デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場 (集英社文庫)
栗城史多の登山とメディアの関係を追うノンフィクション。
作品情報
「夢の共有」を掲げた登山家の実像に迫る。
集英社文庫として刊行確認できた。開高健ノンフィクション賞受賞作で、書誌識別子を特定した。
書籍情報
- 出版社
- 集英社
- 発売日
- 2023-01-20
- ページ数
- 384ページ
- 言語
- 日本語
- サイズ
- 10.5 x 1.6 x 15.2 cm
- ISBN-13
- 9784087444797
- ISBN-10
- 4087444791
- 価格
- 825 JPY
- カテゴリ
- 本/ノンフィクション/実用・暮らし・スポーツ/スポーツ
第18回開高健ノンフィクション賞受賞作 「夢の共有」を掲げて華々しく活動し、毀誉褒貶のなかで滑落死した登山家。 メディアを巻き込んで繰り広げられた彼の「劇場」の真実はどこにあったのか。 両手の指9本を失いながらも〝七大陸最高峰単独無酸素〟登頂を目指した登山家・栗城史多氏。エベレスト登頂をインターネットで生中継することを掲げ注目を集めたが、8度目の挑戦となった2018年5月21日、滑落死。35歳だった。彼はなぜエベレストに挑み続けたのか? そして、彼は何者だったのか? かつて栗城氏を番組に描いた著者が、綿密な取材で謎多き人気クライマーの真実にせまる。
レビュー
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圧倒的な取材力と衝撃のラスト
まず亡くなった栗城さんのことを調べ上げた著者の取材力が凄い。 そして、ドラマティックな栗城さんの人生と、インターネットや自己啓発の怖さ、からの衝撃の事実が明かされていく。 最近読んだ本の中では一番引き込まれた。 反面教師というべき本なのかもしれないけれど、 有名人になって35歳で劇的に死んでしまうのか? うだつの上がらない人生を80歳まで続けるのか? どちらを選ぶのかと問われれば前者を選ぶ人だったのだろうと思う。
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格好の悪い良くできた「観察者」
著者がご自身の言う様に「観察」した内容が面白いのは面白い。異論はありません。 ですが、ご自身がとっくに気付いていたけど見て見ぬふりして、栗城氏を利用していた期間をほぼ無かったことにしていること。その後自分が「観察者」になってからは栗城氏を利用するその他の人々を冷笑している姿こそ印象に残ります。 謙虚さに欠けた大変格好悪い著者だと感じました。面白かったです。
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現代のこれ以上ない反面教師
今の時代において、これ以上ない人生の反面教師。 人並み以上と思われる『自己顕示欲、怯弱、偽善。』 誰でも栗城史多になる可能性がある。 登山家たちのくだらない嫉妬心と価値観。 無責任な応援タ二マチ。 真偽に異常に執着し、叩くネット民。 胡散臭い適当な占い師。 そして、偽善臭漂う作者のまとめ。 まわり全部ヘドが出る。 でも、それが人間だから仕方ない。 それらに揉まれて栗城史多は死んだ。死に追い込まれた。 『弱かったから栗城は死んだ。悪いのは自分。』 ということには違いない。 と、自分の子供に教える。 〈追記〉 栗城氏の本、『一歩を超える勇気』を読みました。 この『デスゾーン』とペアで読むのを勧めます。
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中盤にあるジムでのトレーニング話しが非常にシュールですし、読んだ後は何故か〝片思いって辛いよね…〟としんみりします。
著者は観察者と言うより栗城さんと同じ穴の…失礼、割愛します。 以下、タイトルにあげたジムでのトレーニング話しの内容含むネタバレ感想です。 本作の中盤エピソードですが、栗城さんがトレーニングをするから撮影して下さいと著者を誘い、張り切ってトレーニングをし過ぎた結果気持ち悪くなってしまったのか、ロッカールームに消えてしまいます。 なかなか戻って来ない為に著者がロッカールームを見に行くと、苦しげにうめいている栗城さんを発見。 苦しげにうめくその様子を見て著者が思ったのが『撮らなければ』 いや、分からん。なぜそうなる。 普通にロッカールームで人がうめいて倒れていたらビックリして「助けなきゃ!」と思うのが一般的な感覚だと思うのですが、そこはやはりテレビマンである著者と私のようなテレビが「画面の向こう側の世界」の人間では価値観が全く違うんだと思います。 しかしながらそこはいくらテレビマンと言えど〝撮らなければ(つまり撮りたい)〟と言う本音は控えて建前上「大丈夫ですか?ジムの人を呼びましょうか?」と声を掛けます。 私だったらアホなので著者さんの建前にコロッと騙され「すみません…ジムの人呼んでください…(助かった…著者さんありがとう…)」と思っちゃいそうなのですが、テレビマンである著者と同じくテレビ画面の向こう側の人物である栗城さんは、著者がトレーニングを張り切り過ぎて倒れている情け無い自分の姿を撮りたがってると素早く察知。 「ジムの人を呼びましょうか?」の呼びかけに対して「撮らないで……」と言ったそうです。 一般人の自分には全く分からない凄いやり取りですが、お互いに譲れない〝撮れ高〟があり、著者さんは登山してカッコイイ栗城さんじゃなくて失敗したりドジっちゃったりヘラヘラお調子者で、カッコつけ過ぎて皆んなの前で風呂敷き広げ過ぎてどうしたらいいのか分からなくてテンパってるようなダサくてカッコ悪い部分を強調した「人間、栗城」を撮りたい。 でも栗城さんは「登山家、栗城」として夢と冒険を共有し、そうして人々に希望を与えるカッコいい自分を撮って欲しい…。 う〜ん!!そもそものマッチングがうまく行ってない!! 栗城さんは恐らく情熱大陸とかプロジェクトXとかに出たかったタイプなんです!(すみません、主観です) 著者さんは深夜とか日付けが変わるか変わらないかぐらいの時間帯に、ふとテレビをつけたらやっている、見るつもり無かったのに何だか段々と自分自身を重ねてしまって身につまされて、ついつい最後まで見ちゃったよ確実に明日寝不足だよどうすんだよ〜ってなるタイプのドキュメンタリーを撮りたいタイプなんです!!(重ねてすみません、主観です) あと、本を読み進めてると著者目線の栗城さんがよく見えると言うか、著者の感情が何かこう…あれなんです… サークルクラッシャーの彼女に散々振り回された挙げ句音信不通になって振られ、無茶苦茶腹が立つから嫌いになりたいのになれなくて、完全無視出来たらいいのにそれもどうしても出来ないのが悔しくて 「いや僕はもう彼女のことはもう全く好きじゃないけど人間観察の素材としては面白いから一緒にいる」 と言ってるガチ恋理論武装オタク君みたいで、栗城さんって批判は多くあれどたくさんの人から莫大な資金を集めていただけあって、やっぱりサークルクラッシャー的な危うい魅力満載の天性タラシだったんだなぁと改めてよく分かりました。 著者が栗城さんの事を、困ったちゃん、と評してるのが何とも切ないです。 片思いって辛いですよね(重ね重ねすいません、あくまでも主観です)
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オオカミ少年とテレビマン
単なるウォッチャーであり、応援も批判もしていなかった自分が彼の訃報を知った瞬間、「自殺」の言葉が頭に浮かびました。指を失い、追い詰められた結果選んだ手段だったのではないかと。 その記憶もあり読了感は最悪でした。それでも一度でも栗城氏の登山に興味を持ったことがあるならば、読んでみる価値はあります。 末筆ではありますが、栗城さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。
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ネット社会が加速させた虚栄心
人生を物語化して英雄的な自己像を作り出し、 本来の自分との乖離を自覚できず、無謀なチャレンジで命を落とした若者の話です。 著者は、自らのテレビマンとしての業もちゃんと書けていると思いました。 決して栗城さんだけを貶める内容ではないと思います。
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冒険の商品化がよくわかる
栗城氏についてまったく関心がなかったが、この本を読み、メディアがもたらす問題に関心がわいた。 冒険が個人的行動にとどまる限り、限られた関係者しかそれを知らない。しかし、冒険が、テレビ番組、映画、映像のネット中継、本の出版、記事のネット配信などの形で商品化されると、大きな社会的影響を持つ。 テレビの通常の登山番組は、登山に関心のある人しか見ないが、栗城氏の登山は、メディアの派手な演出により、登山をしない人や登山に関心のない一般の視聴者を巻き込む栗城劇場になった。 メディアは、栗城氏の成功の可能性の低い登山を派手に持ち上げ、それが失敗すると激しく叩いた。メディアに翻弄されると、このようになりやすい。 また、この本は、個人と故人のプライバシーを扱っており、かなり危うい本である。 この本は客観的な伝記ではない。例えば、本の中に、「栗城氏の技術、体力がなかった」という関係者の証言が引用され、栗城氏に登山家としての資質がなかったという印象を与える。しかし、栗城氏は、チョーオユー、マナスル、ダウラギリ、ブロードピークなどの8000m峰に登っている。ガイドに引率されて登ったわけではなく、自分の力で登っている。この客観的事実に照らせば、栗城氏に相応の技術、体力があった。 また、栗城氏が人工壁を登れなかったという記述があるが、ヒマラヤのノーマルルートでは、クライミング技術は必要だが、スポーツクライミングの能力は必要ない。この点を著者は知らないようだ。栗城氏にはヒマラヤのノーマルルートの登攀ができる程度の技術はあった。栗城氏の国内の登攀歴を調べれば、登山技術のレベルはすぐにわかる。植村直巳もクライミング技術は二流だったが、高所に強かったので、エベレストで活躍した。 ヒマラヤ登山では、強さ(身体の頑健さ、高所順応力、精神的強さなど)、体力、経験、判断力と、ノーマルルートでは「そこそこの技術」、バリエーションルートでは高度な技術が必要である。栗城氏には、強さ、体力、「そこそこの技術」があり、ヒマラヤ登山家としての資質があった。 この本には、栗城氏の登山家としての能力の客観的な検討、分析がない。そのうえで栗城氏のさまざまな問題点を列挙していくので、栗城氏の登山家としての化けの皮がはがれていく印象を与える。本来、メディアが演出した虚像と登山家としての資質を区別する必要があるが、それがないので、この本は、登山家としての栗城氏はすべて虚像だったというイメージを与える本になっている。 栗城氏が、「無酸素、単独でエベレストをめざす」と言っても、登山界の反応は、「それは難しい。やめておけ」で終わる。 しかし、映像メディアはこの計画にとびついた。「世界初」、「ニートの登山家」、「時代を切り開く登山家」などのキャッチフレーズで、栗城氏をヒーローとして持ち上げ、冒険を商品化した。そこから、登山に無知なネット民を巻き込む栗城劇場が始まった。一登山家の宣伝とメディアの宣伝では、社会的影響力がまるで違う。栗城氏の登山を商品化したのはメディアである。 映像メディアは栗城氏をスター登山家として扱い、視聴率を稼いだ。それはメディアがアイドルタレントを作り、視聴率を稼ぐ過程に似ている。その点がこの本を読んでよくわかる。 登山に詳しいメディア関係者は、栗城氏の「無酸素、単独でエベレスト登山」を取り上げなかっただろう。成功する可能性が低いからだ。 しかし、映像メディアが栗城氏の映像のネット配信計画に飛びついたのは、「これは使える」と考えたからだろう。つまり、視聴率をか稼げる、ということである。そこでは、栗城氏の「無酸素、単独でエベレスト登山」の実現可能性はどうでもよかったのか、あるいは、ヒマラヤ登山に無知だったかのいずれかだろう。その両方かもしれない。 映像メディアがヒマラヤ登山に詳しいか、あるいは、ヒマラヤ登山のプロのアドバイスに基づいて企画すれば、映像をネット配信する点を除けば、一般的なヒマラヤ登山企画になっただろう。それでは視聴率を稼げない。 栗城氏と同等レベルのヒマラヤ登山家は日本にたくさんいるが、メディアは栗城氏をヒーロー扱いした。 アイドル歌手の場合は、歌の巧拙に関係なく、メディアにとって歌手は「売れればよい」が、登山界は実力の世界である。メディアが栗城氏を実力以上のヒーロー扱いをしたことに対し、登山界は冷淡だった。 メディアは、登山界と無関係に、登山に無知なネット民を巻き込んで栗城劇場を演出した。これは映像メディアの暴走である。 これは、メデイアの誇大なテレビコマーシャルによって、多くの消費者被害をもたらす構図に似ている。製造物などについては法律により誇大広告が制限されるが、冒険商品については、今のところ、倫理上の自主規制しかない。 栗城劇場は、それまで登山に関心のなかった人たちをヒマラヤ登山に引き付けた。しかし、ネットで流れる登山の映像の世界は、実体験を伴わない観念的なものでしかない。それは、ネットで見る戦争の映像が、実体験を伴わないゲーム的な軽薄な関心をもたらしやすいことに似ている。ネットの映像では戦争の悲惨さを実感しにくい。メディアの演出によって形成されたヒマラヤ登山への関心は、実体験を伴わない軽薄な認識をもたらしやすい。 栗城氏がエベレスト登山で失敗する度に、栗城氏はネット民から、「詐欺だ」、「金を返せなど」、「登山の素人を騙すペテン師」、「ニセモノ登山家」などとの声が出たのは、メディアの誇大演出がもたらした軽薄な認識の結果である。これはある種の消費者被害だ。映像メディアの世界では、ヤラセと紙一重の誇大な演出が日常的に行われている。 最初からメディアが、成功の可能性が低いことを報道していれば、「やっぱりダメだったか」となるはずだ。あるいは、ヒマラヤ登山を理解している人は、栗城氏の失敗をよく理解できる。 そのような支援者は、栗城氏が失敗しても非難することなく、その後も支援を続けるだろう。そういう支援者も多い。 人間さまざま、登山も、登山家もさまざだ。どのような登山をしようと個人の自由だ。登山は、スポーツクライミングを除き、競技ではないので、明確なルールはない。登山者が「こうしたい」と思えば、それでよい。自由であることが登山の本質だ。UIAAの登山倫理はあるが、個人的な登山スタイルには介入しない。他人の登山スタイルをとやかく言っても仕方ない。栗城氏のように、ポーターを使ったうえで、行動中だけ無酸素で単独でエベレストを目指す登山をすることに、何も問題はない。 しかし、メディアが登山を扱えば、個人的な活動が社会性を帯びる。その点で、メディアに社会的責任がある。競争や競技ではルールがあるが、登山にはそれがない。登山倫理はあるが、これはルールとは違う(しかし、日本では、ルールと倫理を混同する人が多い)。 栗城氏氏のエベレスト西稜や南西壁挑戦は無理があったが、ノーマルートであれば、栗城氏がポーターの支援を受けて無酸素登山をすることは不可能ではなかっただろう。 ただし、メディアは、これを「無酸素、単独登山」と宣伝し、これが問題だった。単独登山はアルパインスタイルをイメージするのが一般的だからだ。ポーターの支援を受ける登山を単独登山と呼ぶことはできない。また、メディアは、成功の可能性について、客観的に報道すべきであり、それがメディアの倫理である。そうでなければ、消費者を騙すことになりかねない。 これらの点は最初からわかっていることだったが、メディアはそれらを無視して栗城劇場を演出し、視聴率を稼いだ。ここに問題の本質がある。 栗城氏が、「自分は絶対に成功します」と言うことは自由だが、メディアは、「成功の可能性は低いが、栗城氏が挑戦する」と報道する必要があった。 著者は、栗城氏の登山が、単独登山、無酸素と言えるかどうかを問題とするが、単独登山は大雑把な概念だ。単独登山が、ルールではなく倫理で規律される場合には、大雑把な単独登山の概念で足りる。しかし、メディアは単独登山の定義やルールをほしがるが、もともと単独登山の定義は難しい。 ヒマラヤ登山はルールではなく倫理で規律されるが、メディア業界はもともと倫理感が稀薄なので、いくらでもゴマカシができる。植村直巳は、航空機から物資の空輸を受けたが、メディアは「単独冒険」と報道した。三浦雄一郎氏は、エベレスト登山でヘリで下山したが、メディアは登山に「成功した」と報道した。某テレビ局は、芸能人に6000mから酸素を吸わせて8000m峰登頂を演出した。現在は、8000m程度では酸素を吸わないのが、世界のスタンダードだ。 この本の中で、栗城氏のライバルとして芸能人がエベレストをめざすバラエティ番組を取り上げていたが、フツーの登山番組はライバルではなかった。栗城劇場とフツーの登山番組では明らかに客層が異なる。栗城劇場・・・一般向け。フツーの登山番組・・・登山に関心のある人向け(視聴率がそれほど高くない)。 2024年の平出、中島ペアのK2西壁挑戦は、無酸素、アルパインによる未踏ルート挑戦であり、栗城氏の登山と違って高度の登攀技術を要する登山だったが(結果的に遭難した)、遭難するまで日本のメディアはほとんどこの登山に関心を持たなかった。この登山はバラエティ向きではなかったからだ。メディアは遭難して初めてこの登山を取り上げた。メディアは、「アルパインスタイル」自体あまり理解していない。 栗城氏の登山はアルパインスタイルではなく、栗城氏のいう単独登山は、「行動中は1人で登る」といった程度の意味のようだ。栗城氏は、ポーターを使うことを隠していない。どのようなスタイルで登るかは個人の自由だが、それをメディアが「単独登山」と報道すると欺瞞的になる。メディアは、たとえ栗城氏が単独登山という言葉を口にしても、そのまま報道するのではなく、登山界の意見を聞いて表現する必要があった。栗城氏の登山スタイルは、「ポーターを使用する単独行動」といった言い方になろうか。 栗城氏がBCで酸素を吸い、ポーターを使っても、それを公表すれば、倫理上、問題はない。しかし、無酸素、単独登山を派手に宣伝するメディアは、栗城氏がBCやC1で酸素を吸えばそれを隠し、キャンプ設置をポーターが行ってもそれを隠して「単独登山」を装う。これがヤラセである。映像メディアの映像偏重の体質がヤラセをもたらす。 メディアの「演出」・・・・これがクセモノだ。これがしばしばゴマカシやヤラセをもたらす。 著者は、メディアの演出に疑問を持ちつつ、それに加担した。共犯者だからこそ書けることがあり、共犯者としての反省も生まれる。矛盾や疑問を感じつつ、利益を追求するのが商業メディアだ。 以前は、栗城氏について、かなりいい加減な登山家のイメージしかなかったが、この本を読んで、「なんだ、けっこうまともなヒマラヤ登山家ではないか」と思った。エベレスト南西壁は突飛な思い付きだが、ノーマルルートであれば、エベレストの無酸素登頂も、ポーターの支援を得れば不可能ではなかっただろう。 栗城氏の登山が、アルパインスタイルでないこと、多くのポーターやスタッフ、物資、装備を使用すること、「無酸素・単独登山」の中身、栗城氏の技術レベル、成功の可能性の程度などは、計画内容を検討すれば、最初からすぐにわかることだ。 これらをメディアが最初から客観的に報道すれば、栗城氏が登山中に映像をネットに流す点はユニークだとしても、平凡な登山番組になっただろう。 事実を客観的に報道することはメディアの使命のはずだが、日本のメディアの視聴率優先の偏向が、この本からわかる。 この本では栗城氏が自殺したことをほのめかしているが、かつてのヒーローの失意の自殺というストーリーは、悲劇を好む日本の視聴者向けの話の盛り過ぎだ。テレビドラマではないのだから。ウソくさいヒマラヤ小説の「神々の山嶺」の影響はありえない。このような脚色はこの本の中に随所にあり、それがドラマ仕立ての本にしている。 栗城氏の恋人との関係や占いに凝っていたことなど、どうでもいい個人のプライバシーの記述が多い。それも演出なのか。 この本の全体を通して、メディアが栗城氏をヒーローとして演出し、死後になってその実像を暴いて本にするという倫理的な不愉快さがある。栗城氏が死んだ後でも栗城劇場が続いている。 この本は山岳書としての意味はないが、メディアの問題性を考えるうえで有用な本だ。新田次郎や三島由紀夫はモデル小説で個人のプライバシーを扱い、三島由紀夫は裁判所から損害賠償を命じられた。朝ドラは、実話を加工したフィクションだが遺族の承諾なしには成り立たない。この本は、個人のプライバシー侵害を内容としており、かなり大胆な本である。 メディアの世界は魔物が棲む「デスゾーン」だ。ヒマラヤ登山を理解する堅実なメディアの企画もあるが、たいてい地味な番組であり、登山に関心のある視聴者しか見ない。 賢明な登山者は、利益優先のメディアとネット民から距離を置くことが必要だ。特にテレビ・メディアは危うい。リスクマネジメントと倫理感の欠如した低俗番組は、低俗な視聴者に支えられている。 このような商業メディアを利用したことは、栗城氏にとってよかったのか、悪かったのか。メディアを使用しなければ、栗城氏は資金を集めることができず、無名の一登山家で終わっただろう。しかし、それでも自分のやりたい登山をすることは可能だっただろう。 栗城氏の派手なパフォーマンスの対象は、お笑い、政治、ビジネスなどではなく、なぜ、登山だったのか。虚栄心、自己顕示、名誉、金だけが動機であれば、わざわざ命を懸けて苛酷な登山をしない。「栗城劇場」の対象がなぜ登山だったのか。この点が私が最初に抱いた疑問だ。栗城氏にとって登山とは何だったのか。栗城氏にとって登山は、有名な心理学者マズローの言う「至高経験」に近い意味を持っていたのではないか。この点は、栗城氏の行動を理解するための出発点だが、この本にはその点の考察はない。 ヒマラヤでの「夢の共有」は斬新な発想だが、実体験を伴わない映像だけでは、経験を共有できない。実体験がなければ、夢や自己実現の共有は言葉と映像だけの希薄なものになりやすい。映像上の「夢の共有」の内容の希薄さは「騙された」などの不満につながりやすい。 自己実現にメディアは無用であり、むしろ有害である。その点をこの本は教えてくれる。
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栗城史多とは何者?
栗城史多さんについては、いろいろ話題になっていた頃から「いったい何者?」という思いがありました。惹き付けられる魅力を持ちながらも、得体の知れない危うさ怪しさすら感じられる不思議な存在でしたね。 この本の著者はこの文章をどんな気持ちで書いたんだろうと思いながらも一気に読了。