日本の文学賞

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小林秀雄 美しい花

蓮如賞

小林秀雄 美しい花

若松英輔

若松英輔が小林秀雄の全仕事を、美をめぐる思索の歩みとして読み直す長編評論。ベルクソン、ランボー、モーツァルト、本居宣長らとの出会いを通して、批評家の言葉がどのように実在へ向かったかをたどる。

小林秀雄文芸評論思想評伝

作品情報

小林秀雄の言葉が追い求めた「美しい花」の実在へ分け入る。

文藝春秋から刊行された評論。小林秀雄が生涯考え続けた美の問題を軸に、文学、音楽、哲学、信仰へのまなざしを結び直す。文春文庫版と電子版も確認できる。

レビュー要約

  • 小林秀雄の作品を単なる解説対象にせず、著者自身がその思索の現場に降りていくような読みが評価されている。文体の濃さを難しく感じる読者もいるが、批評の熱量が強い。

書籍情報

出版社
文藝春秋
発売日
2017-12-08
ページ数
621ページ
言語
日本語
サイズ
13.6 x 3.2 x 19.5 cm
ISBN-13
9784163906874
ISBN-10
4163906878
価格
676 JPY
カテゴリ
本/文学・評論/評論・文学研究/日本文学研究

美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。 色、音、光、香り、言葉、あるいは不可視な感情の痕跡――。 芸術に触れ、真につき動かされたときに遭遇する何かこそが、 真の美であり、実在なのだと語った小林秀雄。 ベルクソン、ランボー、モーツァルト、ドストエフスキー、本居宣長らとの出会を通じ、小林が生涯にわたって考え続けたのが美をめぐる問題だった。 不世出の批評家が語りながら考え、書きながら生きた軌跡を、 その現場に降り立つように蘇らせる試みにみちた長編評論。

レビュー

  • 同じ時間を生きる中で見つけた実在を語れる唯一無二の存在。

    生存している美しい批評家。 悠久で小林秀雄さん、池田晶子さん、彼の師たちの笑いが響く。 若松先生が生きてきた歴史が創り出す和。 同じ時間を生きる中で見つけた実在を語れる唯一無二の存在。 在りがたい。

  • 批評は詩であった。最高のクリスマスプレゼント

    この本は散文で書かれているが、 まちがいなく、詩です。 小林秀雄が ランボー、ドストエフスキーらを 通して見て記したもの、 若松英輔が 小林秀雄を通して見て ここに記しているものは、 目に見えない叡智、 超越者、 世界の根源、 実在そのものです。 詩人たちが、 詩がつづっているもの そのものです。 若松英輔とともに この旅を歩んできた者も 今回から加わる人たちも 批評とは論理の構築ではなく 美をかいま見た者たちによる 詩であることを 六百頁、 享受させてくれることでしょう。 クリスマスは 天が地に宿る日 最高のプレゼントです。

  • おもしろく読みました

    厚い本にもかかわらず、短期間で読了しました。内容が濃く、しかも読みやすいです。

  • 書き急いだのが惜しまれる!

    著者の切り口はこれまでになく斬新で、共鳴できる視点も少なくない。しかし、「小林秀雄は月の人である」という浮ついた帯はいただけません。ましてや彼の批評の核心、すなわちその魅力を対象の「生き直し」であるとする視点・解釈には疑問が残る。作品や伝記を辿って生き直したとしても、作家と同じ表現は創造できないし、読者に小林自身が感じた感動を呼び起こすことはできないのではないだろうか。 小林が自己の表現、すなわち文体に「フーガ」を選び、それしかないと言った理由をここで改めて考えてみるべきではないだろうか。彼が批評の中心に据えたのは「感動の伝達」、自分が出会いによって感じた感動をそのまま読者に伝え、味あわせるにはどんな表現・文体を用いたらいいか、ではないだろうか。感動の核心というものは言葉にはならない、だから自分が感じた感動それ自体を読者に伝えるためにはどうしたらいいかと苦心して生み出したのが彼の文体ではないかと私は考える。 なお、特に本書の後半部分は書き急ぎが目立ちます。連載締め切りに追われたのかもしれませんが、その点がとても残念です。

  • 青春時代の知的興奮の再現

    昭和30年代 わたしの青春時代 小林秀雄に出会いかずかずの知的興奮と 未来への動機付けの源を発見しました。 そのとき出会った 小林秀雄の「ランボー」に動機付けられ 第二外国語にフランス語を選び 卒業後 商社に入り 十年近くフランスに駐在したことによって 息子達を含めて 我がファミリィは ヨーロッパ型人生を創造してまいりました。 この書物により より鮮明に 青春時代に 再突入しております。

  • 群盲 象を評す

    久しぶりに若松の本を読んだ。実に面白かった。本書で読むべきは2点である。即ち「若松が 語る小林秀雄」であり、「小林秀雄を語る若松」である。 前者について。 「群盲 象を評す」という言葉がある。ウィキペディアに因ると「数人の盲人が象の一部だけを 触れて感想を語り合う」というインド発祥の寓話だ。 小林秀雄が、その生涯に取りあげた「素材」は極めて多彩だ。時にランボーであり、ドストエフスキーであり、絵画であり、音楽であり、日本の古典である。それだけの様々な素材を歩き回った 小林を気まぐれな飽きっぽい散歩者と言うことは本来出来そうなものだが、そういう人は少ない 気がする。 本書で若松は小林が生涯かけて探求したものは、時には「歴史」であり、「魂」であり、 「美」であり、「花」であるという。それは象を撫でるにあたって、「鼻」なのか、「足」なのか「尻」 なのか「尻尾」であるのかということと同じだ。つまり、小林は象の触り方を色々と一生かけて 試してきただけであり、それを部位によって呼び名を変えているだけのことだ。 「象を触っている」という点では同じことなのである。 そう考えると、小林が使ってきた素材の多様性も腑に落ちる。小林が盲人であったかどうか は僕には分からない。とてもそうとは思えない。但し小林は自分が盲人であると思っていた ような気はする。盲人であればこそ、色々な部位を自分で撫でるしかない。音楽や文学や骨董や絵画は、「象」の部位の名前でしかない。彼が触っていたものはどれも正しく「象」なのだ。 二点目。「小林秀雄を語る若松」とは何か。 若松は死者に囲まれている。彼が語る死者とは例えば池田晶子であり、小林秀雄であり、 若くして亡くした彼自身の妻である。 若松の最大の主張は「死者との会話」である。若松にとって死者とは生きているものである。 その主張は、彼のいくつかの著作の通奏低音と言ってよい。 彼にとっての、例えば「哲学者」とは、自ら何かを創造するものではなく、あくまで「何か」 から伝達される「言葉」の通り道である。おそらくは、その視点は池田から学んだと僕は 思う。池田の夭折は僕にとっても残念ではあるが、いまなお池田の著作から「通り道」 の香しさは漂ってきている。 「預言者」という言葉は、「何か」から言葉を預かった者であるという意味だ。「何か」とは 神と呼んでも良いし、「霊」と呼んでも良いし、「死者」と呼んでも良い。 おそらく若松は死者から言葉を預かった者として本書を書いている。そう考えると本書の 成り立ちも腑に落ちやすい。小林はかような「生きている死者」の一人に過ぎない。若松は おそらくこれからも死者の言葉を「通り道」として僕らに提示若しくは翻訳してくれるに違いない。 そういえば本書において、翻訳の創造的な意味を掘り起こしているのも若松なのだ。 大変勉強になった。

  • 「小林秀雄」に親しみのなかった人々にこそ、読んで欲しい本

    小林秀雄の『考えるヒント』を読んだ後に、この若松英輔氏の『小林秀雄 美しい花』を読み始めた。そして、並行して読んでいた池田晶子の著書をあらかた読んだ後に、小林秀雄の全集を読み始める。そうすると全集を読みながら、この本を読むことになってしまった。池田晶子の本を知ったのは若松氏の本がきっかけだった。若松氏の池田晶子論『不滅の哲学 池田晶子』も読んだ。若松氏の本を読んでいる人なら、なんとなくこういう流れになってしまったことも頷いてくれるのではないだろうか。 全集を読んでいる途中、評論は後でいいかなと思ったりもしたけど、でも、同時に読みたくなってしまう。小林秀雄という人、むしろ、「もの」と呼んだ方がいいかもしれないが、人を「もの」と言うと怒られるかもしれないが、もう彼自身がひとつの芸術作品と言ってもいいのかもしれない。創作者でありながら、自らをも創作してしまった人、そんな印象がある。そんな作品であるような人をわかろうとすることは正直とても難解だ。最初はよくわからなかった言葉も読み続けていればだんだんとわかるようになってくる。それでも、わかるということは簡単ではない。近づこうとすればするほどなぜか遠ざかってしまうような存在。人として見たらいいのか、作品として見たらいいのか、どうすれば彼に近づけるのか、どうしたら彼のような眼を持つことができるのか。そんな眼を持つことができなくても、一眼でも彼が見た世界を見ることはできないのか。そんなある種の願いを込めながら僕は全集を読んでいる。 そんな時に、若松氏の本はそっと手を差し伸べてくれる。決して若松氏の本が簡単なわけではない。わからないところもたくさんある。でも、傍らにいてくれるだけで心強く、そして、小林秀雄の見ているものを垣間見させてくれるような気がする。そして、そんな孤独な作業をしているのが一人ではないこと、そして、同じように感じるものがいる、というだけでも、この道を進んでよかったと思える。まだ全集は途中だが、それでも、もう終わりに近づいて来ている。全集を読み終わった時に感じることをぜひまた若松氏の本を通して、たしかめ合うことができたら嬉しいと思った。たしかめるということは、正しい正しくないを論じることではなく、感じたことを共有するというのに近いのかもしれない。お互い感じた小林秀雄が一つになった時どんな風に見えるのか。その小林秀雄はどう僕たちに語りかけてくれるのか。そんなことができることを願っている。 そして、本の最後に、 小林は今も読まれている。しかし、それはこれまで読んできた人によって読まれるのかもしれない。この本を、これまであまり小林に親しみのなかった人々の手にも届けという祈りを籠めて、世に送り出したい。 と書かれているように、まさにそれが自分であることに、氏へは感謝してもしたりない。おそらく、氏がいなければ、僕は小林秀雄も、そして、池田晶子も読むことがなかったかもしれないのだから。 届けたいという祈りはどこから来るものなのだろうか。僕も誰かに何かを届けたいと思うことがある。でも、本当に届くかどうかなんてことはわからない。それでも、届くことを願って、祈って、大海原のような世の中へと送りだす。でも、もしかしたら、人は届くことを識っているから、あるいは、受け取り側がいるから、届けたいと思う人が現れるのではないかとも思うのである。あらゆるものは誰かのために作られている。それであるならば、本当はその誰かというのが先にあると考えることに何かおかしなことはあるだろうか。 この文章もまた誰かに届くことを願って書いている。でも、誰に届くかわからない。しかし、きっと届くことを信じて。 この本の著者に、そして、関わるすべての人に愛と感謝を込めて。

  • まだ十分伝わらなかった独特な作品

    批評家は最初理論的な何かを書くがやがて、みんな評伝を書くようになるのだが、本書は普通の評伝とはだいぶ違う。敢えて言えば、著者が小林秀雄を熟読吟味するために、小林秀雄の動向を克明に調べ上げていくという感じだ。小林秀雄のほかの文人たちとの付き合いを、対話、書簡、作品の中に出てくる片言さえにも拘るように、そこに見られる思いを著者自身が納得いくまで付き合っていく、と言う感じだ。 だから最初は凄い実証家だな、と思ってしまったが、それは誤解で、自分の好きな対象、気になる対象を追い求めて行った結果が、この作品なんだ、と少しわかったような気もした。その執着の度合いが尋常ではなく、そこがひとつの特色でもあるけど、柔らかくあたたかい心の息遣いは、けっして偏執的なものは感じさせない。 だけどなんでここまで拘るのか、何に拘っているのかまでは良くわからなかったので、まだまだ読みが足りない。 江藤淳の『漱石とその時代』も同じく徹底的な評伝だが、あれはもっと突き放した、歴史的論述にもなっているから、却って好奇心で付き合えたが、この本は、そういう楽しみ方はできない。著者のハートに触れることが出来ないと理解はかなり難しい。 兎に角、とても特異な労作だしもう少し読み直してみる。

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