日本の文学賞

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ドストエフスキー

毎日出版文化賞

ドストエフスキー

山城むつみ

山城むつみがドストエフスキーの主要作品を、二葉亭四迷やバフチン、日本近代文学との関係も視野に入れて読み解く大部の評論。地下室的な反抗、罪と罰、復活、家族と信仰をめぐる問いを、精密な読解でたどる。

ドストエフスキー文芸評論ロシア文学近代文学

作品情報

ドストエフスキーの小説の奥で、反抗する声と救いを求める眼差しが交差する。

講談社刊。『悪霊』『罪と罰』『白痴』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』などを章ごとに扱い、ドストエフスキー文学の対話性と死生観を日本語批評の文脈で捉え直す。

レビュー要約

  • 緻密な読解と射程の広さが特徴で、代表作を個別に論じながら全体像を組み上げる力が評価されている。専門性は高いが、文学の核心へ踏み込む評論として読み応えがある。

書籍情報

出版社
講談社
発売日
2010-11-01
ページ数
549ページ
言語
日本語
ISBN-13
9784062166508
ISBN-10
406216650X
価格
2077 JPY
カテゴリ
本/文学・評論

文学史上最大の衝撃、ドストエフスキーとは何なのか? 気鋭の批評家が切りひらくドストエフスキー論の新たな地平。 ドストエフスキーの、いわゆる地下室的主人公たちは、ことさらに他者に対して天の邪鬼に反対し不同意を突きつけているように見える。しかし、彼らは、ほんとうは他者の言葉に強く引かれそれに自分の声を合わせたいのだ。ただ、それに声を合わせようとしてどうしても合わせることができないとき、協和と同意の合致点からのその微小なズレには激しい斥力を持つ異和が生じる。それは反論や不同意が産み出す反撥と似て全く非なるものだ。のみならず、そのような反撥よりもはるかに強烈な不協和、憤激を呼び起こすのである。本書は、そのような異和を、反論と不同意から生じる反撥と区別して「ラズノグラーシエ」と呼び、この強い斥力こそがドストエフスキーの世界の主な動力になっていると考えている。――<「まえがき」より> 第65回毎日出版文化賞[文学・芸術部門]受賞。

レビュー

  • 『未成年』は古典ではなく現代文学

    ドストエフスキーの5頭の象の中でも、『未成年』の評価は一般に低いように思われるだけに、著者の「『未成年』は一九世紀の古典ではない。現代文学なのだ」という指摘は新鮮だった!

  • キリストへの「ラズノグラーシエ」という衝動と悪への斥力

    著者は、ドストエフスキー文学の本質を「ラズノグラーシエ」という概念で特徴付ける。 ドストエフスキー作品の地下室的人物達は、他者に対し一見闇雲に不同意を突き付ける。 しかし彼らは実は他者の言葉に強く惹かれており、同意したい欲求を持っていると著者は捉える。 にも関わらず同意できない時、その微小なズレには激しい斥力が発生し、強烈な異和が生じるのだと言う。 それは単なる不同意が生み出す反撥とは似て非なるもので、遥かに強力な不協和・憤激を呼び起こすとのこと。 著者はそのような異和を、不同意から生じる反撥とは明確に区別し、「ラズノグラーシエ」と呼び、それが伴う強い斥力こそがドストエフスキーの世界の主な動力になっていると主張する。 ■『カラマーゾフの兄弟』にて 典型は『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャとイワンの会話だ。 物語の終盤、イワンはアリョーシャから「殺したのはあなたじゃない」と正面から突き付けられる。 しかし正にそう考えたいイワンにとって、そのことが「他者から突き付けられた」ことでイワンは同意できないのだと。 ここにこの対話が孕む問題が浮かび上がる。 著者はこの異和を比喩で例える。 録音された自分の声を聞く時の、自分の声とは認め難いあの違和感のようであると。 即ち、他者によって自身の本心を表出されるという点に、同意への乗り越えがたい壁が現れるのだと言う。 ■『罪と罰』にて ラスコーリニコフは高利貸しの老婆と善良なリザヴェータを殺害した。 しかし小林秀雄も指摘するように、ラスコーリニコフがリザヴェータを思い出すことは実はただの1度しかない。 それはソーニャへの罪の告白の際のこと。 『ドストエフスキー人物辞典』の中村健之介も指摘しているが、ソーニャにはリザヴェータが重なる。 リザヴェータがソーニャの目を介しラスコーリニコフを見てくる、更にはそのリザヴェータの目を介してラスコーリニコフは自分を見るのだと言う。 この構造により、ラスコーリニコフは他者による自身の本心の表出に対し覚える強烈な斥力を生じてしまうのだ。 ■『悪霊』にて スタヴローギンによるマトリョーシャへの犯行の際、彼「を」見ていたものは何か。 ここへきて、他者の目というものの本質が垣間見えてくる。 ドストエフスキーは「斜めに差し込む光と赤い蜘蛛」と表現した。 異論を恐れずに言うならば、ドストエフスキーにとっての究極の他者とはキリストであり、「ラズノグラーシエ」は究極においては何とキリストに対して生じてしまうのだ。 キリストに対し全面的に同意したいができない。 これがドストエフスキーが作品群で提示した問題の通底だとのこと。 そして『カラマーゾフの兄弟』に戻れば、イワンの前に現れた悪魔は「自分は本当は善良だ」と言う。 善良だが、否、善良であるが故にあらゆる悪事に身を染めてしまうのだと。 「ラズノグラーシエ」における異和は、その斥力によって振り幅が極大化してしまう。 キリストへの同意の不可能性。 その際の強大な斥力による振り幅極大の悪への反転。 ドストエフスキーの描いた悲劇性の本質はここにあると、著者は主張する。 ■『白痴』にて この作品では、最終場面において不死・復活の問題がクローズアップされる。 . 亀山郁夫氏も主張しているが、ドストエフスキーは理念としてではなく現実の問題としての不死・復活を信じようとした。 ナスターシャ・フィリポヴナの遺体の前のムイシュキンとロゴージン。 彼らが聞いた「足音」とは何か。 彼らが味わった「臭い」とは何か。 ここにナスターシャ・フィリポヴナの「復活」というテーマが隠されてると。 余談だが、マルセル・プルーストはその著作『失われた時を求めて』の中で、主人公にドストエフスキーを批評させ、女性の表情に表れるアンビバレントな魅力について語っている。 これが最高の形で現れた女性がナスターシャ・フィリポヴナだと言えるだろう。 彼女は結局、同意の重みに耐えきれず、破滅してしまうからだ。 キリストへの同意が究極においてできない。 そこから生じる強力な斥力による悪への反転。 ドストエフスキーが投げかけたこの根源的な問題意識に対し、読者は目を背けることができないのではないだろうか。

  • 死と愛の構造

    文庫化に際し、訂正、訂正箇所の明記を含む二頁分の文庫あとがき、近影・底本表紙、著者自身によるよく整った年譜が付された。 ゼロ年代、前半が『文學界』に、後半が『群像』に発表された論集である。 章題上は前半が『悪霊』『罪と罰』『作家の日記』、後半が『白痴』『未成年』『カラマーゾフ』を掲げているもののドストエフスキーの生涯と作品を横断というか、縦断しながら横断している。 ソグラーシエでもニェソグラーシエでもなくラズノグラーシエという言い方はポリフォニーの内実として本書を通して掛け声のように繰り返されるし、岡崎乾二郎の『ルネサンス 経験の条件』を引きながら空間ではなく時間の逆遠近法にせよ腐臭/復活(再生、救済)のテーマにせよ、ドストエフスキー作品の構造が余すところもなくするかのように解読されている。書くためにではなく読むためというのは端的にそういうことではあるものの、でも敢えて云えば本書はドストエフスキーであってドストエフスキー論ではないことから云えば、本書を読んでドストエフスキーを読まねばならなくなるとは言えないかもしれない。もっと云えば、ドストエフスキーが居なかったら本書で云ったことが言えないのかと云えば、そんなことはないかもしれない。文芸がなければないような文芸評論では本書はなくやはり一つの思想であって、ドストエフスキーおよびその作品と対等でもあるのではないか、と云っておいた方がよい。 ただし、本書は構造主義と云えば構造主義の読みだし、無神論か有神論かその内実が問われているわけでもない。翻訳文を漫然と読まされるよりはよほど本質論には近いけれども。

  • 興味深かった

    従来の一般読解とことなる視点で引用、解釈しており、興味深い論考になっていた。

  • 他者と言葉と自己に対する、深い洞察

    やや難しいが、じっくり読み進めると、靄の向こうにかすんでいたドストエフスキーの本質がくっきり立ち現れてくるような感覚になる。著者は「ラズノグラーシエ(異和)」というロシア語をキーワードにドストエフスキー作品を読み解いていく。自分が考えていることを、他人から同じく言われた途端に、同じ言葉はたちまち異なる意味を持ってしまうーーそこに「異和」が生まれる、という指摘は現代にもおおいに通じるのではないか。ドストエフスキーの小説の人物達はつねにこの「異和」にさらされ、この抗いようのない他者と自己の間の軋轢が、作品をダイナミックに動かす原動力になっていると説く。 ドストエフスキーには元来、他の小説家とはどこか違う熱く激しいものを感じていたものの、それが何であるのかうまく説明できすにきた。が、この本を読むとそれが何であるのか、わかったような気がする。著者のガイドを頼りに、ドストエフスキーの深い世界を歩き回るのは、とても濃厚で有意義な時間だった。

  • とんでもない内容になっています

    今まで多くのドストエフスキー論が出てきましたが、ドストエフスキーの輪郭が初めて見えた気になれる本です。 ドストエフスキーがイマイチつかめない方は必読です。 何故今ドストエフスキーが読まれるかが分かりました。 『未成年』論ではっきりします。

  • 神なき世界で、文学に神をよむ

    まさに圧巻の一冊。バフチンや森有正を筆頭とする先人たちの透徹した洞察を導きの光としながら、ドストエフスキーの作品を徹底的に嘗め回すように読みこんでいくことで獲得した認識を、強力な言語に変換している。「論争」ではなく「同意」という言語作用なかで複数の異なる声が一致するかと思いきや、微妙にズレ、排斥しあい、その分裂した声の反響が独創的な世界をつくりあげるドストエフスキーの文学空間が、実に精緻に分析されている。「心に染み透る言葉」を互いに受け取りあえるパラダイスを夢想しながら、だが受け取ることに失敗して苦悩する人びとが織り成す悲喜劇を、何かに突き動かされて描いてしまった空前絶後の作家、そんなドストエフスキー像が鮮明に浮かび上がってくる。 また、神も不死もまったく信じられぬなかで、なお「神」のようなものの到来を語らざるをえないような文学的記述の解読方法を著者は繰り返し披露しており、それが本書のひとつの大きな魅力になっている。自己と他者の声と視線と意識が交錯しあう関係のなかに出来事として訪れる「神」。私から失われてしまったものがその固有性を消失したあと、それが本来的に分有していた存在価値の次元で別の個体において、私と再び結び合わされることとしての「復活」。あるいは「神」に不断に問われ責めさいなまれながら、不合理にも生きられてしまう「信仰」とは何か。キリスト教に彩色されたロシア作家の傑作たちを、だがキリスト教的にではなく、その作品の示す意味と力そのものにおいて読むことで、なおも見出されてしまう「神」、その論述についていくのは、信仰者ならずとも、いや狭義の信仰者でない読者だからこそ、非常に刺激的であるように思う。

  • 歴史=社会が完全に抜けている

    著者は、「小林秀雄のクリティカル・ポイントで、群像新人文学賞評論部門を受賞して評論家としてデビューしているが、本賞出身者の中では、柄谷行人を別格として、安藤礼二と並んで「出世頭」(笑)と言える。本書は、2010年刊の単行本の文庫化であり、600ページ以上の大部であるが、その構造や考え方は、「小林秀雄のクリティカル・ポイント」と同じである。要するに、作品を中心に作家の人生を眺め、ある規則を見出すのである。そのしかたに、本書でいえば、たとえば、ドストエフスキーの最初の妻の死が「ポイント」となり、その後の彼の作品を決定づけている、みたいな「法則」を論証しようとしているが、その際、当のドストエフスキーが生きた時代の社会状況への考察が、ほとんど「捨象」されているかに見える。これは、ドストエフスキーのような作家を論ずるにあたっては、完全なる瑕疵と思われる。まして、「序章」の二葉亭四迷だのバフチンなどは、ドストエフスキーにとっては、無用のものと思われる。著者は、作品を論ずるに、ロシアフォルマリズムの手法などを多少考えているのだろうが、それはひとつのスタイルの援用にすぎない。 著者はロシア語に堪能であるらしく、原書にあたって、自ら訳出したりもしているが、それだけd、一般読者を恐れさせているのだろうか?(笑)。小林秀雄などは、ロシア語はできないので(さすがに、ベルクソンやランボー、ヴァレリーなど、フランス語テクストは原文で読んでいることがうかがわれるが、それさえ、声高に言っているわけではない)、すべて翻訳で読んでいると思われる。 私は新潮社版の全集で読んでいるが、山城むつみ氏の、ドストエフスキー翻訳本の読書は、河出書房社版のようである。 たとえば、『カラマーゾフの兄弟』にしても、非常に複雑な構成を取っている小説であり、これが、作家の全人性でどのような「位置」にあるかを解明しただけでは、なにも言ったことにならないような気がする。 「カラマーゾフの兄弟」の冒頭に次なる記述がある。育児放棄され、召使いに預けっぱなしにされていた主人公を引き取りたいと現れた人物に関して、 「ところが、たまたま、亡くなってアデライーダ(主人公、アレクセイ・カラマーゾフの母)従兄にあたるピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフがパリから帰ってきた。これは、その後もひき続き永年外国暮らしをつづけた人で、当時はまだ非常に若かったが、ミウーソフ家の人々の間では別格で、教養が高く、都会的、外国的であり、しかも終生ヨーロッパ人で通し、晩年には四,五十年代のリベラリストとなった人物である。立身の未知を歩みつづける間ずっと、彼はロシアでも外国でも当代のもっとも自由主義的な多くの人々と交遊を結び、プルードンともバクーニンとも個人的に親しかったし、自己の放浪生活の終わりごろになってからは、一八四八年のパリの二月革命の三日間を回想して物語るのをとりわけ好み、自分のもう少しでバリケード戦に参加するところだたと、仄めかすのだった」(原卓也訳、ドストエフスキー全集15、新潮社) この、パリのバリケードこそ、ベンヤミンが「ボードレールにおかる第二帝政期のパリ」で言及している、「革命思想」の何物かを創り上げたものである。そして、「プレタリア独裁」を主張したマルクスに対する、プルードン、バクーニンといった、アナーキストの思想家たちへの共感も出てくる。 以上は、ひとつの例にすぎないが、山城氏の論には、こういった歴史的状況が十分に配慮されているとは言えない。「作家の日記」の重要性に触れながら、ただ「妻の死」にのみ「意味」を見出しているのは、ドストエフスキーの作品を小さなものにしてしまう。管見では、ドストエフスキーが「作家の日記」を中断して、最後の大作「カラマーゾフの兄弟」を書き始めたのは、パリの革命やナポレオンのクーデターの影響であり、その革命を描ききった、ヴィクトル・ユゴーの大作『レ・ミゼラブル』の影響も無視できないのではないかと思われる。ときに、ドストエフスキー41歳。44歳の時には、プルードンが、その10年後にはバクーニンが死に、56歳のドストエフスキーは「作家の日記」を中断して、「カラマーゾフの兄弟」を書き始めるのである。完成の翌年、彼は死ぬ。享年60歳。

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