作品情報
奇跡を望む心が、災いの予感とともに青い炎を灯す。
新潮社刊の短編集。出版社公式ページで受賞、ページ数、ISBN を確認したため、初刊単行本の識別子を採用した。
レビュー要約
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現実の事件や記憶を物語へ変えていく力が評価されている。短編ごとに濃い味わいがあり、虚実の境目を楽しむ読者に向く。
書籍情報
- 出版社
- 新潮社
- 発売日
- 2005-01-26
- ページ数
- 205ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784104563029
- ISBN-10
- 4104563021
- 価格
- 1540 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/文芸作品/日本文学
第31回(2005年) 川端康成文学賞受賞
レビュー
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このお話はウソのようだけれど,実はホントにあった話なのです
本書は辻原登さんの短編集です.私は書名の短編「枯葉の中の青い炎」に注目しました.これは大人のための童話です.ドキュメンタリーな手法で描き尽くした,大人のための,悲劇に終わる童話です.おかしなことを言うようですが,訳があります.坂口安吾は,小説は文章が沈み込んで,物語が表面に浮き出てくるようでないといけないと言いました.この短編はその見本のようなものです.私たちが子供の頃読んだ童話もそうでした.文章のテクニックが目立たないよう意識的にドキュメントの形に辻原さんは仕立て上げたのです.結果,ストーリーの奇想天外が浮き立っています.事実と奇想の境界がぼやけています.読者はウソだと思いながら,いや,丸っきりウソじゃないかも,などと思ったりして,次第,次第に著者の思うつぼにはまります.私たちは著者の,名文を意識させない名案内でヴィクトル・コンスタノウィッチ・スタルヒン,通称スタさんの偉業とその生涯を知ります.辻原登さんはきっとこの投手が好きだったのです.枯葉の中の青い炎はスタさんに300勝投手の栄誉を与えたばかりでなく2年後の不慮の死をももたらしました.私の知らなかったことです.ウソだと思ったら本書をお読み下さい. 辻原さんはある日の新聞で天皇の南国訪問中止を知り,僅か30秒ほどでストーリー全体が浮かんだそうです.凄いですね.まるでモーツァルトです.モーツァルトの作曲は譜面に向かって呻吟するのでなく,突然,絵を見るように曲全体が見えると言いました.後はそれをいつも頭の中で鳴らして,肉づけします.それが彼の作曲法.譜面に書くのは脳内の曲の単純なコピーですから,遊びながらでもできることでした.「枯葉の中の青い炎」もそのようにしてできたのかも知れません.天才の閃きがなせる技です.
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サスペンス物を期待する方は 最初の2作でやめておいたほうがよいかも
推理ものやサスペンス小説を検索していた際 この本を見つけて購入 最初の2作 「ちょっと歪んだわたしのブローチ」「水いらず」は 流れもよく なかなか楽しめたので この作者のほかの作品も注文をと検索していたところ そのあと読み始めた3作目から最後の作品まで 推理ものやサスペンス小説 とはまったく 異なる作品が入っており 編集者が 間違えたのか それとも こういうのがこの作家の作風かはわからないが、 先の2作がよかっただけのもったいない気がする。 そもそも推理もののカテゴリーに入れるのはむつかしいのではないか?? 先の2作と同じようなタッチの作品を5つ並べてくれたら 4つ星が5つを評価してもよかったが、こうもタッチの異なる また 推理フアンにはまったく楽しめないような内容をそのあと3つ続けられては、我慢して読むのは 苦悩以外の何物でもなかった。 同じような推理小説やスリラー興味が読まれる読者は最初の2作でやめておいたほうがよいかも・・・
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6編の短編集
過去の事件・事実あるいは過去の文芸作品を種に、作者はマジシャンの手つきで枝葉を育み、 怪しい蔦を這わせ、物語世界を現出させていきます。 コドモには分からない読書の悦楽。
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第31回川端康成文学賞受賞
「ちょっと歪んだわたしのブローチ」 時間の経過が面白い作品。そのせいか読む方に、もどさかしさに似た何かを与える。私はどうにもそわそわして、何度も本を置いてしまった。そしてぼんやりと色々なことに思いを馳せる。ある程度の時間を置いた後、本に眼を戻すと物語の中でもだいぶ時間が進行している。現実の時間の経過も愉しい、一作。 「水いらず」 脳で匂いを司る部位は、原始的なより深い場所に位置するという。つまり、それだけ本能と直結しているわけで、匂いからは逃げられない――というコンセプトは医学的にも立証されうるのかもしれない。 内容は恐らくパトリック・ジュースキント『香水―ある人殺しの物語』が元と思われる。海外文学は面白くても、妙にデリカシーが欠けていたり、日本の生活とまるで繋がっていないのが欠点だが、日本向けに一から書き直せばこうなるだろうか。 「日付のある物語」 文芸誌で読んだ記憶が無く、かつ文章も内容も最近の傾向と違うな、と思ったら97年一月の作。 これは歴史小説の手法。実際にあった事件を独自の解釈と構図で描く筆致の切れ味は妖刀の如く鮮やかである。個人的ではない事実を元に小説を書くことは一見簡単なようで意外と難しく、相当な訓練を積まなければ出来ることではない。 「ザーサイの甕」 ラスト・シーンの色彩が美しい。金魚を扱った小説は世界でも稀だ。同じく『遊動亭円木』も数少ない金魚小説である。そしてこの作品と密接に拘わっている。これでもしハマトウに興味をお持ちになったら、是非一度同作者の『だれのものでもない悲しみ』も読んでみて欲しい。 他、「野球王」と表題作「枯葉の中の青い炎」があるが、どの作品も読み入ると現実と空想の区別がつかなくなってくる。むしろ本の中の方が現実ではないか、と思わせる強さがある。それもこれも読者を引き込むエレガントな文体あってこそである。
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「異邦人たちの天覧試合」を思い出す
理解しがたいシチュエーションや、現実とファンタジーがないまぜになったような展開の全6編の短編集。 もっとも、本の題にもなっている「枯葉の中の青い炎」は現実とファンタジーがないまぜになったような展開に全く違和感がない。倒置的な手法も見事にはまっていて、スタルヒンの伝記を既読であったとしても感動すら覚える。 ミクロネシア生まれのススム・アイザワも登場しているので、(作風は全く異なるが)山際淳司の「異邦人たちの天覧試合」を思い出した(こちらも名作)。
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〈物語作者〉の正体――〈ツシタラ〉なのか〈辻原〉なのか?
収録された六篇のうち、三篇を紹介する。 一篇目は、「日付のある物語」。 (前略)贋王の破滅はじつは最初に母太后が彼を息子と認めたその瞬間に定まった、彼の変身の力は、もはや誰の息子でもないという点にあったのだ、そして、これが結局、すべての男は家を出る、ということの意味なのだ、と語る。たしかそんなふうだった。 〈三菱銀行猟銃強盗・人質事件のさなか〉、〈少年時代としかいいようのない漠然とした昔に〉知った、ある一つの物語が〈僕〉の中に甦る。事件を起こした犯人と、物語中の贋王とが、書物と現実とが、〈僕〉の中で重なり合う。ボルヘスを連想させる、どこか、幻想的な作品だ。 二篇目は、「ザーサイの甕」。町田康氏に、 京都の町並みを福助人形 人形だけがもぞもぞ歩いていく 不気味な笑いを浮かべて 福助人形がもぞもぞ歩いていく という歌詩がある(「福助人形」)。「ザーサイの甕」は、この世界に近い、と言えるかもしれない。面白いのである。どう面白いのか、それは、手にとってご確認のほどを。 三篇目は表題作「枯葉の中の青い炎」。 〈物語作者〉には、〈ツシタラ〉とルビが振られているが、この〈ツシタラ〉という言葉は、繰り返し登場するたびに、〈辻原〉と聞き違えるようになってしまう。これは、私の気のせいだろうか?
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辻原作品、初体験です。初心者の感想です。
本書の単行本の刊行が、05年1月末。そしておそらく05年5月15日の朝、私はたまたまNHKのBSで『週刊ブックレビュー』にチャンネルを合わせていて、女優の富士眞奈美がこの短編集を絶賛しているのを目にした。それ以来、いつか読もう、いつか読もうと気になってはいたのだが、先延ばしにしているうちに年月が経ち、文庫本も刊行された。安価でもあるし、先ごろ購入して読んだ。 全体としては、解説の鴻巣友季子も触れているように、物語の多層構造が印象的。「ザーサイの甕」の冒頭に江南園林という造園手法の説明があり、その特徴として挙げられる「園中の園」「正中求変」は、著者自身の方法意識でもあるのだろう。 その他、私が面白いと思ったのは、例えば「水いらず」の語りの構造。三人称を用いているが、最初のうちは主人公の秋山しか出てこないので、ほとんど一人称小説のように読み進めてしまう。しかし途中に転換点がある。人称トリック、とまで言うと大袈裟だが、うまく引っ掛けられた。 「日付のある物語」の冒頭、語り手は79年1月に現実に起こった三菱銀行猟銃強盗・人質事件の時点で30歳だったと述べるが、作者自身は45年12月生らしいから、33歳。この微妙なズレは70年安保の時点で大学に在学して学生運動に関わった、狭義の団塊世代という設定上の必要からかもしれない。しかしこの、ほとんど重なりながらも微妙にズレている、というところが怪しい。作品最後の永田洋子、坂口弘、植垣康博といった人々への言及、そして「この物語を亡き妻と二人の息子に捧げる」という献辞にも、その微妙な怪しさが忍び込む。 表題作では、中島敦とスタルヒンの、縁とも言えぬ縁を知って、トクした気持ちになった。
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フィクションの新しいフォルム
6編からなる短編小説集。 最後の2編は、野球にまつわる実話を基にして書かれた作品。共に、和歌山出身の著者がかつて地元で、多少なりとも接点を持った二人の野球選手が主人公で、著者が小説の冒頭に記す二人に関する話は、著者のエッセイ『1945年に生まれて』(H17.8.18読売新聞夕刊)によれば全くの実話だ。 6編とも、フィクションの新しいフォルムを提示する。 実話を基にしたフィクションと言えば、従来は小説家が実在の事件を元に、それを換骨奪胎して新しいフィクションの世界を構築するという手法をとるのが普通であろう。しかし、辻原氏は敢えて、現実の事件をそのまま利用して、そこにフィクショナルな人物を設定したり(「日付のある物語」)、フィクショナルな事件を付与したり(「枯葉の中の青い炎」)、異なる事実をフィクショナルに結び合わせたりして(「野球王」)新たな、フィクションの世界を構築する。それは、小説家が事実から膨らませた想像をそのままリアルにわれわれ読者に提供することによって、生きのいい創作現場の臨場感を味わわせてくれるかのようであり、一方小説家がそれを語ることによって、事実さえも物語としてのフィクショナな構築物として造り直すことが出来ると、敢えて挑戦に挑んでいるようにすら思えてくる。 そう考えれば、「ちょっと歪んだわたしのブローチ」も「ザーサイの甕」も地名や電車などがやけに具体的でリアルであるにも関わらず、そこで繰り広げられる事件の顛末たるや極めて荒唐無稽である。著者は、敢えてこういった制約の中、事実とフィクションを両立させると言う難事に挑戦しているように思われる。 いずれにしても、そんなコーシャクを別にして素直に、物語の愉しさに溢れた辻原登氏の名人芸を堪能されたい(H24.9.16)。
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