作品情報
巣鴨の地蔵信仰と老い、身体、家族の記憶を自在な語りで重ねる詩的長篇。
巣鴨の地蔵信仰と老い、身体、家族の記憶を自在な語りで重ねる詩的長篇。散文と詩の境界を越え、祈りと生活の声が一つの巡礼のように連なっていく。
書籍情報
- 出版社
- 講談社
- 発売日
- 2007-06-01
- ページ数
- 288ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784062139441
- ISBN-10
- 4062139448
- 価格
- 1870 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/エッセー・随筆
人はみな、老いるとふしあわせになるのか?職業、詩人。カリフォルニア在住。夫1人(外国人)。娘3人、犬2匹。老いた両親は熊本で。母は寝たきり、父、要介護。足を踏ん張りこの苦あの苦に立ち向かう。
レビュー
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50才
ここに出てくる作者と同じ年齢の自分を重ねて読みました。カリフォルニアと熊本と東京の巣鴨での出来事が描かれています。海外在住なので日本への帰国のことなど参考になることもあったし、出てくる人たちがみなドラマチックで興味深く読みました。今回初めて伊藤さんの本を読みましたが、他の本も読んでみたいと思います。
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母のことと重ねて読んでいる自分に気づいて、凄く辛い読書だった。
家の中でこける・見当識・糖尿病・脳梗塞などの箇所は、母のことと重ねて読んでいる自分に気づく、凄く辛い読書だった。 もっとも著者は「現実の生活をそのまま書いたら悲惨なだけですからね。この章はこのネタでいこうと決めると、それを向こう側に置き、いかに笑えるものであるかを考える、リズムと口調をつかむんです」(2007年9月3日付『岐阜新聞』〈創作の流儀〉より)と突き放している。 古事記、梁塵秘抄、説教節、宮澤賢治、中原中也、太宰 治、ランボーなど古典文学からの引用も多い。以前より著者の本には、偏見を持っていたが、読むことで理解が深まり、石牟礼道子さんとの対談や、著者の『説経節』『現代思想 2018年5月増刊号 総特集◎石牟礼道子』に収録された〈『不知火』の声〉を読んでみたい。 で、わたしの名は「しろみ」、小さいころから母にも祖母にも叔母たちにも、そうとしか呼ばれてきませんでした。育った路地の向かいの家にまさしろくんという子がおりまして、日夜おばさんにまさしろまさしろと呼びたてられていましたが、あれはわたしみたいになまったあげくの「しろ」ではなく、征服の征を「まさ」と読ませて、お城の「しろ」だと知ったときには、子ども心に、それはずるいと思いました。読了後、内科の女医さんが「自己解放は重要です」とおっしゃっていた。
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老いた親たちに唖然としているあなたへ
この本は詩歌に分類されておりますが、小説でもエッセイでもドキュメントでもいい感じです。伊藤比呂美も50代半ばになんなんとして、俗世的困窮に陥って、 孤軍奮闘しております。太平洋を挟んだ老親の介護、思春期の娘の摂食障害、夫の病気など、いろいろ。しかし、大詩人は、転んでもただでは起きない!! 自身の更年期障害を吹き飛ばすような勢いで、言葉を紡いでゆく。 そのたのしいこと、きれいなこと。
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伊藤さんは、常に前進されている方。
いつも生き生きと、ときには明け透けに豪快に、この人の口から発せられる言葉には嘘がない。若いころから育児エッセーから始まり、数々の著作を読ませて頂いています。これからの活躍楽しみです。
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とげが抜けます。
さすが伊藤比呂美さん!!石牟礼さんとの対談集も輝いています。
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ほんまもんの声
たどたどしい。ストーリーもない。でもホンモノの声がある。それに救われる。
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現代文学の最良の文体で書かれた一冊と言えるでしょう。
なによりも文章力が素晴らしい。詩が散文となり、その響きが余韻を伴って文体と言えるものを形成しています。一つの文が他の文と共鳴し合って、読む者をどんどんそのリズムに乗せ、先へ進めて行きます。書かれている内容は確かにある意味で「私小説」と言えるでしょう。日本に住む実父と実母、そしてアメリカで暮らす年輩の外国人である夫と三人の娘、そこで母であり女であること、その生理のもたらすもの等を作者は遠慮なく告白します。しかし、それは私小説にみられる自己陶酔・自慰的なものではなく、この世で生活を営み、生きて行くというたくましさを感じさせる力強いものです。そしてそれが同様に力強い詩人の文体で描かれます。特に道端に佇む老女とのやりとり(単行本P128~)は、東西を問わず古典文学によく見られる「道行き」と「死」の場面を感じさせる程に、素晴らしい描写です。 「道の両側には夏草が今をかぎりと生い茂り・・・・・ひからびた老女の死骸は、たやすく腐敗して河原の草に食われるでしょう。」 「ほんとにお暑うございます。ほんとにお暑うございます。とわたしもその口調にひきこまれつつ、いつ梅雨は明けるんでしょうね。と申しますと、明けやしませんよ、と老女はきっぱりといい放ち、空を見上げていうことには、明けたら明けたで、この熊本の呪われた夏!と。」 同じ言葉と文章の繰り返しが、祝詞・経文のように独特の余韻と効果を文章に与えています。群像連載の作品のようですが、どうしてこの様な傑作が、なんらかの形でもっと大きな話題とならなかったのでしょうか?現代文学がいずれ古典となるならば、その候補の一つと言えるのではと感じるのは自分の思い込みでしょうか?
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やられました!
ラディカル詩人・伊藤比呂美...良いおっぱい悪いおっぱいのね、かつてないごちゃ混ぜ表現手法を駆使した父母介護日記かな? アメリカ人と再婚して、いまのところはアメリカ在住の彼女が、なんで「とげ抜き地蔵」なん?て思いますやろ。 彼女の育ち(生まれは知らない)が巣鴨~板橋本町の中山道沿いやから。 おもろすぎて我慢できなくて、付箋まで付けながら読んでいるその一部を紹介させてw (前略)わたしはあきた私は飽きたとうめくあい子に小銭をやって、お外にいってジュースを買っておいで、とわたしはいいました。 だいじょうぶなの、こんな外国から来たばっかりの右も左もわからないような子を一人で外にいかせて、と母がいいました。だれかに連れていかれるんじゃないよ、あいこちゃん、いいかい。 彼女は思っている、わたしが何も知らないわたしが何もできないと、とあい子が英語で祖母を批判し、昂然と出て行ったと思うとあわてふためいてもどってきて、機会がのみこんだ、おかねを、わたしは得られなかった、何も、わたしはわからなかった、どうしたらいいか。実際右も左もわからない子供なのでした。わたしが出て行ってお店の人に説明してやらねばなりませんでした。(攻略) そして、話はもっともっと奇想天外に展開してゆくのであります。 でも、この読者を充分に惹きつけてしまった、あい子は、テキスト上の存在だと最後に分かった。 しっかしラディカルやな。
関連する文学賞
- 萩原朔太郎賞 第15回(2007年) ・受賞