作品情報
沈んだ国の後で、日本人はどこへ向かうのか。
『日本沈没』のその後を描く続編。国土喪失後の移民、外交、アイデンティティを、社会派SFとして広い視野で扱う。
レビュー要約
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読者の反応は確認できる範囲では多くないが、題材の鮮明さと語り口の個性を評価する声がある。展開や設定の癖は好みが分かれる。
書籍情報
- 出版社
- 小学館
- 発売日
- 2006-07-07
- ページ数
- 466ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784093876001
- ISBN-10
- 4093876002
- 価格
- 2000 JPY
- カテゴリ
- 本/エンターテイメント/映画
第一部から33年を経て発表された問題作 1973年に発表され大ベストセラーとなった小説『日本沈没』の33年ぶりに書き下ろされた続編。日本列島が海面下に没し、国土を失った日本人たちの25年後を描く。2006年、日本人はパプアニューギニアやカザフスタンなど世界各地に入植し、現地社会との摩擦を経験しながらも、着実にコミュニティをつくり上げていた。国土は持たなくとも日本国は存在しており、中田首相を中心とした政府は自国のアイデンティティを世界に示すため、ふたつのプロジェクトを密かに進行させていた。ひとつは日本列島が沈んだ地域に人口100万人規模の巨大な人工島を建設するメガフロート計画。もうひとつは日本人の技術を結集して挑む未来予測システム、地球シミュレーターだった
レビュー
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懐かしさ大爆発! 思考実験の価値を再確認する
『日本沈没 第一部』を読んだのは1974年なので52年前になる。 読了後はかなり長い期間、続篇はまだかと待ち続けていたが、実際に出版された2006年にはその思いは希薄化してしまっていて、購入はしたもののすぐ読む気にはならず、“いつかその時が来たら読む本”の一冊になっていた。 多分、今がその時だったのだろう。今回、15年積読していた『虚無回廊 完全版』に続いて20年積読していた本書を読む。 小松氏が逝去されて15年。もう一人の作者、谷甲州氏も2005年に『カリストー開戦前夜』を読んで以来、本当に久しぶり。読み始めると、アイデア、構成、文章の特徴など、様々な点で二人の過去の作品、特徴を思い出して懐かしくなる。そして、次々に登場する人名が記憶を呼び覚ましていく。小説の場面、映画の場面、TVドラマの場面、等々。 内容はまさに半世紀前に小松氏が宣言していたとおり、国土を失った日本人が世界中に散らばっていく話。当時からユダヤ人が例として挙げられていたが、現代でもクルドやロヒンギャ等苦境にある難民の話は事欠かない。どう考えても明るい話にはなりそうにない。 積読している間に世界情勢はますます混迷化し、評者の体力と合わせるように日本の経済力も衰退し、将来に対する希望も持てなくなった。そのうち次第に“あの傑作”の続きが読みたいと言う気持ちも薄まり、いつの間にか本書を読むことも残務整理のように思い始めていた。 しかし、一旦読み始めたらそのような感覚は払拭される。冒頭から日本海で周辺国の政治的、軍事的圧力が高まり、現在の我々を取り巻いている状況と重なっていく。前作では未曽有の災害に襲われた日本に対する同情が表向きの対立を覆い隠していたが、『異変』から25年、世界は既に日本という国は存在しないものとしてアジア極東で動き始めていた。 世界中に分散した日本人は各地で困難な状況に陥るが、それでも日本人ならではの特質を生かして根を張り始めている。小説の中でも順調ではないケースも描かれているし、成功したケースでも現実には小説のように順調には行かないだろうが、もしかしたら何とかなるかもしれない。科学技術も日本再建の基盤になりそうだ。 政府を率いる中田首相は、25年の慰霊祭を契機に、国土を失って帰属意識を希薄化させていく日本人を再統合するための再編計画を発表する。 しかし、その後状況は一転する。日本が再建の柱と考えていた科学技術はその卓越性ゆえに対立している国からの攻撃の標的となり、日本を苦境に追い詰める。故郷を失い、世界中に分散してしまった日本人は世界を敵に回して生き残ることができるのか? 読んでいると次第に暗い気持ちになる。『第一部』の頃の日本は、世界でも揶揄されるほどの活力と資金を持っていたので何とかすることができたが、両者を失った21世紀の日本に何ができるのだろうかと。 第一部もそうだったが、この第二部も、日本沈没という地球科学的な現象が発生した場合に生じる政治的対立を描いている。『日本沈没』は科学的な“IF(もし)”の状況を舞台とするポリティカル・フィクションなのだ。 本書でも一つの科学的な“IF(もし)”が提示される。それは『地球の寒冷化』である。日本を沈没させた火山活動の噴煙と日本列島の消失に伴う海流の変化が、地球全体で平均気温の低下をもたらすというのである。 そこに登場するのは日本で開発された『地球シミュレータ』である。本来は世界各地で定住地を探す日本人避難民の開発計画を支援する目的で開発されたものだが、全地球規模の気候シミュレーションを行う能力を有効活用して気候変動に対応しようとする。メガフロートと呼ばれる移動可能な超大型浮体式構造物も提案される。 しかしそれは危険な切り札だった。戦略兵器にも匹敵するその能力を日本が独占していることを認めようとしない超大国たちは、日本が世界を騙そうとしていると吹聴して謀略戦を仕掛けてくる。 ストーリーは、日本を再建しようと考える中田首相と、その計画をあざ笑うかのように迫る異常気象。超大国の思惑。苦悩する中田首相の方針とは全く別の発想で未来を拓こうと考える鳥飼外相の計画とは? そして世界中に散らばった日本人避難民の運命は? という形で進んで行く。 後半、鳥飼外相が提案する“コスモポリタニズム”の発想に、評者は『歴史と文明の旅(上・下)(1973)』のことを思い出して、いかにも小松氏的だと思ったのだが、どうだろうか?世界中でナショナリズムが復活しつつある現代であるからこそ再評価するべき思想だと思う。 終盤に二つの驚きがあった。 ひとつは、25年ぶりの再会の場面。本書の最初の方では邦枝が25年ぶりに渡桜と再会し、それが第一部の物語に繋がる鍵になっているが、終盤のこの再会は、まるで小松氏の初期作『果てしなき流れの果に』のクライマックス場面の再現のようだ。 もうひとつは、エピローグの最後の一文。これも『果てしなき流れの果に』で描かれていた場面。まさか、ここに繋がってくるとは思わなかった。この展開を構想した谷甲州氏のリスペクトは称賛すべきものだが、それ以上に、当時このビジョンを描いていた小松氏の構想力の凄さに呆れるべきなのだろう。でも、話によると、『日本沈没(第一部)』の執筆は10年かかったので、その執筆時期の一部は『果てしなき流れの果に』と重なっていたとも聞く。ともあれ、長い時間をかけてようやく完結した話が、まさかここに繋がって完結しようとは。感無量。 読了後、小松左京マガジン第24巻(2006年10月28日発行)を見ていたら、“「日本沈没」をめぐる果しなきトークショウ”という記事があり、本書執筆の経緯が語られていて大いに参考になった。
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未来学者としての著者の思いが反映している
日本は海の中に沈んでしまった。生き残った日本人も国土を失い、世界中に散った。物語は25年後の日本人たちを描いている。 昭和48年に出版された「日本沈没」は、「第一部 完」という言葉で終わっている。当時、誰もが「その後の日本人は一体どうなるのだろう」と強く思ったことだろう。 「日本沈没 第一部」は、昭和39年、東京オリンピックの年に執筆が開始されたという。昭和31年、経済白書は「もはや戦後ではない」と掲げ、昭和34年、東京オリンピックの開催が決まった。昭和45年には大阪万博が開催される。日本という国が、そしてそこに住む日本人が、高度経済成長の正しさと、「人類の進歩と調和」を、それこそ素朴に信じることが出来た時代だったといえる。 その日本が沈んでしまう。荒唐無稽ともいえるその設定は、SFの真骨頂であると同時に、作者の日本人に対する思いと願いが描かれていた。そこには「宗教としての日本人とも言える世界観」が描かれていた。 「第二部」にも、色濃く、「宗教としての日本人とも言える世界観」が踏襲されている。「日本人であるわれわれとは一体何者なのか」という問いの著者たちなりの答えが描かれている。その世界観に、よいでも悪いでもなく、正しいでも正しくないでもなく、心が動かされてしまう。 郷愁ではない、創造すべき懐かしい未来が、そこには描かれている。
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日本が沈没した後の話
あの衝撃的な日本沈没の続編。日本が原発の爆発によって住めなくなる時を考えさせられます。
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ちょっと詰め込みすぎ
小野寺とそれにまつわる人たちの途中の人生をもう少し詳しく書いてほしかった。ちょっと飛躍しすぎ?? あと、渡兄弟についても、、、 もう少し頁数をとって精緻に作品世界を作ってほしかった。 サイドストーリだと思えば納得ですが正規の続編と考えると微妙です。
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完璧な駄作・・・XXXはは「何も書かん方がええ」
あれだけの噴火が起こり・・・。 一年後ではないのトバ火山を例に出しているけれど殆ど同規模の「スーパー・ボルケーノ」の イエロー・ストーンでは翌年から「火山の冬」なのにちょいと勉強不測では「死都日本」の霧島 噴火の方が真実味が有るだろうな~。 しかし、なんだな「果てしなき流れの果てに」を読み返したんですがね「月とスッポン」ですね、 いや」日本沈没、第一部」と比べても差が有り過ぎますよ、大体からして「地球シュミレーレーター」 にそんな戦略的価値はあり得ませんよまだしも「マグニチュード10」の方がリアルですね、 どうしてあれに戦略的価値は有ると考えたのかさっぱり解かりません、「死都日本」では直ぐに ヤンガー・ドライス(深層底流の停止・衰退化による地球寒冷化)を考え付いたのに何でわざわざ 「地球シュミレーター」が必要なのかその意味がどうしても解からないのです、そこで星一つに しました、中途半端な小説は書かないで欲しいもんです、もし書くのなら前作の意味は勿論の事 その後の科学的事実と内容を理解した上、書いて欲しいものです、完全な駄作ですね、小松さん の小説ではあり得ません。 ちゃんとした火山学者や気象学者にある程度の監修を依頼すべきでした、欧米では自らが学者 (ベンフォードやブリン)の例が多いのにも関わらず必ずスタッフに専門家を入れるか監修させている のに日本の場合最近はそれをやりません(因みに「日本沈没」では竹内均が監修をしていたと聞く) それをすればこんな初歩的なミス(火山の冬)をする事はなかったのにしないからミスが起こるのです それも致命的なミスが、翌年から起こる場合と30年後では全く状況が異なります。 仮にトバと同規模の噴火ならば翌年から火山の冬が始まり赤道近辺で気温は15度低下して食糧事情の 悪化で10億人程度の餓死すると考えられている、要するにとても日本人を難民として受け入れる事は 不可能なんだよ、1970年当時はまだ核の冬の予想は出来なかったが現在はカール・セーガン達が所謂 核の冬のシナリオを解析して火山の噴火や巨大隕石の落下でも起こる事が解ってきたんだよ、とどめは アルヴァレスの発見したチチュラブ・クレーターによりほぼ定説に成っているね、つまり日本沈没は日本人 だけでは無く人類全体の存亡の危機だね、書くならばその大混乱を書くべきだね。 トバ噴火の事で具体的な数字を出しているだろう日本沈没でも出しているよ、それなら何故「火山の冬」が トバ噴火には来て日本沈没の時には来ないなんてアホなお話を書くのさ。 「死都日本」が発売された後だからこのミスは致命的だよ。 「日本沈没」は所詮小松さん一人の作品じゃからのう、その内容も意味も現代科学も理解できていない 「XXXはもう何もせん方がええ・・・」!
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国家の役割と範囲
国土を消失した国民と国家のかかわり方、国家と移民先国との国交のあり方、開発にあたっての移民と既存住民との連携の仕方、移民を余儀なくされた個人の思考と感性など、いくつかの観点から、思考を触発される。 国土をもたない国の機構が各地に分散された国民とどうかかわるのか、国家の役割と範囲はどうあるべきなのか、国土を持たない設定であればこそ、描くことのできる世界だ。 根岸毅著『政治学と国家』で説かれた、国をひとつの仕組み・機能として捉える世界観に共通するものがある。 海外に滞在した経験のある方、二重国籍の方、外交人との交流の多い方、国か民間化によらず組織論に関心のある方に、是非お勧めしたい作品です。
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ちょっと中途半端かな
日本が沈没して二十五年後、世界各地にちらばった日本人はさまざまな境遇にあった。たとえばパプアニューギニアの入植者たちが成功しつつある一方、たとえばカザフスタンの入植者たちはエスニック・クレンジングの犠牲となっている。国土を持たぬながらも存続する日本政府は、日本の沈没しさった旧日本海における利権争いが本格化するなかで、漂流する日本民族をあらためて再結集させるプロジェクトを進行させるのだが。 第二部が出版されたので、十数年ぶりに第一部も読み返しました。記憶のなかの印象との違いにある種の感慨を抱くとともに、小松左京氏と谷甲州氏の作家としての資質の違いと、執筆された時代の違いを感じずにはいられませんでした。 第一部の小松左京氏は、さまざまなデータを駆使して荒唐無稽な舞台装置をつくりあげることが得意だった半面、データの列挙に淫するところがあり、また人物描写もあまり得手ではなかったようです。キャラクターはやや劇画調で、政界黒幕の長老が登場するなど、今となっては苦笑してしまう設定もあります。日本から人々が脱出するシーンもほとんど描かれていませんでした。 一方、第二部の谷甲州氏は、技術者やエージェントなど現場にこだわり、きめ細やかで散文的な描写によってリアリズムを作り上げます。しかしその分、情緒的には素っ気ない。ていねいにディテールを描きこんで場面を盛り上げるのですが、いざクライマックスに達そうとする直前でぷつんと断ち切ってしまい、その後の経緯はこれまた素っ気なく、別の場面のしばらくあとの地の文で説明するのです。妙に煽ろうとしない分、私には読みやすいスタイルでしたが、しかし、これが映画だったら喜んで映像化したがるであろう決定的なシーンの描写を、なんだか避けているかのようにも感じられました。また旧日本海における中国の記述は、現在の国境情勢に影響されたところでしょう。 本作(第二部)は、まず前半部はさまざまなディテールから始めて、やがて「日本政府のプロジェクト」に焦点を結んでゆくという構成なのですが、ストーリィ中盤でこの焦点がねじれてしまいます。そして後半部は、新たな焦点がうまく結びきれぬまま、性急な説明がつづき、ていねいに描かれてきた要素があっさり捨てられてしまいます。たとえば中国のエージェントもそうですが、結局なんだったのだ、なにをしたかったのだ、と言いたくなるくらい、キャラクターや伏線がとり残されてしまいます。 話のねじれを料理できぬまま執筆され出版されたのは、やはり第一部の再映画化(2006年)にともなって「映画公開に合わせる」というマーケットの要請でしょうか。そもそも映画公開がなければ第二部が書かれたかどうかもわかりませんが、正直やはり残念です。 ともあれ、なにを書いても第一部と比べられ、小松左京氏の熱狂的なファンに批判されるであろうことが予想される中で、谷甲州氏があえて執筆に踏み切ったことだけは、賞賛したいと思います。
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小松作品とは別物
これを小松左京の本だと思って読んだ人は失望するだろう。 まず文体が違いすぎて、とても小松作品を読んだ気分にはなれない。 これを読んで初めて、改めて小松左京の文章がどれほど心地よいものであったかと思い返したのは私だけではないだろう。 正直、この作品を最後まで読み通すのは苦痛だった。短い文の中に同じ表現を繰り返さないようにするのは文章作法の基本だが、この作品にはたとえば「…ではないか」という文尾の言い回しが何十回となく繰り返される。ほとほと、小学生の作文じゃないんだから、と言いたくなる。 内容的には、そもそもストーリーはないと言ってもいい作品だ。 強いて言えば、「地球シミュレータ」が予言する通りに世界が動いていくというのがメインの物語。第一部でも田所博士の理論通りに日本が沈没するという、小松作品にしては単調なストーリー展開だったが、それ以上に単調だといえる。 そして、日本沈没後の世界の描写は、ストーリーになんの寄与もしない枝葉末節の描写になってしまっている。つまり本筋に絡まない、エピソードの寄せ集めなのだ。 具体的に描けばリアリティが増すとでも勘違いしたのか、例えば現在のNGOの問題を将来に外挿したような、不必要に細かい描写。そのために物語全体のテンポやスピード感というものがなくなってしまった。 最後のシーンなどは「果しなき流れの果に」のパロディかと思わせるような既視感ありすぎの結末。 そして蛇足(としかいいようがない)エピローグは、取ってつけたような「SF」だ。 もうちょっと褒めるつもりで書き始めたが、けなす個所ばかり目についてしまった。 二部は必要でなかったというと身も蓋もないが、せめて小松左京監修、谷甲州著とでもしてくれたら、読者を裏切らずに済んだのではないかと思う。
関連する文学賞
- 星雲賞 第38回(2007年) ・日本長編部門