箇所はあるけれども、ほぼ一読して理解可能なように書いてあり、長大な章に二つのまとめを置くなど、読者に配慮されて書かれている。 逆に短所として目に付くのは論理における逆説の多用である。もともと大澤は弁証法に対する強い嗜好を持っているように思われるが、本書には「メビウスの輪」という表現が多数登場することからも言える通り、極端に弁証法的な反語のレトリックが多用されすぎている。 また、本書は知識社会学としての側面を持っているが、引用されている本がたとえば雑誌の「現代思想」に取りあげられている、左翼系の人物にほぼ限定されている嫌いがある。ナショナリスト陣営に属する人物としては、ルナン、フィヒテという定番の他は、見沢知廉くらいしかいない。ナショナリズムを考察するには視点が偏り過ぎてはいないだろうか。 内容に関しては、前半の、資本主義とナショナリズムの関連を示した部分も、結論には賛成できるものの、その論理は、前者と後者が論理的に同様の構造を持っているから強い関連がある、と言っているに過ぎず、説得力を欠く。後半の「新しいナショナリズム」論の部分も、思弁的に過ぎて、ナショナリストの心理をうまく解き明かされているようには筆者には思えなかった。このような複雑なメカニズムで多くの人間がナショナリズムに惹きつけられているのだろうか、疑問に感ずる。実証的な側面が弱いことは本書の欠点というよりは、特徴だろう。 本書はナショナリズム論というよりは、大澤社会学の一演繹例として読むべきであると考える。なお、大澤が愛用している「第三者の審級」の概念は、これを岸田秀の「幻想」と言い換えた方が理解が容易で、説得力あるものになるように思われる。
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ナショナリズムの今、を問う−漂流する日本の行き着く先は何処に?−
敢えてこの時代に天下国家を論じることにどのような意味があるのか? この本はそうした風潮に正面から取り組んでいる。 ナショナリズムが歴史的に登場するのは西欧の国民国家の登場と軌を一にする。国家が領域としての国土を統治し、そして国民に民族としての同一性を求め、国民の側もそこにある種のカタルシスを感じファナティックに昂揚する。 がしかし20世紀にはアメリカや旧ソビエト、そして中国といった広大な領土と共に多民族によって形成される国家が存在したことも1つの事実である。そこには“政治体制としての一国家=単一民族”とのステロタイプ的な規定を適用することはもはや出来ない。 “国家主義”と訳されるこの単語を現代的に解釈し直す時それはどのような一面を新たに表してくるのか。これが本書の狙いだと思う。 “ナショナリズム”といえば兎角「愛国心」それも情念にもたれかかった偏狭な論調が持ち出される風潮にあって、ナショナリズムとインタナショナリズムそしてグローバリズムの3者の関係をも視野に入れている姿勢には“社会学の丸山真男”的なイメージが重なる。A.ネグリとW.ハートの刺激的な共著『Empire』によって“領域としての帝国”は否定され、新たな“帝国”とは“領土に規定されない組織(枠を越えてはみ出す、或いは溢れ出す)”との位置づけが提示されたが、こうした問題意識も本書に大きな影を落としている。 また本書の持つもう1つの特徴はナショナリズムの姿を政治学や歴史学さらには文学といった領域を横断する形で検証しとらえようとしている点であり、殊に難解な学術用語を並べ立てていない点にも好印象がある。
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現代の変容するナショナリズムを歴史的な射程から見つめると
ここ数年間の傾向として、ナショナリズムが高揚しているのは確かだろう。しかし例えば英国のBNPや仏のFNのように必ずしも従来の国民国家のすべての構成員を対象としないものや、東欧諸国のように国の分裂を招くようなよりローカルなナショナリズムもよく見れば含んでいる。そして、これらのナショナリズムは国民国家(特に福祉国家)の退場と同時並行して起こっている。グローバリズムを前提としての規制緩和論、新しい中世論、帝国論、欧州統合などの流れは、従来型のナショナリストが想定する主権国家を超え出る動きである。上記の流れは歴史的にどう解釈すべきか。現代は近代世界から断絶した、全く近代とは異なるロジックで動く新世界(ポストモダン時代)なのだろうか。 現代を近代からの連続性で捉える視点は、現代を近代性が過剰なハイモダニティの時代とみなす。この著作もある意味ではそれに与するようである。西欧起源の資本主義と市民社会をもたらす普遍化の流れと、それに具体的な領土や国民・民族性を付与する特殊化の流れ、これら2つのバランスの均衡により近代ナショナリズムは成立した。現在ではこれら2つのベクトルはともに従来の国民国家の定める領域からあふれ出るほど強化され、均衡を得ていない。現在のナショナリズムを単に復古主義と見なせない事情はそこにあろう。 文学、哲学、社会学、国際関係論などの論点がフル稼動しているので、学部学生には難解だろう。ただ読み終えたあと、現代の世界情勢、各国の国内情勢を俯瞰するための助けになるだろう。 1点物足りない部分は、本作品は近現代までの理論性に重点を置いているので、著者のこれからの世界の見立ては伺えない点である。普遍化を促す力は、我々をこれから何処へいざなうのか。グローバル経済から、宇宙開発、生命科学の発展まで人類にとってのフロンティアは残されている。普遍化を促すベクトルは“我々国民”を何処まで解体しえるのか。現代のファシズムへと転化する可能性は大きくはないのだろうか。
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残念な出来
知識階級でなくとも、著者が時代に取り残されていることに気付けるだろう。 敢えて購入する価値はない。
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弱点が目立ってくる大著
力作だが、議論が既視感だらけで、オリジナルな議論に踏みこむだけの力が著者にはない。あるのは、だらだらと引用、おしゃべりする力だけである。これでは今まで読んだ他人の論文を自分でまとめた方がはるかに良いものが書ける。大澤もついに落ちるところまで落ちたというか、彼は最初からたいしたことはなかったが、本書のような大著をものすると、弱点が非常に目立ってくる。無責任な議論、非倫理的な議論、不誠実な議論が人間の痛みの水準に降りて、事態を議論するという視点をもちえない。かといって抽象的でもない議論が中途半端で隔靴掻痒。
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この長さである必然性がない
主に著者がここ数年達成した仕事をまとめようとしたものであろう。だがそれらは 既刊の著書で十分確認できるもの。この長さである必然性はまったくないと思われ る。 文学作品へのアプローチや理論的考察もすでに読むことができるのであるし。 参考にされる文献も「ナショナリズムの名著」などで扱ったものと特に変わりはない。 「帝国的ナショナリズム」を読めばそれで十分だと思われる。
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