日本の文学賞

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磔のロシア――スターリンと芸術家たち (岩波現代文庫)

大佛次郎賞

磔のロシア――スターリンと芸術家たち (岩波現代文庫)

亀山郁夫

スターリン体制下のソ連で、芸術家たちが権力、検閲、粛清の恐怖と向き合った姿を描く評論。ロシア文学・音楽・芸術を横断し、創作が政治に磔にされる時代の緊張を読み解く。

スターリンロシア芸術検閲粛清表現者

作品情報

芸術と独裁のあいだで引き裂かれた表現者たちの精神史。

スターリンと芸術家たちの関係を、文学者・作曲家・演出家らの軌跡から検証する。岩波現代文庫版は旧版を文庫化したもの。

レビュー要約

  • 政治史と芸術論を接続する視野の広さが評価されている。重い題材ながら、個々の芸術家の選択が具体的に描かれ、時代の圧力が伝わる。

書籍情報

出版社
岩波書店
発売日
2010-11-17
ページ数
480ページ
言語
日本語
サイズ
10.5 x 1.9 x 15 cm
ISBN-13
9784006021788
ISBN-10
400602178X
価格
583 JPY
カテゴリ
本/アート・建築・デザイン/芸術一般/美術史

ゴーリキー、ショスタコーヴィチ、マンデリシターム、エイゼンシテインら、スターリンによる大粛清の時代をかい潜った六人の作家や芸術家たちは、「独裁」といかに闘い、生き残り、死んだのか。かれらの秘められた事情とは何か。1990年代以降に公開された文献をもとにその真相に迫る、著者入魂の大佛次郎賞受賞作。

亀山 郁夫(かめやま いくお) 1949年栃木県生まれ.東京外国語大学外国語学部ロシヤ語学科卒業.東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学.2007年より東京外国語大学学長.2008年ロシア文化に貢献した外国人に贈られるプーシキン・メダルをロシア大統領より授与される.専門はロシア文学・ロシア文化論.著書に『終末と革命のロシア・ルネサンス』(岩波現代文庫)『ドストエフスキー 父殺しの文学』(上・下,日本放送出版協会)『大審問官スターリン』(小学館)『ドストエフスキー 謎とちから』(文春新書)『甦るフレーブニコフ』(平凡社ライブラリー)など.ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(光文社古典新訳文庫,2007年毎日出版文化賞特別賞受賞)『罪と罰』(光文社古典新訳文庫)の新訳でも知られる.

レビュー

  • 権力側と芸術家側の相互作用劇

    レーニンの死後、スターリンが権力を掌握したロシアにおいて、作品の制作と共に政治的生き残りを図った芸術家の軌跡を読み解いた著作。取り上げているのは順にブルガーコフ、マンデリシターム、マヤコフスキー、ゴーリキー、ショスタコーヴィチ、エイゼンシテインの六名で、初出のそれぞれ異なっている文章に加筆修正して一冊に纏め上げた構成。昨年この岩波現代文庫で出た「終末と革命のロシア・ルネサンス」の続編的な位置づけになるようだ。 読み進めていくと、権力の隠微な、やがてあからさまな芸術への介入や、芸術家の周りに跋扈するスパイたちの暗躍にまず驚かされるし、時と共に支配者スターリンに心を囚われていく様子が克明に記されていく。それは権力の側による一方的な支配という図式でまとめられるものではなく、ストックホルム症候群にも似たスターリンへの共感のプロセスや、芸術に携わるものなら誰でも潜在させている権力への志向、パトロネージを期待して権力側にしがみつく必要など、複数の要因が芸術家の内面で働いていて、スターリンがそんな心理を知悉した上で糸を引くといったような、複雑な相互作用が見て取れて面白い。また芸術家の作品の中の、本人が意識しないところに反スターリンの兆候を読み取って権力側が処分を下すというようなところはテクスト読みの微妙さを教えてくれるし、そんな読みによる追及を一番免れたのが音楽家のショスタコーヴィチであるのは印象的だった。言質を取られずにすんだということだろうが、逆に言葉が持つ重層的な意味合いにも気づかせてくれる。 一方で粛清下を生き延びる処世術として「二枚舌」を挙げているが、その様相を辿るうち、作家は基本的に誰でも二枚舌なのではという思いも浮かんできた。世間的な風潮を大切だといいつつも、そんなものはくそくらえという心情もあって、二つが二つながら真情であるあり方、本書はその極限状態を記述しているが、極限状態であるだけ、今の日本にもあるビジネス・イデオロギーと結びつきがちな全体主義的心情や、そんな風潮への二枚舌的対応を捉えるきっかけにもなってくれるのではないかと思う。 他の著者の近著も次々文庫になってくれるといいな、と思う。この筋合いからドストエフスキー論が展開したといっているので、そっちのほうも読んでみたくなってきた。

  • 「名著」再読

    名著の誉れ高い「磔のロシア」を再読した。よい意味でのスキャンダリズムに貫かれた本である。しかしここまで来れば、スキャンダリズムから限りない知性の香りが漂ってくるのを感じる。相当な覚悟での執筆だったと思われる。圧巻はマンデリシタームの章だろうか。著者はあくまでもスターリン主義者となった晩年の彼の狂気に焦点をあて、絶対にそのフォーカスを緩めようとしない。そこがみごとだと思った。エイゼンシテインの章に論旨の上で辿りにくい若干の難点があるが、しかしそれにしても驚くべき深みをもった書物である。

  • スターリンを前に彼らは二枚舌をどう使ったか?

    あのスターリン(スターリン主義、スターリンの独裁、スターリン個人崇拝など)に対するマヤコフスキー、ショスタコーヴィチなど6人の芸術家の関係、それも特に芸術家達の「二枚舌」がいかに展開されたか、に特徴がある分析。彼らが、実際、具体的にどんな状態、特に製作過程と政治的行動において何を考え、作品にそれをどのように表すことになったかを、丹念に想像しながら読むと良い。そうすると、岩波にはめずらしい校正漏れが数カ所見つかると同時に、スターリン個人崇拝がどんなだったか、それが芸術家にとってなんだったのか、がかなり生き生きと分かる。しかし、何が真実かは、読者の読書力、批判的読書力如何にかかってくる。

  • 芸術家の創造とそれに影のように寄り添う独裁者像。これはわれわれにとっても無縁な提起ではない。

    「はじめに」とはよくみる著作のはじまりであるが、本書の「はじめに」は、凡百の“序論”とは異質の深層への招待が保証されたものといえる。 「嘘によらず生きよ」と語ったアレクサンドル・ソルジェニーツィンにとっての<「幸運」は、その登場が、スターリン批判後の比較的穏やかな時代だったということである。><では、スターリンが生きた時代に、><「嘘によらず」、体制へのプロテストを試みた芸術家が果しているのだろうか。私の知る限り、いない。><道は、二つあった。第一は、筆を折ること、><原稿や楽譜を机の引出しの奥にしまい、時代の変化を待つのである。第二は、みずからの名声を命綱としながら、テクスト内にさまざまな「仕掛け」をさながら地雷のように埋め込んでいくこと。><スターリン時代の芸術家の受難史を扱った本書で、私が新たに定義しなおそうとする「二枚舌」とは、他ならぬこの「仕掛け」を意味している。><しかし、この場合、「二枚舌」と嘘は、根本から性質を異にする。><「二枚舌」のもつ強さは何よりも、批判する対象への愛の強さにある。少なくとも一枚目の舌とは、相手への愛の言葉となる。またはその強さを、二重性の、曖昧さの力ということもできるだろう。> これだけでも興味深いが、本書にはもうひとつの隠されたテーマがあるという。曰く、 芸術家は、芸術のもつ権力への志向ゆえに、あるいは、受容者を支配したいという止みがたい欲望ゆえに、深く独裁者と一体化することができたともいえる。その意味で、本書の、隠されたもう一つの主題は、悲劇的である。 つまり、 芸術家の血と涙の結晶であるそれらのテクストに、独裁者は蔭の共作者ともいうべき役割でおのれの遺影を写しだし ているからだ。 おそるべき洞察。一筋縄ではいかない書物であることが知れる。痺れる。 全体主義体制下における人間の死は、権力によるテロルという憶測とつねに背中合わせにあるため、たとえそれが陰謀による死であれ、偶発的な自然死であれ、そこから生まれる疑惑をかき消す努力を、権力は最大限に怠ることができない。そしてその努力こそが、テロルの疑惑を新たに生むということ。全体主義とは、時に、全体主義をめぐる妄想と事実とがたがいに反転しあう世界のシステムを意味する。 つまり、ここで著者が挑んだ課題にあらかじめ答えは存在しないことが知れる。どういうことか?いくら状況証拠を積み上げても、決定的な証人も証拠物件も存在するはずもないからだ。それが、全体主義というシステムなのだから。しかし、それゆえにはかりしれない魅力をもった課題でもある。なぜなら、ここに2つの歴史的事実があるとして、その2つの事実にどうしようもない乖離を発見したとする。しかも、その事実とうらはらに結果として目もくらむような作品が残されたとしよう。ここでむくむくとわきあがってくる想像力を抑えつけられる者がいるだろうか? つまり、この好奇心にとらわれたものはひとり亀山郁夫氏だけではないということ。そのすぐれた世界中の研究成果をふまえながら、なおも推理をこらして分け入っていく先にあるのは、これもまたある種の妄想でしかないのかも知れないが、考えてもみよう。ここで対象とされた―分けてもマヤコフスキーやゴーリキーやショスタコーヴィチやエイゼンシテインといった面々の作品に接したことがあるならば、彼らがすべてスターリンの絶対権勢下において創作活動をしていたことを訝しく思わないであろうか。これについて、著者はこう断言する。 ショスタコーヴィチの音楽の魅力は、スターリン主義ないしは検閲当局との「対話」から生み落とされた数々の歪み、いかがわしさをそのものとして認知し、これに馴化するところから生じる。 さらには、時代によって変転する作品の評価に関しての次の鉄槌を下すような裁定。 ショスタコーヴィチの音楽とは、むしろ「前進」も「後退」も含めたトータルとして理解すべき何かなのであり、「前進」のみに彼の音楽のポジティヴな側面を聞きとるやり方は、全体主義化において芸術家が強いられた役割や、政治権力との相関性のなかではじめて意味をもつソビエト芸術の本来的特質をむしろ一方的にねじ曲げるものでしかない。 なぜならスターリン主義が芸術家に求めていたのは、あくまで、スターリンと同じ夢をみる力だったからである。 どのような芸術的営みも根本においては権力への志向を否定できない以上、とりわけスターリン時代の芸術はどこまでもスターリン主義との相似形を描かざるを得ないからである。あるいは、次のように言えるかもしれない。結局のところ、芸術に真意などというものはないのだということ。芸術作品とは、ひとたび創造者の手を離れるや別個の生命を生き、その蠱惑的な身振りによって批評という名のフォークロアの実をたわわにつける一本の枝でしかないと。 ここまで読んできて思うことは様々あれど、たとえば、どこぞの国で戦後盛んに糾弾された戦争責任論などはいったい何だったのかと。あるいは、画家崩れゆえに“頽廃芸術展”などをひらいたヒトラーに対して、信じられないくらい巧妙に―芸術家との心理戦、神経戦を通して芸術そのものを自らの統治下におこうとしたスターリンという稀有な独裁者像。そして、こと芸術創造に関するかぎり、独裁者の存在も無能な為政者の存在もひとしなみに抑圧にもなれば発奮にもなるという事実。さらに、これを編年体の叙事詩にしなかったことも功を奏していると思う。著者のいう<合同葬儀>というのももっともだが、それ以上に、個々の芸術家とスターリンの火花散る攻防のそれぞれのニュアンスの違いを相殺するのを避けられたことが大きいと思われる。もちろん、その妄想合戦に著者も、そしてわれわれ読者も参戦できるスリルをたっぷりと味あわせてくれた。 また、この本を紹介してくれた友人がいみじくも言った<スターリンは詩人やったんよ>という言葉が、痛烈な読後感を予見していたことも印象深かった。

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