作品情報
法廷の言葉が、ひとつの事件に潜む複数の真実を照らし出す。
『事件』は、大岡昇平が裁判の進行を通じて真実の揺らぎを描く法廷小説である。単純に見えた殺人事件が証言と審理の積み重ねで複雑化し、裁判がどこまで事実に迫れるのかを問う。 法廷の言葉が、ひとつの事件に潜む複数の真実を照らし出す。
書籍情報
- 出版社
- 新潮社
- 発売日
- 1980-08-27
- ページ数
- 599ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784101065083
- ISBN-10
- 410106508X
- 価格
- 93 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/文芸作品/日本文学
結婚相手の姉を殺害した容疑で少年が逮捕された。裁判は予想に反して複雑な様相を呈していく――裁判における〈真実〉の意味を問う。
レビュー
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神奈川県民におすすめの一冊
ストーリーだけではなく、神奈川県の長後地区の昭和30 年代当時の描写が興味深く、楽しめます。神奈川県民におすすめの一冊だと思います。
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真実とは何か
裁判の推移を軸に据えて、物語は進む。序奏は静かに、中盤以降、一気に走り抜ける。 読み応えのある小説であるが、話の展開が少々都合良すぎはしないか、という面もある。裁判の決着はついても、真実は何か、という重い問いは残される。裁判の限界を暗示している。真実は当人の心の中だけにある。 若山富三郎主演のNHKドラマを思い出した。いしだあゆみの熱演が記憶に残る。もう40年近く以前のテレビドラマであった。わたしも20代であった。
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商品状態の評定
古い本なので仕方がないですがもう少しランクが下かなと思いました
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人の世はウソとマコトの綾綴
この作品には、二つの貌(かお)があります。一つは裁判小説という貌、もう一つは青春小説という貌です。 作品の全体的な印象は裁判小説としての貌がまさっているのですが、しかし連載開始当初の題名は「若草物語」だったとか。作者の脳裏には、十九歳の男女(宏とヨシ子)が織りなす恋愛悲劇に焦点を当てたいとの思いもじゅうぶんにあったのではないでしょうか。 裁判であつかわれるのは、ささやかな「事件」です。宏が恋人ヨシ子の姉を刺殺した。でも彼は、刺した瞬間を覚えていない。なぜ刺してしまったのかも、よくわからない。気がついたら相手が足もとに倒れていたというのです。 裁判では、殺意の有無、犯行にいたったいきさつ、目撃者や関係者の証言、数々の証拠品などをもとに「真相」を探ります。検事、弁護士、裁判官の心理も、小説のなかでは克明につづられます。 日本の法曹界(昭和三十六年=一九六一年=当時)の実状も、いたってくわしく描写される。驚くほどです。さぞかし大岡昇平さんは調べられたんでしょうね。英米法などとのちがい、また戦前・戦後の法体系の変化についても言及しています。 じっさいこの作品は出版後も、法曹関係者の意見や指摘を受けて、何度も手直しされてきたということです。そのことが「あとがき」に吐露されています。 この作品にふれて、いろいろ考えさせられました。 まず「殺意」の有無について――。殺したいとの意志は、被疑者にあったのか、なかったのか。二者択一で判定することは、おそらく不可能なのでしょう。 そもそも「意志」とは何か。人が実行したことは、その人の意志による、と百パーセントいえるのかどうか。 たとえば、お昼はラーメンにしようか、カレーにしようか、迷っているきみがいる。やがてきみは「ラーメンにしよう」と決めた。その決断は、百パーセントきみの「意志」によるものなのか。 きのうはカレーを食べたので、きょうの胃袋はなんとなくラーメンを欲した。となれば、きみの自由な意志による選択ではなく、胃袋に引きずられた結果といえるでしょう。 あるいは、たまたま昼飯を一緒にすることとなった同僚の思いを、無意識のうちに忖度した結果……ということも考えられる。 ようするに、個人の百パーセント自由な「意志」はありえないということなのです(くわしくは國分功一郎『中動態の世界――意志と責任の考古学』=医学書院=をご参照ください)。 すなわち「あった/なかった」という二者択一で殺意の有無を判定することはできない。厳密に言語化するなら、たとえば意志の濃度なるものを考慮して、それを数値化するしかないのでは? 殺意二五%とか、殺意五六%とか、殺意九七%とか。しかもそれは時間とともに変化するはず。殺意一〇〇%、もしくは殺意ゼロ%の二つのパターンのみがあるわけではない。 宏の行為は、殺人罪にあたるのか、それとも傷害致死罪か、過失致死罪か。 殺人罪は殺意があった場合の罪。傷害致死罪は、殺意の有無に関わらず、傷害の結果として相手が死んでしまった場合の罪。過失致死罪は、暴行や傷害の意図はなかったのに、どうしたはずみか相手が死んでしまった場合の罪。この三つの罪でさえ、正確に判定するのはむずかしいのではないでしょうか。 なぜか。そのむずかしさは、そもそもわたしたちホモ・サピエンスが使っている「言語」に由来するものであると思われます。言語で表現できることは、じつはあいまいなのです。「犬」といっても、人により思いうかべる犬のすがたはさまざまです。言語には虚構性がつきまとっている(このへんのくわしい話は、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』=柴田裕之訳、河出書房新社=をご覧あれ)。 裁判は、いうまでもありませんが、「言語」を使って進行します。しかしことばには、どうしても虚構がまぎれこむ。はっきりいえば、ウソがまぎれこむ。意識的であれ、無意識的であれ、まぎれこまざるをえない。ホントのことばかりを百パーセント語りつづけることは不可能なのです。 ある人は、ウソには「黒いウソ」と「白いウソ」があるといいました。「黒いウソ」とは、自分のためにつくウソのこと。「白いウソ」とは、人のためにつくウソのこと。おそらくその中間にも「灰色のウソ」なるものが、さまざまな濃度をとりながら限りなくある。 仏教用語でウソは「方便」といいます。方便には三種類あるとのこと(法用方便、能通方便 、秘妙方便。くわしい説明ははぶきます)。それぞれ存在価値のあるウソなのです。 ウソをただちに「悪」と断定することはできません。ホントのことだけをいって人生を歩んでいくこともできないでしょう。 法曹界には「被告人は弁護士に真実の七分を言う。検事には五分を言う。そして法廷に出るのは三分にすぎない」との言葉があるそうです。 まことに、人の世はウソとマコトの綾綴(あやつづり)なのです。 國分功一郎さんは別の本(対談集)で、こんな体験を語っています。ある講演会でのことだったそうです。 ……最後の質疑応答で、「私は犯罪の加害者なんです」と前置きされてから感想を述べてくださった中年の男性がいらしたんです。僕はその講演で、「自由意志というのは存在しません」という話をしたんですが、その男性はその話を聞いていて、涙してしまったと言うのです。そしてこんなことをおっしゃいました。「自分はずっと罪の意識を持たなければならないと思ってきたけれども、それがどうしてもうまくできなかった。ところが講演を聞いていて、自分ははじめて罪の意識を感じた。自分が悪いことをしたと感じた」とおっしゃったんです。僕はびっくりした。 …………………… 僕は刑務所に行ったこともないし、その方が刑務所でどう過ごしていたのかもわからない。でもその人はずっと「お前は悪いことをしたんだ、反省しろ」と周りから言われ続けてきたのではないか。そしてもちろん自分でも、反省しようとしていたのでしょう。けれども、そう言われたからといって人間は反省できるわけでもないし、そもそもなぜ自分がそんなことをしてしまったのかもわからないかもしれないし、きっとどうやって反省したらいいのかもわからない。 おそらくその方は「お前は自分の意志で犯罪を犯したのだ」と周囲から言われ続けてきたのでしょうし、自分でもそう思っていたでしょう。だから、むしろ逆に「自由意志など存在しない」という話を聞いて、意志が免罪されたときに、逆に自分が犯した罪を引き受けようとする責任感が生まれたのではないか。そう思ったんです。 (國分功一郎+熊谷晋一郎『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』新曜社) 胸にこたえる話です。「責任とは何か」「責任をとるとはどういうことか」を考えさせられました。 主人公の宏も自責の念にさいなまれます。ヨシ子のおなかには新しいいのちが宿っている。「おれみたいな父親を持った子供は、ふしあわせだ」となげくのです。 人を殺してしまったという現実と、責任をどうとればいいのかという気持ち――。その折り合いを、どう付ければいいかがわからない。大岡昇平さんの作品は、その微細かつ微妙な心理をも描いてやみません。 宏が川越の刑務所に収容されたのち、この作品の末尾には恋人ヨシ子のその後が、ほんの数行、記されています。 ヨシ子は面会に行く便宜を考えて、川越に近い飯能(はんのう)丘陵の中腹の、雑木林の中に建った保育園に勤めることにきめた。彼女には子供に歌やダンスを教えるような教養はなかったが、雑役婦として無償に近い給料で住み込んで、自分の子供を育てながら、ほかの子供たちに少しでもいい食事を与え、清潔な部屋で遊んで貰うように努めることに、宏の出所を待つ間の生き甲斐を見付けて来た。…… わたしは涙がこみあげました。ヨシ子、がんばれよ! 宏も、まだ若いんだから、新しい気持ちで人生をスタートしろよ! 生まれてきた子を大切に、立派に育ててね。 祈るような気持ちで、わたしはページを閉じました。 (了)
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リアルな裁判物
まず、事件そのものが地味だし、カッコいい弁護士が登場するでもなく、劇的な大逆転があるでもない、昭和36年のお話ですが、それから現在まで、裁判が相当に変わっているのだろうとは思いますが、そうした中でも、目から鱗が落ちるようなリアルな裁判のお話でした。
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面白くて引き込まれました
ドラマになったことは知らず、俳優のイメージは無く読みました。法廷でのやり取りが興味深く、引き込まれました。
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到達しうる真実とは
小さな町で起こった少年による痴情殺人事件の裁判をドキュメンタリタッチで追っていく小説。日本の司法制度や裁判官、弁護士、検事の基本的性質が細かく説明をされている。ある証人の発言から真実が徐々に明らかにされている。裁判でどこまで真実に迫れるのか、神のみぞ知る真実にどう迫るのか、を考えさせられる小説。
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、、、
映画のほうがおもしろかった。。
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