赤の他人の瓜二つ
『赤の他人の瓜二つ』は、磯崎憲一郎による小説。偶然の一致や他者との類似を手がかりに、自己と世界の境界を揺らす小説。現実の輪郭が少しずつずれていく感覚を描く。
作品情報
赤の他人の瓜二つは、偶然を軸に作品世界を立ち上げる。
偶然の一致や他者との類似を手がかりに、自己と世界の境界を揺らす小説。現実の輪郭が少しずつずれていく感覚を描く。
書籍情報
- 出版社
- 講談社
- 発売日
- 2011-03-01
- ページ数
- 167ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784062168823
- ISBN-10
- 4062168820
- 価格
- 512 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論
血のつながっていない、その男は、私にそっくりだった。 青年の労働の日々はやがて、目眩くチョコレートの世界史へと接続する――。 芥川賞作家入魂の“希望の小説”。 血のつながっていない、赤の他人が瓜二つ。そんなのはどこにでもよくある話だ。しかしそう口にしてみたところで、それがじっさいに血のつながりのないことを何ら保証するものでもない。――私が初めてその男と会ったとき、そんな自問自答が思い浮かんだ。それほど男は私にそっくりだった、まるで記憶の中の自分の顔を見ているかのようだった。――<本文より> “どこに連れていかれるかわからない” 朝日新聞、読売新聞、東京新聞ほか、「群像」掲載時より各紙誌驚愕の、芥川賞受賞第一作。
レビュー
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世界のすべては接続される
街角で、たまたま同じ服を着た 知らない誰かを目で追いかけてみたり、 初めて来た街なのに、 なぜか既視感にあふれていたり、 誰かに似ていると言われれば、 似ていると言われた その人のことが気になってみたり。 似てる、知ってる、と思い、 人は何かを近づけ、取り込み、 自分の存在を確かめることもあるだろう。 そしてそんなささやかな接続が、 自分と世界との関わりを 一望にさせる地図となることもあるだろう。 魔法みたいに。 この本を読んで、そんなことを考えました。 迷路みたいで、でも確実に何かとつながっていくこの物語は、 最後に希望の灯がともる仕掛け付きでした。 大傑作!!
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何をやりたかったの?
幻想的な小説である。ある種の実験的な作品、前衛小説なのだと思う。 巻末の解説を読むと、なるほどそう読めばよいのかと思わないでもないが、このように教えてくれる人がなくては作者の意図、主旨ともさっぱりわからない謎の小説だ。いや、これが試験問題ででもあるならば必死に読み解いて何らかの意味を読み取るのだけれども、ふつうに小説を楽しもうというときにはそんな無理はしないのだ。 子供の頃の思い出話から始まる一家四人家族の物語ではある。そうかと思えば、遠く中米の昔の王朝の物語になり、コロンブスが主人公になり、舞台が中世のフィレンツェに飛んだりする。そしてこれらを繋ぐテーマは「チョコレート」なのだ。 何か新しいことをやってみたいという意欲は買いますがね、ちょっと奇を衒いすぎてはいませんか、と作者には言いたい。どんな読者に読ませたいのですか、そんなに読者を狭めて文学が発展できると思っているのですか、とも。 文章には隙がない。高くも低くもない一定の調子が保たれていて、推進力がある。独創的な比喩や工夫された表現もピタリと決まって、簡潔ながら雄弁な叙述が続く。風景描写なども魅力的だ。こうした文章の魅力に引っ張られて、すこしも退屈することはなく一気に最後まで読むことは読んだ。
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全くつまらない、期待外れ
芥川賞作家の作品なので、どれだけ面白いのかと期待して読み始めて、あまりのつまらなさに途中から読むのが苦痛になりました。 病院の手違いで赤ちゃんと取り違えたというのは、現実にもあり得る話。そこからどのように物語を膨らませるかが作家の腕の見せ所だが、この話はまったくつまらない。 また、途中にチョコレートの歴史について長々と挿入されているが、この作品の中では完全に浮いている。挿入する必要は全くなし。 芥川賞作家の作品はこれまで沢山読んでいるが、これほどひどいのは初めて。まだ、受賞作の「終いの住処」を読んでいないので、今回がたまたま外れだったのだと、自分を納得させるしかない。
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力強い文章がすごい
「赤の他人の瓜二つ」(磯崎憲一郎)読了。いやー面白かった。流れゆく時間を写すのではなく「時間」そのものをわしづかみにしてしまうような力強い文章がすごい。老いる事への躊躇いなど微塵もない両親や愛情にブレのない確信犯的な妻の姿が心地よい。迷路のような物語の中をさまよう快感に酔う。
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足りないのかな、なにか?
語り手の男は、小説の冒頭にちょっと読者に意識された後は、物語の中に溶け込み2度と姿を現さない。そこに居なくとも、これは男の見る夢のような物語だ。 情緒的な改行をいっさいしない語りは、語りの力で物語をくるりと反転させたりする。チョコレート工場の社宅に住む一家、夫婦と長男、そして妹(いも)の力を持った妹、4人の半世紀にわたる家族史である。 途中、チョコレートの歴史ファンタジーが挟まれる。 唯一無二の存在である(はずの)人間の、近代的な自我とは無縁の、反復される思念―。 人と人との葛藤から生まれるのではなく、時間の中で生きざるを得ない人間の、ある人生の瞬間にふっと浮かぶ思念がある。 それが物語中、時間と場所を超えて繰り返される妙―。 第21回ドゥマゴ賞受賞作。 辻原登氏の魅力的な選評に誘われて読んだのだが、私にはいささか退屈だった。決して嫌いなタイプの作品ではないし、文体は魅力的だし、何より色気のあるところがいい。それでもやっぱり退屈…。 100枚くらいの作品なら飽きずに読み進めたのだろうが、この文章でまとまった量を読むと、はっきり言って、飽きてくる。この1冊を読む間、私は3冊の本を読了した。 なにが足りないのかな。そう、なんか、足りないんだよね。なんだろう? 石原慎太郎氏が芥川候補作を評して、身体性の欠如といったが、それなんだろうか。 individualな身体性とは無縁なところで書かれた小説だって、優れたものがあるだろうし…いや、石原氏の身体性というのは、そういうカンタンな謂ではないのだろう、きっと。 なにが足りないのかな? 足りないものがあればの話だけれど。
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瓜二つはどこ行った
この作品はマジックリアリズムなのだろうか、作者はそのつもりなのだろう、そんな論評を読んだ記憶がある、しかし、マジックリアリズムは、まずリアリズムであることが要求されるという大前提を吟味する必要がある、それは、でたらめ、はったり、出たとこ勝負とは別のものだ、軸を作っておいて、作者の都合でそれを勝手にあちこち移動させたり、自由度を途中から変更したりはできない、この作品は単に内容の乏しい凝った手品の域で、読者に無益な負荷を与え、無用な混乱を生じさせる小説の形を借りた社会的な迷惑の変種のようなものである、 作者はマジックリアリズムは、単に配列のことだと思っているんじゃないか、 配列は単純よりも複雑化したほうがいい、配列を追求すること自体に芸術としての意味がある、配列の創意工夫が大胆であれば小説が不出来でもかまわない、そんな風に勘違いしているようだ、配列上の複雑さを読み解くのも読者の楽しみの一つにはなりえるだろう、それまで意識できなかった心的領域の開拓、新たなイメージとの出会い、固定化した認識システムの可変性への契機、これらの副産物は、読みやすい文章と単純な中身(ストーリー)では得られにくい性質のものだろう、 だが、配列はその作品固有の一つ型であり、そこになんらかの実体を流し込んで、型から外す必要がある、 外されたものが(型を意識しなくなったものが)作品であり、ひるがえって作品は型からその良し悪しや真価を語るものではない、 この作品の一番の問題点は、ストーリーがないようでいて、型が展開されるストーリーに依拠して独立しておらず、読者は型への意識の集中を中断したり再開したりを余儀なくされ、対になるストーリーがきわめて従来的、保守的、説話的――簡単にいえばホームドラマ――であるため、ストーリーからひるがえって型そのものの魅力が次第に失われ、読者が不幸な形で(面白さではなく、退屈さで)型を意識しなくなってしまうことにあるようだ、 南米のマジックリアリズムの旗手たちの、あの激しい生き様が方法論と高い次元で合致し調和したからこそ、それは新たな運動としての価値を持ちえたのであり、片方のみを貧弱な形で模倣しただけでは、マジックリアリズムの前に芸術かどうかはもちろん、文学かどうか、小説かどうか、の立ち位置が危ぶまれる、 瓜二つ、これは魅力的なテーマだ、だが、ここから始めてすぐそれが見えなくなり、どっかの資料を抜書きしたらしい、面白くもなんともない、ただの枚数稼ぎに思えるチョコの歴史に移行して、どっかの名画座の一シーンの模倣をしたあたりで、ああこれは終わった、と思った、 この書き手の最大の欠点は、すぐに書き疲れをすることだ、 書き疲れると、美名の下に逃げを打つ、その逃げは取ってつけたような全体に作用しない「ちょっとの混乱」であり、これが本人の意識の中でマジックリアリズムという高尚な次元に置き換えられ、またかよ、という読者の辟易をかまうことなく、何度でも繰り返される、 妹が怪力になってみたり、両親がなぜかよそよそしかったり、恋人への告白に何年もかけてみたかと思うと、皺の入った婆さんになっていて、しかも巨人女に変身して、この女を奪って、この女がその後普通の主婦として振舞う――このあたりで、ぼくは作者の手の内がだいたい読めた、免疫ができてしまって、このくだりは本編と関係ない、そろそろ次の段落あたりに目くらまし(物理的、時系列的に起こりえないことが起こる、安直な転位)をかますな、と見えてくる、作者の得意技は、タコが墨を吐いて逃げる、スカンクが悪臭を放って逃走する、に近いように思われる、また逃走の後のケジメがない、だが逆に言うと、後半は「タコの墨」という作者のもち芸を見てやるか、という変にふんぞり返った演芸場にいる自分自身を見出してもいた、 べつにオチなどつけなくてもいいのに、産婦人科で時々起きる新生児の取り違えをラストに持ってきた、これは恥の上塗りである、 作者は頭のいい、毛並みのいい人なのだと思う、小説の文章がちゃんと書けてる、小説の文章が一行も欠けない小説家が大勢いる現況を考慮すれば、たいしたものだ、ただしそうした美質に由来する洞察の甘さもセットになっている、この人の文章は(というか活動は)、人を傷つけない、うがった見方をすれば、勤め人である作者は小説を書くという作業をつうじて、もう一つの就職活動を要領よくやっているようにも見えてしまうのだ