作品情報
『法華経: 梵漢和対照・現代語訳』は、植木雅俊による毎日出版文化賞の受賞作。
『法華経: 梵漢和対照・現代語訳』は、植木雅俊による毎日出版文化賞の受賞作。
書籍情報
- 出版社
- 岩波書店
- 発売日
- 2008-03-11
- ページ数
- 658ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784000247634
- ISBN-10
- 4000247638
- 価格
- 6160 JPY
- カテゴリ
- 本/人文・思想/宗教/仏教/仏教入門
19世紀に発見された『法華経』サンスクリット原典写本のヨーロッパでの初の出版(ケルン・南条本)から100年。本書は、複数のサンスクリット・テキストに綿密な校訂を施し、原典テキストを確定させるとともに、深い仏教理解に基づいて詳細な註解を付した画期的達成である。8年がかりの、一点一画をも疎かにしない原典に忠実な訳業により、曖昧さを残さない、読みやすいこなれた現代語訳がここに完成した。テキスト相互の対照を可能とすべく、サンスクリット原典、鳩摩羅什による漢訳テキスト(書き下し)も併記した。
レビュー
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新品で早く届けて頂きました
難解な法華経が単語も文章もよく分ります
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人間とは
奥深いものだなと改めて思いました。 ただ理解が追いつくかは別にして、 この本に出会えたことは宝物です。
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注訳は欠かせない
この書籍の注訳は欠かせない! 本文と注訳を比べれば、注訳が本文以上に大事な事が書かれている! もう、他の法華経を読んでも物足りなさが分かるだろう! この書籍は、その物足りなさを補ってくれる国宝級の書籍だ! 英文訳があれば、外国人の方も尚嬉しい!
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誰得?
訳自体は良いが、左ページの3分の2ぐらいが梵語。その下の小さい文字の和訳が読みづらい。 しかも梵語がローマ字表記。梵語が読める人なら、梵字で良いはず。梵語が読めない人なら、ローマ字にしたって読めない。ということは、一体誰のためなんだろう? 梵語を抜いて一冊にしてほしかったです。
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翻訳者に敬意を表したいです。
私は松岡正剛さんの批評を見て購入を決意しました。1冊が5000円を超える高額な本のため、躊躇いたしましたが、私淑する法華経の勉強のために購入しました。 まず、翻訳者の真摯な向学心に敬意を表したいと思います。 今まではレグルス文庫版と鳩摩羅什訳の漢文・書き下し文を読んできました。梵漢和対照となっていますので、訳文が漢訳とどのように対応しているのかが良く解りました。私はサンスクリット語が読めませんので、そこまでの恩恵に浴すことはできませんが、翻訳の原典と対照してみてほしいという、翻訳者の謙虚な姿勢にも心打たれました。価格以上の価値のある本だと思います。 注釈も品(章)ごとに付設されていますので、翻訳に至った経緯も読みとれます。学術的にも価値が高いのではないでしょうか。 鳩摩羅什の伝説(舌が焼けなかったことをもって翻訳の正しさとするという伝説)を信じていらっしゃるかたもおいでるでしょうが、漢訳はそうであっても現代日本語訳となると、少々事情も異なりますし漢訳からのみの理解と、また一段違った理解が深まるはずですのでぜひとも御一読されることをお薦めいたします。
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漢訳経典が理解できるようになる。
例えば三藐三菩提という言葉は、何十時間かけて漢和辞典や仏教用事典を調べても、今一つ理解できない。然るに原典のsamyak sambodhiの2単語を辞書で引けばたちどころに理解できます。翻訳を読むと、常に理解できない箇所に突き当たり、その都度原書ではどんな表現になっているのか気になるところですが、この本はそんな疑問に答えてくれます。現代は価値の多様化の時代だから、各出版社が似たり寄ったりの翻訳を出版するのでなく、原文を掲載する会社が現れるのも、報道の使命と言いたいです。中国文学に限定せずに、ゲーテとかユゴーとかの原文付きの出版を望むところです。 この本は単語の意味と順番にこだわって、できる限りの逐語訳をしている点が、サンスクリット学習者の助けになると思います。この法華経の上下ともう一つの維摩経を解読しておけば、大学院合格程度の語学力は確保できると思います。 欲を言えば、独語訳とか仏語訳とかの対比が欲しかったのですが、一般読者向けで無くなってしまって、経営が成り立たなくなるので、減点にはしません。
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『法華経』は初期大乗運動ネットワークの精華
『法華経』の魅力はなんといっても、その総合性にあります。よく、『法華経』は空観を説く般若系の経典とも、極楽徃生を説く浄土系の経典とも無縁の、孤立した経典と言われますが、実際は、阿含経や他の大乗経典との密接な関係にあり、それを文学的な表現で巧みに表現しています。植木訳は、この仏教文化のネットワークに殆ど注目していません。 まず、阿含経との密接な関係を示す例を幾つか示します。 1 パーリ文の「梵天勧請」エピソードにおける「三止三請」等の「形式」がほとんどそのまま、「方便品」で用いられていることは、改めて指摘するまでのことはないでしょう(下田正弘「「梵天勧請」説話と『法華経』ブッダ観」)。 2 仏陀の光が「世界と世界の間にある暗黒の闇」を照らすエピソードは、阿含の『大本経』や律の『破僧事』に出てきます。そこでは、ブッダの入胎・誕生のとき、大地震が起こり、太陽や月によっても照らされない闇黒の世界が光明によって照らし出されます。そしてその暗闇の世界に住んでいる人々が、その光によって互いに他の人がいることを知る「他者の自覚」が伝えられられます。この「他者の自覚」は大乗経典の「おはこ」のように言われていますが、阿含経の中で、仏陀の誕生を告げる場面で最初に言及されていることは意味深いと思われます。なお、この闇黒の世界は仏教の宇宙観の中では「中間世界」とよばれています。宗教学者のクレツリの説明によれば、各「仏国土」は球体と考えられており、例えば3つの球体を接触させると間隙が生じますが、この間隙世界のことを指しています。ここは、普段、いかなる光も差し込むことはない、とされています。 大乗経典との関係はそれこそ数え切れないほどありますが、そのうちの幾つかを挙げておきます。 1 「方便品」にでてくる「五千比丘の会座からの退出」のエピソードですが、『迦葉品』『思益梵天所問経』『文殊師利巡行経』『善住意天子所問経』『宝筺経』などに出てくる、「五百比丘の退出」のエピソード群と密接な関係があります。これは、もともとは、提婆達多が「五法」を主張して五百人(人数についてはヴァリエーションがあります)の比丘を連れて行ってしまったとするいわゆる「破僧」のエピソードに端を発すると思われますが、いずれの場合も、シャーリプトラやマウドガリヤーヤナ、あるいはスブーティ、さらには文珠菩薩、思益梵天などが、時に神通力により、時に説法によって、なんとか引き戻そうとする努力がなされます。ところが、『法華経』では釈尊は、まったく放置なされる、というよりむしろ罵倒する形になっています。もちろん、かれらも一仏乗の教えにより「仏陀の実子」として仏乗の中に包摂されるのでしょうが、この「五千比丘の退出」は「五百比丘の退出」のエピソード群を踏まえたもののように思われます。 2 三乗については、『阿毘達磨大毘婆沙論』に「十二因縁の河」を渡る能力によって、声聞=兎、独覚=馬、如来=象という比喩が示されています。これは、パーリ仏典(『アングッタラニカーヤ(増支部経典)』)において、「三昧の池」を泳ぎ渡る能力を、兎・猫・象に分けて説明しているものを踏まえた表現と思われます。『法華経』では、「正法華経」が声聞=羊車、独覚=馬車、菩薩=象車、「妙法華」が声聞=羊車、独覚=鹿車、菩薩=牛車、梵文が声聞=鹿車、独覚=羊車、菩薩=牛車、としています。『法華経』の三乗の比喩も、上記の諸文献の比喩と全く無縁というわけではないでしょう。 3 『法華経』は、「譬喩品」において、自らを「第二転法輪」と位置づけていますが、『八千頌般若経』(『小品般若経』)あるいは『二万五千頌般若経』(『大品般若経』)にほぼ同じ表現がみられ、『法華経』はその所説を踏まえたものと思われます。 4 『法華経』の特徴の1つに、「意図にもとづくことば」と「方便」とが結びついていることがあります。『三昧王経』や『思益梵天所問経』でも、如来の「意図にもとづくことば」は説法(対機説法、あるいは了義・未了義)との関連から言及されますが、これが『法華経』においては、「如来の知見」たる「方便」と関連づけられるのです。 5 「従地涌出品」では、4人の菩薩が下方世界から出現するという「地湧の菩薩」の比喩がありますが、これも発想としては、阿含経以来のものだと思われます。たとえば、『増一阿含』『破僧事』『仏本行集経』では「地神」(「地天」、「大地之神」)が地から涌出してきます。大乗の『福蓋正行所集経』では如来が出現します。そして、『思益梵天所問経』では、『法華経』と同じく、4人の菩薩が下方世界から出現してきます。 6 「(自分の)尾に愛着するヤク」の比喩は、『大智度論』では「讃摩訶衍偈」に出てきます。この「偈」は三乗説に立脚しており、声聞乗・独覚乗・大乗を「驢馬・(駱)駝・象」の三乗に例えています。なお同じ『大智度論』には、この他に、「羊・馬・神通」「馬・象・龍」の三乗の比喩が見られます。 7 このほか「薬草喩品」の「雨の比喩」は『善勇猛般若経』などに見られます。同じ「薬草喩品」の梵文しかない箇所に見られる、「五姓各別説」を反映していると思われる「壺(器)」の比喩は、『宝篋経』などに見られます。 こうして見てみると、『法華経』はそれほど古くない可能性も出てきます。上に挙げた大乗経典は殆ど「三乗説」に立脚しています。思想史的に見れば、これら「三乗説」に対抗して、その「三乗」を意図にもとづく方便という如来の知見・慈悲の発揮として、三乗説を一乗説へと統合・包摂していく、融和的な思想運動の1つであったと考えられます。 『法華経』はいうまでもなく、仏性思想の先駆形と言っていいでしょう。これを否定する人はいないはずです。しかし、あくまで先駆形であって、ここに「仏性思想」そのものを読み取ることはアナクロニズムというものでしょう。『法華経』は「授記」を説く経典としても知られています。というより、授記を最もよく説く経典こそ『法華経』です。「授記思想」というものを認めるとすれば、原始仏典から大乗経典に至るまでの長いスパンで見ても、『法華経』はその頂点に立っているというべきです。もし、『法華経』の編纂者が、「仏性思想」を意識しているなら、「授記」をこれほど頻用することはなかったでしょう。なぜなら、すべての人に仏性があることが前提になれば、成仏の授記などまったく意味がないからです。現に、仏性思想が現れる頃から、授記は殆ど意味を失い、大乗経典から消えていきました。すべての人は「仏陀の実子」であるとするのは、『法華経』の重要なメッセージであり、『涅槃経』や『勝鬘経』はこれを引き継いだのでしょう。 『法華経』は、初期大乗経典(とくに般若系・文珠系)の強調する三乗を一乗に統合し、すべての人を「仏陀の実子」と見る思想運動の精華にほかなりません。その際の有力な思想的ツールが「方便」と「授記」です。この「すべては仏陀の実子」というメッセージが後の「仏性思想」に繋がっていくのです。しかし、後の「仏性説」を説く諸経典が『法華経』のメッセージを充分に継承・発展させているかというのは別問題です。むしろ、そうでないからこそ、『法華経』は、特に東アジアにおいて、圧倒的な支持を得てきたのです。
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この上ない便利でグーな索引に感謝 : 雪だるま
本書の勝れている点の一つとして、21頁にわたる詳細な索引がつけられていることを挙げなければなりません。岩波文庫版にしても、中央公論社版にしても、これまでのサンスクリット法華経の現代語訳には索引がついていませんでした。それを考えると研究者にとっても、一般読者にとっても、大変に便利で有り難いものとなっています。 その索引の項目を眺めていると、「ブラックホール」という語があって、「何で?」とわが目を疑いたくなりますが、第7章のその箇所を開いて納得。世界と世界の間にある暗黒の闇について、「これらの月と太陽でさえも、光明によってでさえも光明を生み出すことができないでいるし、色彩によってでさえも色彩を、輝きによってでさえも輝きを生み出すことができないでいるのだ」と描写され、まさにブラックホールの概念であることにびっくりします。こんな発想ができるのも、学生時代、物理学専攻であった植木氏ならではのことではないでしょうか。 植木氏は、過去の研究者たちの研鑽の成果を検証しつつ論を展開されていますが、その研究者たちの名前も索引に列挙されています。例えば、苅谷定彦氏の場合、索引を見ると、言及した頁数が二箇所挙げてあります。 梶山雄一氏の名前でも、索引に「上, 142」とあり、上巻の142頁を開くと、「五千人の比丘の退出」についての注釈に行き着きます。その注釈で、植木氏は、梶山雄一氏の名前を挙げて、「比丘の退出」といったことは、『法華経』以外にも『八千頌般若経』や『宝積経』迦葉品にも見られると言及し、大乗興起の初期に説法者である菩薩たちがその法を説いている時、従来の声聞、独覚の教えになじんだ人々が集会を蹴って立ち去る光景がしばしば起こったに違いないという見解を紹介しておられます。これは、大乗興起という「仏教の歴史、仏教が時代におかれていた環境」をきちんと読み取ったものです。釈尊在世中の「提婆達多の破僧(教団分裂)」にまで遡るものだと主張される人もいるようですが、それは、時代錯誤というものでしょう。 このほか、以下のことでも植木訳を通して納得することができました。 まず、鳩摩羅什が「仏知見」と訳したタターガタ・ジュニャーナ・ダルシャナを、岩波文庫で「如来の知の発揮」と訳していることについての植木氏の批判です。 英語のshowとexhibitから「発揮する」を正当化しようとしても、show(見せる)もexhibit(示す)も「何々を」「誰々に」の二つの目的語を取り、見せる相手が必要ですが、「発揮する」は「何々を」の一つの目的語しか取らず、見せる相手は必要ありません。従って、ダルシャナ(見ること、直感)を「発揮」と訳すのは無理があります。 また、子どもを亡くして「生き返らせてくれ」と訴える半狂乱のキサー・ゴータミーという女性をブッダが目覚めさせた話が初期仏典に出てまいります。そのエピソードを「知の発揮」の具体例として考える人もおられるようですが、それだったら「如来の知の発揮」は初期仏教で既に説かれていたことになり、何も法華経において「一大事因縁」としてものものしく説かれる必要などなくなってしまいます。ここは、一切衆生を成仏させることが仏の出現の最大目的であることを明かすところであり、植木訳のほうがはるかに納得できます。 また、法華経には「仏性」という言葉は用いられていません。けれども、如来蔵思想の研究で知られる高崎直道博士も「法華経の思想を突き進めれば、仏性の思想に至る」という趣旨のことを語っておられるように、その萌芽は内包されています。植木氏は、そこを汲んで注釈の中で「衆生にそなわる如来の知見」という言葉を使われたのでしょう。 「如来の知の発揮」と訳したのでは、「如来の知」が如来の側の問題に局限され、「如来の知見」の衆生における「開・示・悟・入」という、衆生の側のことがおろそかになります。それは、植木氏の指摘される通りです。 このほか、これまで、法華経は西北インドで成立したと主張されてまいりましたが、筆者にはその根拠がよく理解できませんでした。ところが、植木氏は、五つの状況証拠を挙げておられ、やっと納得することができました。その一つに、「ヤク」という牛に言及しておられます。ところが、「ヤクの尾」で作った虫を追い払うための払子(ほっす)がインドでも使用されていたので、西北インド成立の根拠にはならないと主張する人もいるようです。しかし、植木氏は「ヤクの尾」ではなく、「ヤクの尾に執着するヤクという生きた牛」を証拠としていることを読み落としてはなりません。「ヤクの尾」(正確には、「ヤクの尾の毛」)はインド各地に輸入されたでしょうが、生きたヤクを見たインド人はほとんどいなかったはずです。
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- 毎日出版文化賞 第62回(2008年) ・受賞