作品情報
総力戦のメディア空間から、公共性の危うさを読み解く。
岩波書店から刊行されたメディア史研究。NDL で紙書籍の ISBN とページ数を確認した。
レビュー要約
-
受賞作としての着想や題材の明確さが評価されている。流通情報が限られる作品では、選評や書誌情報を中心に確認できる。
書籍情報
- 出版社
- 岩波書店
- 発売日
- 2018-04-05
- ページ数
- 352ページ
- 言語
- 日本語
- サイズ
- 12.9 x 3 x 18.8 cm
- ISBN-13
- 9784000612609
- ISBN-10
- 4000612603
- 価格
- 2970 JPY
- カテゴリ
- 本/社会・政治/社会学/社会一般
理性的討議にもとづく合意という市民的公共性を建て前とする議会制民主主義のみが民主主義ではない。ナチスの街頭行進や集会、ラジオの聴取が可能にした一体感や国民投票は、大衆に政治的公共圏への参加の感覚を与え、19世紀とは異なる公共性を創出した。メディア史の視座から日独の戦中=戦後を比較し、現在の問題を照射する。
佐藤卓己(さとう たくみ) 1960年生まれ.京都大学大学院博士課程単位取得退学.国際日本文化研究センター助教授などを経て,現在,京都大学大学院教育学研究科教授.専攻はメディア史,大衆文化論.著書に『現代メディア史』(1998年,岩波書店),『『キング』の時代――国民大衆雑誌の公共性』(2002年,岩波書店,日本出版学会賞受賞,サントリー学芸賞受賞),『言論統制――情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(2004年,中公新書,吉田茂賞受賞),『輿論と世論――日本的民意の系譜学』(2008年,新潮選書),『『図書』のメディア史 ―「教養主義」の広報戦略』(2015年,岩波書店),『青年の主張――まなざしのメディア史』(2017年,河出ブックス)など.
レビュー
-
ファシスト的公共性の起源を探る!
著者はメディア論、メディア史を専門とする歴史学者である。本書は学界で高く評価された。ナチズム体制、日本の軍国主義体制にメディア史視点からアプローチしたからである。本書は21世紀の新しい歴史学を告げる書物である。メディアとは、20世紀前半においては、ラジオ、新聞、雑誌、広告、宣伝、映写機など多用な媒体を含む。ナチズム体制をメディア史から捉える場合、ラジオの重要性を著者は指摘する。学問・教養を欠いた無産市民に為政者の肉声をアピールするラジオこそ、最も有効な宣伝効果を期待出来るからである。ナチズム体制は、ハーバーマスが指摘した市民的(ブルジョワ的)公共性の概念では説明出来ない。無産市民(労働者階級)がどのようにナチズム体制に取り込まれていったのかを分析する手法としてメディア史的アプローチは極めて有効であることを本書は実証したと言えよう。しかし、社会主義に対して資本主義を殊更に強調するのは適切ではないと思われる。なぜなら、ナチズムは国家社会主義労働者党が主導する体制であるからだ。ハーバーマスの限界は、市民的(ブルジョワ的)公共性の概念を用いてブルジョワ社会を分析することしか出来なかったことにある。市民社会を教養市民層で構成する社会とみなすことしか出来なかったのである。本書は労働者的公共性からナチズム体制を論じた問題提起の書である。秀逸な歴史書としてお勧めの一冊だ。
-
ファシズムか民主主義かによらず、メディアのプロパガンダ的性格は一貫している
著者は1960年生まれのメディア史研究者であり、日本やドイツのメディア史について多くの著書がある。本書は著者の約20年間に及ぶ「ファシスト的公共性」に関する論文をまとめたものである。 本のタイトルにある「ファシスト」とは一般的な用語として理解できるが、「公共性」とは聞きなれない。著者によれば、「公共性」あるいは「公共圏活動」とは、プロパガンダを意味する学術用語らしい。したがって本書は、ドイツや日本などにおける第一次大戦後から現在に至るまでの、ファシズム的政権によるプロパガンダの歴史を詳細に扱ったものである。 本書の第Ⅰ部(ナチ宣伝からナチ広報へ)では、ナチス・ドイツにおける精緻を極めたメディア工作を解き明かしている。当時はラジオが生まれた直後であり、従来からの新聞を加えたマスメディアによるプロパガンダはこのナチス・ドイツにより「磨き上げられた」のである。また世論調査やPRもナチス・ドイツにより研究開発され、多くの「成果」を挙げた。ナチス・ドイツのメディアによるプロパガンダは、第二次世界大戦後の民主主義国家(アメリカなど)で一層発展し、「メディア学」あるいは「コミュニケーション学」などとその出自を隠すように「お化粧し直した」のである。 第Ⅱ部(日本の総力戦体制)では、第二次世界大戦以前における日本のプロパガンダ体制を扱っている。当時の日本はナチス・ドイツからメディア工作の多くを学び取り、実践した。日本におけるプロパガンダは別名「思想戦」というそのものズバリの分かり易い名前が付けられている。なお、この「思想戦」という用語は、現在も右派のお気に入りのようで、最近も慰安婦問題についてのプロパガンダで右派メディが「愛用」している。 本書の趣旨は著者がアメリカの情報研究者の本(ナンシー・スノー『情報戦争』)を引用して述べている、「情報政策とプロパガンダと世論操作は三位一体であり、第一次世界大戦から現在まで一貫している」という言葉に尽きるであろう(p.186)。「情報」という言葉が「敵情報告」という軍事用語に由来すること、また世論調査が本来世論操作を目的にしていることなども興味深い。最近話題になった「ポスト真実(post truth)」もツイッターなどで偽情報の拡散を目論んだ、プロパガンダの一形態である。 本書は学術書という性格もあり、SNS全盛時代において「メッセージに隠されたプロパガンダをいかにして見抜くか」という「メディアリテラシー」については触れていない。テレビ、新聞、SNSなどすべてのメディアから発信される情報は、何らかのプロパガンダ的意図が隠されていると見て間違いない(意図を隠さずあからさまにぶちまけたのがトランプ前大統領のツイッターである)。その情報の狙いは何か、誰が得をし、誰が損をするのかなどを疑って掛かることが必要である。
-
なぜ人は選挙に行かないのか
本書は議会選挙の本質をその出自に遡って解き明かし、なるほど無党派層や選挙に行かない人が大半なのはむしろ当たり前であることを理解させる。選挙に行かない人を説教したり、彼等のニーズに応ると称して政策議論をすればするほど、民衆との距離は乖離し投票率は低下する。それはブルジョア的公共性の再生産であり、小賢い精神的貴族であることを誇示する自慰行為の印象しか与えない。選挙に行かない、無党派層という名で括られる多くの人々にとって選挙は、教養と財産を相続する支配層や指導者気取り達に白紙委任を迫られる屈服の場でしかない。こういった人達に政治参加を促すには、街頭やインターネットでの示威活動といった労働者的公共性を運動の中に位置付け、議会選挙に民衆の「叫び」を反映させることが出来るかにかかっている。そしてそれこそが、民主主義と全体主義の分岐点であることを本書は教える。ナチスは労働者的公共性を参加感覚にまで簡素化したファシスト的公共性を演出し、ブルジョア的公共性の殿堂である議会選挙を国民革命の舞台に変えた。ドイツ国民は歓呼と喝采をもって、それに合意を示したのである。
-
「納得」を欠いた民主主義
題名からハーバーマスを連想したので政治学の本かと思いましたが、開けてみるとメディア論の本でした。著者はこの分野では定評のある学者さんのようで、中身はとてもレベルが高い。浩瀚な史料を読み、無数の研究論文を閲して、博識で内容の濃い論証を提供してくれている。 それだけならいいのですが、著者はこの学識を利用して独自の政治論を展開する。こちらのほうは全くいただけない。 著者の持論を要約すると次のようになります。第二次世界大戦はファシズムという悪に対する善なる民主主義の戦いであるという史観が今日流布しているが、これは戦後連合国が作り上げた神話でしかない。実際にはイギリスもアメリカも総力戦体制の下で強権政治を行っている。たとえばナチス・ドイツは巧みなプロパガンダを用いて大衆世論を操作したといわれているが、民主主義諸国も盛んに戦争遂行のキャンペーンを行っていたではないか。これは両体制が本質的に同じであることを示している。民意を尊重するのが民主主義だというならば、ファシズムも民意には同様に十分な関心を持って接していた。モッセという学者は「ファシズム大衆運動は実際のところ操作manuscriptionの運動ではなく合意consensusの運動でした」といっている。 「市民的公共性を建前とする議会制統治のみを民主主義と考える偏見を批判するモッセの立場からすれば、ヒトラー支持者には彼らなりの民主主義があったとしても不思議ではない。ナチズムは大衆に政治的公共圏への参加感覚を与えたのであり、この参加感覚こそ、その時々の民主主義理解なのである。何を決めたかよりも、決定プロセスに自ら参加したと感じる度合いこそが民主主義にとっては決定的に重要である。(中略)ヒトラーは「黙れ」といったのではなく「叫べ」といったのであり、利益集団型民主主義のワイマール体制に対して参加型民主主義の国民革命を対置した。こうした大衆運動において参加と動員の区別が容易だと考えることはできないだろう。」 ドイツ国民はこのようなヒトラーのメッセージに「共感」し、政治に「参加」することによって彼を主体的に支持したのだと著者はいいます。それゆえナチスには一定の政治的正当性がある。著者はこれを「ファシスト的公共性」と呼び、ハーバーマスの「公共性」の概念と比較します。ハーバーマスは「公共性」の概念を18世紀啓蒙時代のサロンにおける世論形成から説き起こし、「公共圏」の中で討議を重ねることで民主主義の社会秩序が形成されると考えました。著者はこの市民的社会の「公共性」があまりに狭量だとし、ナチス・ドイツが民主主義の手続きを経て国民の支持を得て成立した以上、「共感と参加を前提とするファシスト的公共性」にも一定の評価を与えるべきであるといいます。 このように聞くと著者の言い分ももっともだと思えるかもしれない。しかし考えてみてください。「参加」することだけが民主主義ではありません。私たちが何らかの集団の中で意見集約を行うとき、たいていの人は多かれ少なかれ必ず「黙る」ことを強いられます。「私は彼の意見と同じだから自分の意見はあえていわないでおこう。」「彼の意見には全面的に同意することはできないけど、ここは我慢して自分の意見を引っ込めよう。」誰もがこんな思いを小中学校の学級会で、学園祭のイベントを話し合う会議で経験してきたはずです。民主的な意見集約には必ず沈黙を強いるモーメントが働きます。それを大規模に行うのが選挙による議会制民主主義なのです。 たしかに実際の議会では議論は粛々とは進みません。党派は政策をめぐってたがいに激しく争い、ときには暴力沙汰になることもある。それでも議会はルールに基づいて意見が集約される政治的意思機関なのです。一部党派の議事妨害で議場が混乱しても、それが議会の外に波及することは普通はありません。野党の掟破りの実力行使は、逆にいえば、意見が通らなかった支持者を納得させるパフォーマンスとして機能する。議会は欲望がぶつかり合う討論が暴力に発展しないようにするための聖別された政治空間なのです。国民は選挙で選んだ代議員をに討論を委託し、彼らに理性の限界まで話し合ってもらう。そして彼らが出した結論には無条件に従う、それが民主主義の大原則です。「共感と参加」も大事でしょうけれど、それは民主主義の半分に過ぎない。民主主義には「自制と納得」のプロセスも必要なのです。そんな複雑な理性と欲望がせめぎあう場所で、数を頼んでただ己の意見を「叫ぶ」とどうなるでしょう?それは民主主義のプロセスにとって致命的な暴力となります。 ナチスは同様のこ暴力を巧妙かつ組織的に行いました。彼らは制服を着用し隊列を組んで路上で暴力的な示威行動を繰り返した。議会という政治空間をストリートに拡大したのです。一般市民は彼らの演出にただ巻き込まれただけでしたが、それでも参加したという実感だけは残るので、ナチスに理由のない共感を抱いていく。ヒトラーが首相に選ばれたとき、彼は自分に独裁権力を与える全権委任法を提出し、突撃隊・親衛隊が議会を包囲する下で採択させた。数か月後それに基づいて彼を絶対的権力者である総統にする法律を国民投票にかけた。本書の著者はこの投票で89.9パーセントという圧倒的な賛成があったことを理由に、ドイツ国民は自ら独裁体制を選んだのだといいますが、それが何だというのでしょう。国民投票は一見国民を平等に政治に参加させる制度のように見えますが、ディスカッションを欠いた数と数のぶつかり合いにすぎません。議会を押さえられた国民はナチスがお膳立てした議会制民主主義の自滅を選択するしかなかったのです。 国民投票は民主的であるように見えて、討議による「自制と納得」を欠いた偏頗な意思決定手法です。その危険性を示す典型的な事例が最近起こりました。2016年のイギリスEU離脱です。当時イギリスではEU離脱を主張するイギリス独立党が躍進し、議会のキャスティングボートを握られる可能性があった。彼らのポピュリズムを嫌った保守党キャメロン首相は、総選挙の公約として国民投票の実施を約束しました。彼にはそれが危険な賭けだとわかっているのに、窮余の一策としてそれに頼ってしまった。選挙で国民が政治への「参加」に敏感になっていたので、そうせざるを得なかったのかもしれません。結果はご存じのとおり僅差でEU離脱が決まってしまった。その後イギリス国民はこの選択を激しく後悔しました。イギリス独立党は議席を失い事実上消滅してしまったし、2022年の世論調査ではEU離脱を間違っていたとする声が半数を超えています。 「自制と納得」のプロセスは一種政治行為のクールダウンですから、国民は疎外感を受けやすい。ポピュリズムはそれに付け込んで勢力を伸ばす反民主主義的政治手法です。単純で支持を集めやすいので、弱小政党や政治の素人がよく使います(自分でも無意識のうちにそれに頼っている場合もある)。しかしそれによって反映される「民意」は国民の政治的決定の半分でしかない。そんなポピュリストによるドタバタ劇が民主主義のお手本であるイギリスで起こった。アメリカではドナルド・トランプが再び大統領に選ばれました。このことは議会制民主主義がまだ解決することができない欠陥として、私たち一人一人が十分意識しておかなければなりません。民主主義はいわば永遠の未完成の政治制度。気を付けていないと私たちはとんでもない選択をしてしまうのです。
関連する文学賞
- 毎日出版文化賞 第72回(2018年) ・受賞