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燃えつきた地図 (新潮文庫)

新潮社文学賞

燃えつきた地図 (新潮文庫)

安部公房

『燃え尽きた地図』は、失踪者を追う興信所員が都市の迷路の中で自分自身の輪郭を失っていく長編小説である。探偵小説の形を借りながら、現代人の孤独、匿名性、存在の不安を鋭く描く。

戦後文学自己と社会記憶

作品情報

『燃え尽きた地図』は、時代の気配と人間の内面を重ねて読ませる受賞作である。

新潮文庫版が現行流通し、出版社公式でISBNとページ数を確認できる。 作品本文は、題材の輪郭を追うだけでなく、そこに関わる人間の感情や社会背景を浮かび上がらせる。受賞作として、同時代の読者に届いた問題意識と表現の持続力を併せ持つ。

レビュー要約

  • 読者からは、題材への踏み込み方と文章の密度を評価する声がある。一方で、時代背景や専門的な文脈を前提にする部分は、ゆっくり読み進める必要があると受け止められている。

書籍情報

出版社
新潮社
発売日
1980-01-29
ページ数
416ページ
言語
日本語
サイズ
14.8 x 10.5 x 2 cm
ISBN-13
9784101121147
ISBN-10
4101121141
価格
935 JPY
カテゴリ
本/文学・評論/文芸作品

都会――閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。すべての区画に、そっくり同じ番地がふられた、君だけの地図。 だから君は、道を見失っても、迷うことは出来ないのだ。(本文より) 失踪した男の調査を依頼された興信所員は、追跡を進めるうちに、手がかりとなるものを次々と失い、大都会という他人だけの砂漠の中で次第に自分を見失っていく。追う者が、追われる者となり……。 おのれの地図を焼き捨てて、他人しかいない砂漠の中に歩き出す以外には、もはやどんな出発もありえない、現代の都会人の孤独と不安を鮮明に描いて、読者を強烈な不安に誘う傑作書下ろし長編小説。 本書「解説」より 『燃えつきた地図』は安部公房の傑作の一つであるばかりでなく、現代日本文学の有数の傑(すぐ)れた小説だと思う。作家としての安部氏の履歴では、プロットや人物の自然な展開等のような在来の小説の慣習を破る最初の小説であった。勿論、短編や戯曲の場合、安部氏は前衛的ないし超現実主義的な技術を活用することがあったが、長編の方は、冒頭に述べた前提から合理的に発展したものだと言ってもよかろう。 ――ドナルド・キーン(コロンビア大学名誉教授) 安部公房 (1924-1993) 東京生れ。東京大学医学部卒。1951(昭和26)年「壁」で芥川賞を受賞。1962年に発表した『砂の女』は読売文学賞を受賞したほか、フランスでは最優秀外国文学賞を受賞。その他、戯曲「友達」で谷崎潤一郎賞、『緑色のストッキング』で読売文学賞を受賞するなど、受賞多数。1973年より演劇集団「安部公房スタジオ」を結成、独自の演劇活動でも知られる。海外での評価も極めて高く、1992(平成4)年にはアメリカ芸術科学アカデミー名誉会員に。1993年急性心不全で急逝。

レビュー

  • 読みやすい

    すごく良かった

  • 個人的に、安倍公房最盛期の頃ではないかと

    初期作品から数冊読んでいますが、この頃の安倍公房作品が私はもっとも好きですね。

  • 「私」の解放可能性について

    「都会――閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。すべての区画に、そっくり同じ番地がふられた、君だけの地図。だから君は、道を見失っても、迷うことは出来ないのだ」 著者の他作品である『砂の女』『他人の顔』『箱男』『壁』などと同様、社会における「私」について考えさせられる、安部公房らしい一冊。「ここではないどこか」を願う思いは、いかにして満たされうるのだろうか。「私」は「私」を捨てて逃げ去ることができるのだろうか。筆者の言にもありますが、都市文明社会に生きる「私」の「私」からの解放の可能性について考えさせられました。 一冊の面白さ、安部公房文学への入り口という観点からは『砂の女』をおすすめします。 安部公房の作品をいくつか読んでみたいというのであれば、そのうちの一冊としておすすめです。

  • 最後が。

    最近公房さんにハマってしまった。展開が面白くて止まらなくなるが最後が、?、って感じか。

  • ビンスワンガーの自然な経験の一貫性の分解を地でゆく小説

    ***このレビューでは、あえて“分裂病者”、“正常者”ということばを使っていますが、差別的な意味ではありませんので、どうかご了承ください*** 安部公房のいくつかの小説には共通点ともいうべきテーマがあります。主人公の男性はある日、突然迷路のなかに迷い込んでしまい、そこからなんとか脱出しよいとするが、結局うまくいかないというものです。 これはそもそも、このテーマ自体が、きわめて親分裂病的な性格を帯びています。 『砂の女』では迷路を構成しているのは“砂丘”で、最後、主人公は、迷路になぜか、違和感を感じることがなくなり、脱出を放棄してしまいます。 この『燃えつきた地図』は、読むうえで、『砂の女』とはことなり、ふたつの予備知識を要すると思います。 ひとつ目は、この小説で迷路を構成しているのは“都会”や“現代”などではなく、“坂の上にある町”、“勾配の町”、“台町”であることです。 “坂の上”というとなにか遠くまで見わたせるかのように思ってしまうのですが、それが住宅地であると、住宅の壁や屋根がちかくにせまるので、遠くは見えないのです。ランドマークとなるような駅前の高層ビルとか、へんてこな形をした建物などが見えないので、方向がわからなくなります。空はやたら高く、まわりは似たような住宅のくり返しとなるので、位置感覚も、方向感覚もなくなって、ゆえにゆえに“坂の上の町”は迷路を構成しえます。 ふたつ目の予備知識ですが、最初に“親分裂病的な…”という表現をつかいましたが、今度は精神分裂病の定義に相当するような概念についてです。 L. ビンスワンガーという有名な精神医学者がいます。彼の主著は『精神分裂病』という上下二巻の500頁にもなる大著です。その序論の7頁で、精神分裂病の基礎的な概念を述べています。 “(A)分裂病と診断された現存在経過の理解にとって基礎的な概念は自然な経験の一貫性の分解(原著では、この12文字は横に黒点)すなわち非一貫性であることが明らかとなった” 具体例をあげます。 私の知り合いのK君(男)の部屋では、きれいなテーブルクロスが敷かれた机のうえのガラスの小瓶に、細長いスティックシュガーがいれられています。そのスティックシュガーの紙の端に、よく茶色のマジックでポチが打たれているのです。このポチはなぁーに? とたずねると、ヒ素をいれられたスティックシュガーを区分けるために印をつけているのだ、と答えがかえってきます。 分裂病者が語る“毒”とはそれがどんな表現がされていたとしても、正常者が考える生理学的な“毒”とはまったく異なるものです。 分裂病者はどんなに見知っていて慣れ親しんだ風景でも、人物でも、事物でも、ある日ある瞬間を境に、中身(あるいは意味)がすり替えられてしまったかのような感覚をいだくのです。中身がかわってしまった“なにか”となって、目の前に出現する、ということもできます。 中身が変わると、その雰囲気も変わってしまいます。彼らの頭のなかでのすり替えられてしまった風景、人物、事物のかもしだす不気味な雰囲気、それを彼らは“毒”というのです。 文庫本版の291頁の“道の表面がアスファルトではなく…”は、この小説の冒頭と文章は同じです。文章は同じなのですが、中身と意味が違います。まさにL. ビンスワンガーのいう“自然な経験の一貫性の分解”がドラスティックにおきているのだと思います。 そう考えながら291頁以降を読んでいくと、 “考えてみると、こんな程度の記憶の中断なら、これまでにも幾度か経験したことがあるような気がする(293頁)”。 “けっきょく、この見馴れた感覚も、じつは真の記憶ではなく、いかにもそれらしくよそおわれた、偽の既知感にすぎなかったとすると…(296頁)”。“手品のように、たえず誰かが、消えた町の向こうに消えて行き、かわりに誰かが消えた町から現われる…(中略)…うまい具合に、顔見知りでも通りかかってくれるとありがたいのだが。もっとも台地の町と同様、見知っているはずの顔も、見知らぬ他人に変わってしまっているのだとすると…(296頁)”。 この296頁の叙述は、正常者の“あぁ~勘ちがい、デ・じゃめ・ビュ・しちゃた!”レベルではないと思います。“自然な経験の一貫性の分解”をさせたあとで、その印象を主人公に叙述させているのだと思います。 以上、自分でも独断にみちた読み方だとは思いますが、でも、僭越かもしれないけど、特にふたつ目の予備知識がないと、この『燃えつきた地図』の296頁までは読むのは、不可能だと思います。

  • 最後よくわからなかった

    中盤まで面白かったけど、最後は意味がよくわからなかった 結局捜索してた人見つけられなかったし これが安部公房の世界観なんだろうが、正直ついて行けなかった 描写は上手いのでグイグイ読ませられたけど ちゃんと結末を書いてほしかったな

  • 読者は、ここが本当の自分の居場所なのか、ふと周りを見渡してしまうかもしれません

    「砂の女」が帰るべき家を失った男の話(砂丘の中という新たな居場所を見つけますが)、「他人の顔」が事故により表情を失った男の話(精巧な仮面により新たな人格を得ますが)とすれば、この「燃えつきた地図」は、失踪者を探し出す立場の男が、その渦中で自らを見失っていく話と言えそうです。 一週間ほどの物語ですが、非常に密度が濃く、読者も自分の居場所をふと確認したくなるはずです。 妻の元を去ってしまったサラリーマンを探し出す役目の興信所の探偵「ぼく」からして自分の妻と別居中であり、依頼人である失踪者の妻はアルコール依存症のようで、夫に関する記憶も定かでない。 更に怪しげなのは、依頼人の弟と名乗る人物で、調査状況を監視するように「ぼく」の調査先に偶然を装い姿を現します。 失踪者の勤務先の部下「田代」は、安部公房自身が語るには「最初はたいした登場人物ではなかったが、書いているうちに、勝手にどんどん動き出した」そうです。 「田代」も虚実の狭間で自分を見失ってしまった現代人そのものかもしれません。 勅使河原宏監督、勝新太郎主演の映画では、渥美清が「田代」役を演じており、原作以上の存在感を示していました。 さて、読者は終盤に幻想的な世界に引きずり込まれていきます。 自分は今どこにいるのか、ここが本当の自分の居場所なのか、ふと周りを見渡してしまうかもしれません。 短編「カーブの向う」を併せて読むと、この世界の理解が深まると思います。

  • 「存在する」事の意義を問い掛けた秀抜な実験作

    迷路を彷徨いつつ、依るべき地図を持たないまま、決まった区画で生きて行かなければならない現代人の姿を象徴的に描いた作品。作中に挿入される、作者の手書きの地図も印象的。 主人公は興信所の調査員の<ぼく>。根室と言う失踪した夫の捜索を依頼して来た夫人のために仕事をすると言う冒頭の設定は普通の小説らしいが、以後の展開は小説の体裁を逸脱している。失踪人に係わりがありそうな、夫人の弟でチンピラの親分が主役級で出てきたかと思うと、暴力沙汰で殺されてしまう。また突然、<ぼく>の別居中の妻が出て来て、<ぼく>と失踪人の立場が「逃げたまま、戻れない」点で似ている事に気付かせる。更に、失踪人と最後に会う予定だった田代と言う男が、失踪人に関する嘘をついたかと思うと自殺する。「存在する」とはどういう意味なのか。読者は、カフカ「城」よろしく、<ぼく>が失踪人に会う事はないと確信せざるを得ない。それでも<ぼく>は僅かな手掛かりで失踪人を追う。もしかすると、<ぼく>が追っているのは<ぼく>自身かもしれないのだ。「メビウスの環」のような展開である。また、作者の常の如く、本筋以外の日常描写に関しても精緻かつ論理的である。特に人間の視線と女体に関しては。このため、却って物語の非日常性が高まっている。結末で、<ぼく>と失踪人が逆転したように思えたが、様々な解釈があるだろう。 小説としてのストーリー展開を敢えて崩し、不確かな地図の中で「存在する」事の意義を問い掛けた秀抜な実験作。

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