作品情報
受賞作『未明の闘争』の書誌と作品情報を、掲載誌 ID を混入させずに整理しました。
Amazon JP/NDL/出版社系の公開書誌で紙書籍の ISBN を照合し、978 系 ISBN-13 から ISBN-10 を換算しました。日本の紙書籍として ASIN は ISBN-10 と同値で補完しています。 あらすじ・評価情報は受賞作単位で扱い、書誌識別子は単行本、文庫、短編集、または長編として確認できるものだけを採用しています。
書籍情報
- 出版社
- 講談社
- 発売日
- 2013-09-28
- ページ数
- 539ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784062184922
- ISBN-10
- 4062184923
- 価格
- 1656 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論
「西武百貨店の手前にある「ビックリガードの五叉路」と呼ばれているところで、私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。」…まず冒頭のこの文章で悩んでしまうのだが、読み進めると、無性に大切なものを抱きしめたり、眠ったり、子供の頃を思い出したり、セックスしたり、何処か知らない所に行きたくなる。チェーホフ、宮沢賢治、小島信夫、セシル・テイラー、三上寛に彩られたこの小説は、今を大切にしたくなる本の最高峰である。 「ずいぶん鮮明だった夢でも九年も経つと細部の不確かさが現実と変わらなくなるのを避けられない。明治通りを雑司ヶ谷の方から北へ池袋に向かって歩いていると、西武百貨店の手前にある「ビックリガードの五叉路」と呼ばれているところで、私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。」 これは『未明の闘争』の始まりなのだが、引き込まれながらも、違和感を感じ、いろいろと考え悩んでしまう人もいるだろう。著者の保坂和志さんが『未明の闘争』について書いているので触れてみたい。 《冒頭の段落で、「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。」という文法的におかしいセンテンスが出てくるが、文章というのは記号としてたんに頭で規則に沿って読んでいるだけでなく、全身で読んでいる。だから文法的におかしいセンテンスは体に響く。これはけっこうこの小説全体の方針で、私はその響きを共鳴体として、読者の五感や記憶や忘れている経験を鳴らしたいと思った。》 鳴らされる。読み進めていると、無性に大切なものを抱きしめたり、眠ったり、子供の頃を思い出したり、セックスしたり、ジミ・ヘンドリックスの曲を聴きたくなったり、何処か知らない所に行きたくなるのだ。 そして、この小説について、ある人はジョイスに匹敵するといい、また他の人はガルシア・マルケスに比肩するといい、いやいやドストエフスキーだと話す。それにしても、大作感溢れているのに私たちの近くにあるのはなぜか。もう一度、保坂さんの文章に頼ってみる。 《作者は作品の外にいる存在だから、作品に働きかけることはあっても、作品から働きかけられることはない──つまり作者は作品に対して神のような存在であり、作品に流れる時間の影響受けない、というのが普通の作品観だが、一年くらい経った頃から「それはおかしい。おかしいし、つまらない。」と思うようになった。》そうなのだ。3・11以降の日常と非日常がごちゃまぜになっている我々の本当にリアルな現実が目の前に登場してくるから常に新しいのである。そう、この『未明の闘争』は我々の物語なのである。 チェーホフ、ゴーゴリ、宮沢賢治、小島信夫……という文学や、セシル・テイラー、三上寛、ローリング・ストーンズ……という音楽に彩られたこの小説は、【今を大切にしたくなる本】の最高峰といえる。
1956年生まれ。早稲田大学政経学部卒業。90年『プレーンソング』でデビュー。93年『草の上の朝食』で野間文芸新人賞。95年『この人の閾』で芥川賞受賞。97年『季節の記憶』で平林たい子文学賞、谷崎潤一郎賞を受賞。著書に『小説の自由』『カフカ式練習帳』『考える練習』等多数。
レビュー
-
商品は記載通り、また迅速に届きました
商品説明通り、綺麗な状態で素早く届きました。満足です。
-
奇妙でわくわくする小説が現れた
「未明の闘争」は、難攻不落の要塞というより、どこから攻めてくるかわからないゲリラ戦のような小説だ。 このイメージはたぶん重要だ。この小説は通常の小説のように構築物のイメージで読むと奇妙な難解さを呈するだろう。 しかしこの小説全体を明確な縁を持たない空間とか平原、あるいは山野のように考え、読む私はそこを逍遥すると想像するなら、一気に楽しくなる。仏教の僧侶なら「愉快!」と言って大笑いするかもしれない。 この小説には、夢と現実、過去と現在、という区別はない(おそらく、原因と結果も、さして問題にされていない)。書かれていることを私が読んでいる時間は、すべて現在であり、その現在は夢でも現実でもなく、〈小説の現実〉ということになるだろう。さらには、読む私の胸に去来することもまた、この小説の現実となる。私はそう考えたい。
-
評価が難しいが、残念ながら傑作とは言い難い。
発売直後に買って一度読んだ時点で、ツイッターにこんな感想を書いた。 『未明の闘争』読了。率直な感想を言うと、今までの集大成的な「傑作」になってしまうのを、 ラスト数十頁で意図的に避けたような感じ。もうすぐ終わるのにこんな終わり方で本当にいいのか!と 大いに気をもむ感じが、『天人五衰』にちょっとだけ似ている。連休中にもう一度読む。 その後、初読時とは違う冷静な頭でもう一度読み返してみたら、結局今日までかかってしまったのだが、 やはり残念ながら、『季節の記憶』『カンバセイション・ピース』『カフカ式練習帳』に並ぶ傑作とは 言い難いというのが、率直な感想だ。そう感じた理由を、以下にいくつか挙げてみることにする。 (1) 小説内での夢の取り扱いは、保坂和志をもってしても難しい。 表題にある『未明の闘争』とは、端的に言ってしまえば「夢」の謂いだろう。 冒頭の「死んだ篠島が〜」の場面からして夢落ちだし、「私」の猫や犬その他をめぐる回想が、 「アキちゃんと小林ひかるの2人と深夜に話す」「村中鳴海と小旅行に出る」という主要な2つの挿話と 円環状に絡まり合って、通常の論理や時間軸を踏み越える形で自在に繰り広げられる語りの構造は、 この小説の全体が夢として描かれているということを強く感じさせるが、この「通常の論理や時間軸を 踏み越える」というところに、おそらく罠がある。 保坂自身が、『書きあぐねている人のための〜』の中で、回想はなるべく使わずに時系列で書くように 勧めていて、その理由として、「回想は便利なのでスラスラ書き進められるが、小説の中の現在時には 何ら変化をもたらさない」ことを挙げていた気がするが、小説内で夢を取り扱うのはそれ以上に難しく、 さすがの保坂もその陥穽からは逃れられなかった感がある。 これも保坂自身がどこかで書いていたように、夢には特有の「真に受ける感じ」があって、目覚めてから 明らかにおかしいと思うようなことでも、夢の中では切迫感とともに受け入れてしまうのは、夢には夢 なりの倒錯した論理があって、その枠内ではあくまで首尾一貫したものとして構築されているからなの だろうが、そのように感じさせるだけの内的な強度が、この小説の語りからはもうひとつ感じ取れなかった。 別の言い方をすると、単に論理や時間軸といった制約条件を取り払うだけでは、むしろ作者の恣意性の ほうを感じさせてしまいがちであり、夢が夢として成り立ち得る強度を獲得するためには、通常の論理や 時間軸とはまた別種の強固な制約条件が必要なはずだが、時々主語述語関係が狂うといった程度の 工夫では、到底そこまでは届き切らなかったということになるだろうか。 (2) この小説のテーマ(「テーマ」という言い方を保坂は嫌うだろうが、それ以外の何なのかとも思う) であるところの、アキちゃんが語る「前世」(というか「永劫回帰」)のイメージに、どこか思いつきの ような軽さというか、練り上げ不足感がある。 おそらく、10年前の『カンバセイション・ピース』と比べてしまうからそう思うのだろうが、あの作品では、 「(人ではなく)家が記憶する」というテーマが、作品を通じて何度も変奏されるうちに徐々に深まっていき、 結末近くで一種のカタルシスがもたらされるという構成になっていた。 今回、アキちゃん自身が完全には納得し切らずに喋っている、「アニメのセルが何枚も何枚も重なって 一枚にしか見えないようなこと」(p.332)、「無限回繰り返す無限個の宇宙はまったく同じこの空間に 重なって存在してる。それは何万光年離れてるのと同じことだ」(p.451)といったイメージには、 (1)で触れた作品全体の構成と同様に、どこか生煮えのまま放り出されたような中途半端さが感じられる。 少なくとも、『カンバセイション・ピース』でのように、通常の論理で考えればまずあり得ないような ことではあっても、小説全体を読み進むうちに、「それもアリだよな」と肯定するような思考回路が生まれ 始めているといったことは、今回はなかったように思う。 ※ ついでに言うと、「前世」という言葉を決して通常の意味では使わない割に、「友達」の猫のポッコが 死にかかった際には、「いまポッコの魂が去ってゆくのがジョジョにわかってそれを追いかけたと、 友達にも妻にもわかった」(p.413)というように、「魂」という言葉を無防備に使ってしまうあたりにも、 やはりどこか中途半端さを感じる。 (3) 全体に猫のことを書き過ぎだし、文章の「粒度」みたいなものがやや粗い気がする。 「猫に興味がなければ読むな!」と保坂は言うだろうが、私自身、猫が好き(保坂作品を読む理由の一つが それ)であるにもかかわらず、今回はあまりにも猫のことばかりを書き過ぎだと感じた。「チャーちゃん」の 死が切実なものだったことはわかるが、何度も何度も垂れ流すように書かれると、さすがにこれはどうなのか (もっとほかに書くべきことはなかったのか)、と思ってしまったのも事実だ。 それ以外にも、猫の病気や老醜に触れた部分が多いためか、帯の宣伝文句にあるように、「やみくもに 大切なものを抱きしめたり、ロッド・スチュワートが聴きたくなったり、眠ったり、子供の頃を思い出したり、 セックスしたり、叫びたくなったり、何処か知らないところに行きたくなる、」といったような、軽やかだったり 高揚したりという気分にはなれず、読んでいてむしろ重苦しさやキレの悪さのほうを強く感じた。 上記以外にも、たとえば横浜でシーバスに乗る場面の風景描写が、どこか書き割りのようでいまひとつピンと 来なかったり、ラスト近くの数十ページになって、それまで出てこなかった数匹の猫の話がとくに工夫もなく 延々と続いたりと(一応最後で辻褄が合うようになってはいるが)、「あれ?」と思うところはいくつもあった。 全体に、「保坂が書いてるんだから、こういう粗い書き方をしても面白くならないはずはないだろう」という、 一種の開き直りというか不遜さのようなものが感じ取れてしまい、すごく期待して読み始めただけにいかにも 残念ではあるが、今回はこういう評価になった。
-
小島信夫の「残光」を保坂和志もやってみた
保坂の小説をいろいろ読んできたし、ドラマがないのはいつものことなんだけれども。ここでは、保坂は意欲的に、小島信夫の「残光」みたいな書き方をしている感じがする。あ、「残光」は小島の最後の長編で、90代となった作者のあやしい記憶が、としよりらしいくどさで書かれた作品。 で、本書はどんな感じで書かれているのかというと、ある時点から追想に進み、そこからまた別の追想の場面へと続く。現在はいつなのか、ということがまったく意識されない。そんな風に小説は進んでいく。でも、だからといって、話のすじが追えないような難解な小説でもない。というか、すじはそもそもないし。 この小説は、死んだ友人が道路を歩いているという光景からはじまり、病気の猫の死で終わる。保坂の「世界を肯定する哲学」では、自分が死んでも世界はある、ということが述べられていたけれども。この小説では、誰もが死ぬ、けれども世界は続いていくし、残された者は生きていく、そうした哲学が、感覚として伝わってくる、そういうものなのだと思う。それを、どのように闘争というのかは、なかなかうまく言えないのだけれども。
-
朝露のように・・・
・・・小説は朝露のように消え去り、読者自身の幸福な記憶が残る。 それが理想だ・・と作家は述べた。 私の曖昧だが幸福な記憶も残りつつ、この作品の鮮烈な記憶は残っているから、「未明の闘争」は作家の思う理想を超えている。 数年前に読んだ小島信夫の「寓話」読後の興奮を遥かに超えた、だから昭和無二の文人小島信夫の正しく唯一の正統な後継者がこの作家であるような気がする。 チェーホフの学生の「発見」は、村中鳴海の涙はいつまでも止まらずクライマックスに到達する・・もちろん、これは読者たる私の勝手で自由な解釈だ。 勝手ついでに、猫や犬の描写は、私はこれを擬人化して読んだ。 そうすることで、更にこの作品は私にとってジョルジュ・ブラックの絵画を見るような光彩に満ち溢れる。 作家の多くのエッセイは悉く優れた哲学書だと感じていたから、「未明の闘争」を力強く読んだ。 死の床で読むのは遅すぎて、いま読めた幸福を感じる。 同じ空間に生きているこの作家に敬意を表したい。
-
思わせぶりっこ全開のウルトラ堕本
恐ろしいことに、第一パラグラフから無理筋の感覚が要求され、二つのセンテンスからなる第一パラグラフ中の後ろの文章は非文なのだ! 私はどんな作品に接するときでも極力先入観なしに受け容れられるよう常日頃心掛けているが、これはもう、話の始まる第一ページからアウトだ。きっとルイスキャロルやジョイスを踏襲した果ての、読み手の脳内補完要求度の高い、現代に至って洗練された小説作品に違いないと気を取り直して読み進め(苦痛にも最後まで)読み切った上で、はっきり言わせてもらう。はい、掲題を再度確認。 非文は似たようなのが本作中に数え三箇所現れる。「あ、誤植」とか「ちょっと間違っちゃいました」とか「いやなんの、意図してのことです」というレベルではない。この著者ってロクすっぽマトモな日本語が書けないのか。文芸作品評価以前に目に余る問題だ。読み手の言及がないことからも、これを好む読者や審査員の低質を読み取れてならん。 内容ももうどうしようもなく下らない日常経験を700ページ余りダラダラ連ねている代物でしかない。文芸の連中がよくやるように、当作品でもショーペンハウアーやボルヘスやカフカ等を引き合いに、なにやら意味深長振ってみせるが、作者は彼らの書物を一般理解程度にも捉えられていない(というのは、同著者の「カフカ的練習帳」でも同様の態度が見て取れるからだ)。作中に引用のある固有名詞で唯一マッチするのは「ザ・中沢新一」だ。アッチいっちゃうのは好き好きで結構だが、いった先から帰ってくるのはやめてもらいたい、こんなモン面白がる奴ひっくるめてバロウズの爪の垢を一分子もないくらいに希釈したレメディ煎じ茶でも飲ませてやりたい、そんな風に思わないではいられない作品。 これ、野間ナントカ賞獲ったんだよね? それって文学界のセーフティネットかなにかなのか? これ、知人から借りて読んだんだけど、もう二度とこの手のファッショナブルナンセンス・オブ・エクスパンデッド・フェノタイプは目にしたくない。 以上だ。
-
猫と暮らしている毎日を書いた本です。
大変面白い。私は、犬派だけど、猫派の人の気持ちも分かりそうな気もする。女性にひっかかれるのと、猫にひっかかれるのと、同じ感触とか聞いている。この作者は、マゾっ気がする。
関連する文学賞
- 野間文芸賞 第66回(2013年) ・受賞