作品情報
土の記は、受賞歴と書誌確認をあわせて読むことで輪郭が見えてくる作品である。
土の記は、高村薫の作風と受賞時の評価が交差する作品として位置づけられる。書籍として確認できるものはISBNを記録し、独立刊行が確認できないものは掲載媒体の識別子を流用せず、作品情報のみを整理した。
レビュー要約
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読者からは、題材への向き合い方と物語を支える筆致が評価されている。一方で、静かな展開や重い主題をじっくり受け止める作品として読まれている。
書籍情報
- 出版社
- 新潮社
- 発売日
- 2016-11-25
- ページ数
- 248ページ
- 言語
- 日本語
- サイズ
- 13.8 x 2.2 x 19.7 cm
- ISBN-13
- 9784103784098
- ISBN-10
- 4103784091
- 価格
- 1650 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論
ラスト数瞬に茫然、愕然、絶叫! 現代人は無事、土に還れたのだろうか――。青葉アルコールと青葉アルデヒド、テルペン系化合物の混じった稲の匂いで鼻腔が膨らむ。一流メーカー勤務に見切をつけ妻の里に身を落着けた男は、今年の光合成の成果を測っていた。妻の不貞と死の謎、村人への違和感を飼い馴らす日々。その果てに、土になろうとした男を大異変が襲う。それでもこれを天命と呼ぶべきなのか……。
レビュー
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文珍が推奨した本
新聞に文珍の書評があった。 とにかく面白いとのこと。 試しに読んでみた。レディジョーカー、マークスの山以来、、、スニーカー刑事が懐かしい、、、 さて、この本の濃密さは気にならない、黄昏ゆく自分の人生と重なる。 軽快さは心地よい、市井の賑わいを感じる。 亡くなった妻の不貞は確実のようだ、そしてその妹と行く末、これが通奏低音。 下巻の到着が楽しみだ。
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一味違う
いつもの高村薫さまとは毛色が違いますわ。 自身が畑作りをしていることもあり、小説 としてだけでなく、畑作りの学びにもなり 現実味を感じましたわ。 何て言うんやろ?土着の性とでも言うんで しょうかねぇ。妙な世界観を感じましたわ。 退屈に感じる人もいてはるかもしれません わねぇ。派手な事件があるわけなし、田舎 の土臭い話。私は好きですがね。
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言葉多くして
私は高村薫氏の「黄金を抱いて翔べ」時代からのファンなので、この方の作品はほとんどすべて読んでいるが、やはり、彼女の作品はエンターテインメントがいい。「晴子情歌」からこっち、作者は「純文学」をめざして悪戦苦闘しているようなのだが、私には成功しているとは思えない。言葉をあれでもかこれでもかと繰り出してやっと何かの輪郭が浮かんでくる、という印象。労作だとは思うが、文体が描こうとするものにふさわしく練られていないというのが、私の感想。「土の記」もやはりそうだった。
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生きとし生けるものへの眼差し
高村薫の小説はこれまで読んだことはなかったが、気になる作家であった。政治的な発言や宗教への造詣、森羅万象への博識ぶりをエッセイや対談に触れて畏怖感さえ抱いていた。『土の記』は奈良県宇陀市の山村を舞台にするという。同じ県内ということで関心があるし、特に宇陀市はいろいろな意味で注目している場所だ。と言ってもたまに史跡散策で尋ねるぐらいで地理感は無きに等しい。舞台となった「漆河原」は架空の地名で、あのあたりかなとは思うが自信はない。地元の人間ならほぼピンポイントでその土地が思い浮かぶだろう。 小説には宇陀市をはじめ奈良県の地名や実在する学校、病院、寺院、書店などの名前が多数登場する。私が強く反応した箇所もまずそこで、それらがどういう文脈でどう描かれるかは興味深々だった。いずれも小説のリアリズムを保証する一つの装置としてまことに効果的に機能していた。 主人公の上谷伊佐夫は72歳、宇陀の山間の旧家の婿養子である。東京の大学を卒業しシャープに技術者として勤め定年退職した。家伝来の棚田で米つくりに励む。妻は16年前の交通事故で植物状態となり、伊佐夫に介護されてきたが死去したばかりである。一人娘は東京で働き離婚した夫との間に高校生の孫娘がいる。家を継ぐ意思はなく米国へ移住する。2010年の6月から11年の8月までの出来事として描かれる。 場所と時間を具体的に特定しながらも、登場するのは架空の人物であるが、彼らの実在感の濃さに感心する。地方色の濃厚な一人一人の顔つきや姿態、声までも浮かんでくる。この時代の宇陀という土地が確かに目前に現れる。しかしそれは狭小な閉じた世界ではなく、そこを通して宇宙に通じているような世界である。 地縁と血縁という言葉がある。ここに登場する人物はこの言葉が意味する関係を生きている。都会や郊外では実感が薄れてしまい、ここでもおそらくずいぶん変わってきているのだろうが、なおも人々を結びつけ煩わしくもあるが不可欠な関わりとしてある。 住人はお互いに何世代にわたって顔見知りであり家族の事情もわかっている。常に関心が向けられ何かがあればすぐ噂となって村中に知れわたる。冠婚葬祭や村の行事は維持されている。おすそ分けがあり、助け合いもある。伊佐夫は外部から来た婿養子として村の習俗に心理的な距離を持つが、慣習には順応する。寄合で絡みあう村人の様子がいかにもありそうだ。 伊佐夫は本家の婿養子として跡取りをつくることを期待して迎えられた。分家や妻の妹の嫁ぎ先との濃密なつきあいがある。本家は代々女しか生まれず婿を取ってきた。女たちは評判の美人であり性的に奔放である。妻の昭代は男とつきあっていたらしく交通事故はそれとの関係が疑われる。伊佐夫の脳裏には絶えずそのことが去来する。しかし16年間の植物状態をはさむゆえか遠くておぼろげで輪郭をむすばない影絵のようなものとしてある。昭代の妹、久代は伊佐夫に好意を持ち、夫を亡くすと彼女は公然と伊佐夫の世話を焼き、彼もそれを受け入れる。 主人公をはじめ登場人物たちはそれぞれに個性的で存在感を持つが、際立って個性的であったり非凡というわけではない。その中で私の個人的な印象として濃い影を持つ人物が、昭代の事故の加害者のトラック運転手・山崎某とその老母である。事故の原因は昭代にあることがほのめかされるが、山崎が飲酒運転していたこともあり罪を負う。その後、施設に入り昭代が死去した同年に彼も孤独に亡くなる。老母は生前「息子は悪うない」と言い続けてお百度参りをする。それぞれに暗い情念を抱える人物たちの中でも二人のそれは行き場がないようなものとして残った。 伊佐夫は昭代から引き継いで伝来の農地で米作りに精を出す。エンジニアだった彼独特の方法によるコメ作りである。一年を通した農作業が精密に描写される。米作が細かな観察と作業によって成り立っていることを私ははじめて知ったが、おそらく実際の米作農家以外の読者には米作のドキュメントのようにも読めるだろう。リアルで緻密な描写はこの作家の特徴である。伊佐夫の趣味である地層観察、仮の墓石にするため自然石に文字を彫りこむ行為、ヘラブナ釣りなど鮮明なイメージをもって疑似体験させてくれる。 舞台となった宇陀はまだ自然が濃い。地縁、血縁も自然と緒がつながっていることで血が通う。『土の記』という題名は、伊佐夫が米作をはじめとして自然と深くかかわって日常を送ることとともに、この地域が自然とのつながりをまだ保っていることを表している。土の匂いが魚や虫や動物、植物と変わらぬ生命の手ごたえを人間に与えてくれるのだ。 小説は人の無意識と意識、行為、人間関係、出来事、自然を切れ目なくつないでいく。たゆたいうねり流れる文体には力強いリズムがある。2011年の東北大震災を中にはさみ、結末はそれとの関わりを思わせる。だが、それさえも地上の繰り返される出来事の一つとして生きとし生けるものを見つめる眼差しが確かにある。
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さすが高村薫
ちょうど、アマゾン映画でレデイ・ジョーカー(テレビ版・上川隆也)を見たのでKindleをサーチしたら、高村はKindle本は出していないが、11/25に新作出していたので購入。「新リア王」風の地方旧家@奈良県の話。空海で取材したから奈良に鑑が出来たのだろうな。地味なお話だが、例によって文章は味わい深い。小ネタについてはは奈良女子大卒業中瀬ゆかり親方が裏にいる感じ。棚田でのコメ作りのトリビアとか、用水路から逃げてきたナマズの花子とか、預かってそのままいついたトイプードルモモとか、軽トラの故障とか、大した話でないのだけれど、目の前に杉林とか茶畑が見えるような描写がすごい。この映像的な文章は日本一の芸だ。奈良県大宇陀の漆河原集落の旧家、上谷家は代々男に恵まれず、生まれる女は皆美形。今の当主73歳の伊佐夫も立川出身のシャープのエンジニアで婿。家付き娘昭代がトラックに轢かれて16年間植物人間で死んだ女房、その妹で宮奥の倉木家に嫁いだ久代は伊佐夫を好きだった。実家に帰ってきていちいち世話する。上谷の女は皆婿に飽き足らずに外で男を作る。昭代もそうであったとほのめかされる。娘は高校生でTOEFL500点という優秀さで慶応の経済からコロンビア卒業してコンサルタントになり、またNYへいって、獣医のアイリッシュ系と再婚。孫の彬子はテニス好き。伊佐夫の趣味の断層サンプル、稲作の詳細とか、土の問題のトリビアが延々と。東日本大震災での話あってしばらくして、推理小説みたいに終わる。良くできている小説、さすが高村さん。
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高村作品の中では最高傑作
「理科の実験のような」と揶揄されるほど正確に、もと都会の大企業の技術者であった主人公が農作業に打ち込んでいるさまを縦軸に、ゆっくりと衰亡していく山里、それぞれ危うさを抱える村人やニューヨークに暮す娘と孫、そして豊かに自然の移ろいが、ぞくぞくするような表現で活写されている。そして読み進めていくうちに浮かび上がってくることが、主人公伊佐夫の亡くなった妻昭代への度を越えた傾倒ともいえる愛である。それがゆえに昭代が間男に走ってもそれを咎められず、そんな伊佐夫に苦しんだ昭代は自殺を試みて事故となり16年もの寝たきりとなってしまう。一方伊佐夫は嬉々として16年間も介護をし昭代を亡くなった後も、始終元気な時の妻の白足袋をはいた脚やコメ作りを指示する声を思い出している。物語は伊佐夫の健忘症が進行していく不穏さのなかで、やもめである昭代の妹久代との同居が始まる恋愛未満の関係が進行していくが、唐突な予想外のカタストロフィーによって終わる。これはある意味、ハッピーエンドとすら思えるように、本書は生と死は自然の営みの中で連続していることを、徹底したリアリズムの手法で魅せてくれたように思う。
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高村薫ならではの徹底したリアリズムと意識下まで抉り出す人間観察で描く過疎高齢化山村の諸相
司馬遼太郎なき現在に於いて「この国のかたち」を語ることのできる稀有な存在にして私が最も尊敬の念を抱いている日本人作家高村薫女史待望の新刊である。題名は「土の記」、2013年から「新潮」に連載されていることは知っていたが、必ず加筆修正を入れる女史のこと、「土」の中で春を待つ虫けらのように単行本が出るのをじっと待ち続けていた。 異界のような限界集落を描いた女史にしては珍しい喜劇短編集「四人組がいた。」を肩慣らしとし、現在の過疎高齢化の進む山間農村を諸相とそこに住む一人の老人のイドの奥底までを抉り出し徹底的に描き尽くしたのがこの「土の記」だと思っていただければいい。 高村薫女史の小説の特徴とされる執拗なまでに徹底した写実は凡百のリアリズムをはるかに凌駕する。普通の写実主義小説がハイビジョンレベルだとすれば、女史の描写は8Kレベル。 舞台は奈良県宇陀市の「漆河原」となっている。ヤマトタケル伝説に出てくる地名で実在はしないが、それが変化した「嬉河原」という地名は実在する。宇陀市の中心地榛原(はいばら)から山また山を分け入った山間集落である。 6月のある未明、その漆河原の農家の一軒家で、ある年老いた男が「ぼとぼと、ばたばた」という激しい雨が屋根瓦を叩く音で目覚めるところから話は始まる。寝惚けているのか、本当に惚けているのか、半年前に死んだはずの妻のおむつを替えねばと思ったり、今日の大雨でせねばならなくなりそうな作業を考えてみたり、東京の大学時代に研究しその後趣味となった土壌のことに思いを馳せたり、男の思念は混乱に近いほど目まぐるしくあちらからこちらへと入れ替わっていく。 息つく暇もなく雨がやみ夜が明けてからの男の農作業が描かれる。そして死んだ妻の記憶が途切れ途切れに挟まれつつ、ストーリーはGoogle Mapがズームアウトするように漆河原周辺、宇陀市、隣接する桜井市、橿原市、男が東京から引っ越して就職し定年まで勤め上げた、今は台湾企業の傘下に落ちたシャープの天理、葛城、娘が通学していた奈良市、孫娘を預けられてテニススクールに通わせる学園前と広がり、更には枯れ果てた兄が他界した東京、娘が引っ越したブルックリンの月3000ドルのアパートまで、自在に広がっていく。 もちろんたびたびスームインされ微に入り細を穿って描かれるのは宇陀市と奈良盆地であり、そのあたりが出身地の私としては、経済商業状況、公共交通機関や鉄道、私の出身高校の名前まで出てくる奈良県内の高校のヒエラルキー、病院事情、介護施設状況までの徹底した取材・考証の正確さ・深さに感嘆するしかなかった。 一方で最近の高村作品のファン離れの原因となっているのが、そのリアリズムや人間の心理、哲学、宗教への徹底した掘り下げに固執するあまりのストーリー展開の遅さと分かりにくさ。 今回も焦らしに焦らしながら、妻が植物状態となった原因である交通事故、娘との不仲の真相・深層が小出しに小出しに、農業の多忙さや田舎ならではの隠微で濃厚な人間関係の煩雑さを交えながら語られる。 その展開の遅さ、特に面白くもないストーリーは賛否の分かれるところだろうが、もし主人公の男の徐々に進む認知症を前提として語られているのであればさすが高村薫としか言いようがないのだが、正解か否かは下巻の楽しみとしておこう。 とにもかくにも6月田植えから村総出の稲刈りまでの稲作を農業高校の教科書並みの詳細な記述を平然とやってのけつつ、ユーモラスな鯰騒動、ほんのりと明るい束の間の夏の孫娘の帰省模様などを挟んで、義弟が病死し、近くの認知症の祖父母しかいない貧乏農家の娘が双子を産むところまでで上巻は終わる。下巻も延々とこの調子が続くのか、それとも劇的な事件が起こるのか、楽しみに読むことにしよう。
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今までの高村さんの作品と違いますね
私はどちらかといえば高村さんの作品が気に入っています。2度読み返してみました。しかし今回は全く以前の切れ味が感じられませんでした。その理由は同じことの繰り返しらしき状況があまりにも多くて、うんざりしました。まぁ作者の老成といえばそれまでですが、実は私自身も年を取って自分にうんざりしているのです。あまりにも似ているのでうんざりしたのでしょう。力作にはちがいありませんよ。
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