作品情報
小説は、自伝と他者の顔のあいだで揺れ続ける。
講談社から2021年に刊行された長編で、第44回野間文芸新人賞受賞作。『群像』連作を大幅に加筆・改稿し、暴力と創作の境界を描き出す。
書籍情報
- 出版社
- 講談社
- 発売日
- 2021-11-10
- ページ数
- 322ページ
- 言語
- 日本語
- サイズ
- 12.7 x 1.8 x 19.5 cm
- ISBN-13
- 9784065260364
- ISBN-10
- 4065260361
- 価格
- 1980 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/文芸作品
横溢する暴力と身体、無垢なる魂の軌跡。「やさしく恋するみたいに他の人体を壊す」 元同級生あべくんからのメールにあった文章から着想したシーンをつないで、 商業作家はあべくん自身の人生を小説にしようとする。 父による母殺傷事件、両親がころしころされていたあべくんはやさしく恋するみたいに他の人体を壊す。 殴られても反発するようによろこぶ身体。やさしさや暴力で愛撫し合い痛みをこらえるようによろこぶ身体。 物語にかえろうとするから人生はつらく、日常が重すぎてひとをころしたくなる。 恋人をころして自分も死んだところで折り返し、あべくんの物語は無限に再生を繰り返す。 小説家があべくんなのかあべくんがかれなのか、やがてふたりの境界は曖昧になり、問い自体が意味を失う。 言葉を与えられていない領域に光をあて小説は紡がれ、大量虐殺の記憶が時空を架橋しやがて物語は侵蝕される。 ーー世界文学に接続する芥川賞作家の真骨頂・新境地。ーー 鴻巣友季子さん絶賛!読書量と強靭な知性に瞠目! “すべてのポートレイトは画家の自画像であり、すべての小説は自伝を目指すと言う。おそらくすべての小説はどこかしら、一人称の失恋なのだ。” “小説でなにかを「再現」することは、過去のよみがえりのように見えて、未然の予告なのだ。すべてのフィクションは自伝を目指し、すべての自画像は他人の顔をしている。” “かきあうこと、傷しあうこと、死にあうこと。「かれ」と「私」、その人称空間のよじれは経験と真実味との落差そのものだ。落差から、小説は来る。”――鴻巣友季子(翻訳家)
町屋 良平 1983年東京都生まれ。2016年『青が破れる』が第53回文藝賞を受賞しデビュー。2019年『1R1分34秒』が第160回芥川賞を受賞。
レビュー
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難解であるが、突き抜けた面白さ
読み応えあり。力作だ。
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傑作
ずっと本当の言葉を使わなくてはならないという純文学を純文学にさせる掟をひたすらに身体に染み込ませ筆者が小説に取り組んでいることは確かであり、その密度濃度純度の高さに目眩がするほどである。 小説に自分の人生や経験を記すだけではなく、小説の中に入ってその中でもがくことが出来るということが身体を持ち生きているということであり、それが言葉によって行なわれているので我々はその痕跡を辿るように読むことができている。 だがそれを評する時にストーリーなどからくる面白い面白くないなどの見方では筆者がもがいていた世界から降りてレベルの低い、二次的な位置にしか読者が立てないことを証明してしまう。 我々にできることはこの小説の持つエネルギーを浴びて汗をかいて、また自分が生きていることを実感することであろう。
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地元小説
越谷市が舞台になっており私にとって地元小説。北越谷駅が三つ目とあるから、蒲生住みかと思ったが、せんげん台らしいので、せんげん台駅を一つ目として数えているのかな。私小説をメタ化して「あべくん」という殺人者の息子について書くと言う入り組んだ小説だが、あまり入り組んで難しいという感じがしない。ナチスねたは嫌いなので最後のほうが嫌だが、ジャン・アメリーとかクロード・シモンとかを介在させていることでそれもいいかという気がした
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どうしてわたしとあべくんは混じらなければならないのか。または現実(私小説)とフィクションのミルフューユ
この小説の語りに関する構造はあらすじに示されている通り、”元同級生あべくんからのメールにあった文章から着想したシーンをつないで、商業作家はあべくん自身の人生を小説にしようとする。”ことから入り組んだ人称で進むものである。 これが具体的にどういうことなのかというと、商業作家がわたしの立場で語ろうとする時の彼とはすなわち「あべくん」であるし、あべくんが主体となった時に語られる彼は「商業作家」ということである。 冒頭からある一定の段階まではこの構造は厳格に守られるのであるが、またも手抜きで引用するが”小説家があべくんなのかあべくんがかれなのか、やがてふたりの境界は曖昧になり、問い自体が意味を失う。言葉を与えられていない領域に光をあて小説は紡がれ、大量虐殺の記憶が時空を架橋しやがて物語は侵蝕される。”となる。ポエティカルに表現されているが実際どうなのかというと、後半、一気に分かりづらくなる。 このギミックはつまり対象を語るときに自身を主体として語ろうとするか、あるいは他者、客体として語ろうとするかという線引き、これについての示唆である。商業作家が告解するように”自身の文体はあべくんの文体に多分に影響されている”とあり、これら構図を透かし見てみると、のちに殺人と自死を果たす対象を観察し語り、時に自己のようであるかのように補いて想像し語り振る舞い、そして商業作家(=自身)にまで小説の断片までの創作しそして送るという本来発端となっていたはずの事象までを語ってしまうと、既に事切れて果てているはずの対象(あべくん)が今の自身を追い越し、ほとんど尾を食らう蛇のように作中の状況は入れ子になってしまう。 後半一気に分かりづらくなってしまうポイントが本来何を示しているかというと、シンプルに(作中作における)作者の混乱である。本来、二人羽織の黒子のようして語るべき対象に近づきすぎたがため、合わせ鏡のように”自己”と”あべくん”の立ち位置が融解してしまった中で語られる自己と他者に関する供述であろう。 ラストシーン、自己も他者もなくただスケッチのように起こってしまった事象を語られていることの意味とは、すなわちその最後を語っているのが商業作家ではないことを指すだろう。シュチュエーションを示すことで、現に語っていることよりも言外により多く情報量を内に入れ込んでいるという、非常に興味深い小説である。
関連する文学賞
- 野間文芸新人賞 第44回(2022年) ・受賞