日本の文学賞

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空の果てまで (新潮文庫 た 17-2)

田村俊子賞

空の果てまで (新潮文庫 た 17-2)

高橋たか子

『空の果てまで』は、高橋たか子による文学作品。1973年の受賞作として、題材を絞り込んだ表現と、人物や土地、時代の手触りを読者に残す構成が評価された。

人間心理時代性土地

作品情報

空の果てまでは、限られた形式の中に時代と人の気配を刻む作品。

『空の果てまで』は、高橋たか子による文学作品。1973年の受賞作として、題材を絞り込んだ表現と、人物や土地、時代の手触りを読者に残す構成が評価された。 受賞歴の文脈では、派手な要約よりも、形式に合った語り口と読後に残る問いが作品の核になる。

レビュー要約

  • 読者の受け止め方は、題材の珍しさや語り口の強さを評価する方向に寄る。作品の背景を踏まえて読むほど、構成の意図や余韻が伝わりやすい。

書籍情報

出版社
新潮社
発売日
1983-02-01
ページ数
306ページ
言語
日本語
ISBN-13
9784101188027
ISBN-10
4101188025
価格
148 JPY
カテゴリ
本/文学・評論

Amazon.co.jp: 空の果てまで (新潮文庫 た 17-2) : 高橋 たか子: 本

レビュー

  • 「復讐」から「悪魔」に

    「雨はあがったが、空は白く憂鬱である」で始まる文章からもわかるように、高橋文の特徴は、時に読みを中断させるほどの風景と心象の一体化の見事さにある。先鋭的な文学理論はそれを時代遅れと称するが、感動は理論を超える。 高橋のもう一つの特徴はテーマが明確であることである。本書は「復讐」だ。作家最大の注目書『誘惑者』は悪魔(悪)がテーマであった。本書は『誘惑者』の前駆的作品に位置づけられよう。 「復讐」とは、「凡庸なものに対する憎しみ」と主人公の秋葉久緒(小説内現在で38歳)は定義する。彼女は小学時代から全てが一番でなければ承知しなかった。美人でもあった。そんな彼女が一番憎むのは、「かわいそうに」と同情すればとりあえず事足りて自分を免責する世間一般の「善良さ」だ。才能の「属性」を深彫りする日本文学は少ないが、欧米には俗人と隔絶した天才の悩みを描く小説は多い。マンの『トニオ・クレーゲル』はその代表作だし、アメリカにも、サリンジャーの『フラニーとズーイ』や『ライ麦畑でつかまえて』を挙げることが出来よう(サリンジャー自身世間から身を隠した)。それらの作品は最後には俗人と妥協する道を模索してしまうのだが、久緒にそんな気配はない。ただし「復讐」は「悪意(悪)」に負けたという苦い思いはある。 久緒の真のアンタゴニストは善良の塊の落合雪江ではなく、岡克子である。この哲学少女は「世間の凡庸さを罰する」と言う久緒に「秋葉さん、幼いわね」「あなた、いつか自分を滅ぼすわよ」と言ってのける。「復讐には対象が要るが、逆に対象から復讐される」と言いたいのだろう。「中世の錬金術とは隠喩であり、メタフィジック(形而上学)だ、と唱える彼女は錬金術師が夢見た悪魔を引き合いに出し、その存在を実証するという。浄水場に大量の青酸カリを投げ込むのだ。ある雨の夜、二人は浄水場に忍び込み、克子の共産党員の兄からくすねたという件の毒物を撒くが、翌日誰も死なず報道もされない。白い粉は砂糖ではなかったかとの疑いがこの先長く久緒にまとわりつく。そうであれば青酸カリ散布もあくまで克子の形而上的行為だ。 「復讐」の対極に「茫洋」が持ち込まれる。善意の上に茫洋が加わると「鈍さ」が引き立つ。中国で戦死した岩男とのみ書かれる久緒の婚約者をはじめ。作家は久緒が誘拐し捨てた子供の珠子を拾って家まで届け、山羊の乳まで恵んでくれた老婆(珠子の名は老婆が飼っていた猫のタマを借りた)。久緒に仕事を与え、生活の基盤にアパート経営のきっかけを教えた木綿問屋の主人。鋭敏な久緒に感謝の念すら与えないこれら「茫洋」人の助けがあった事実も書き込んで、作品にアンビバランスな「厚み」を与えている。 久緒と同じ象限に立つ人物に夫の弁護士・武山信次がいる。久緒と合い似る頭脳の優秀さに惹かれて結婚するが、間もなく彼が法律を丸読みするだけの規律論者、つまり俗人と知って対立する。信次は、夫の言いなりにならない久緒を理解できずに、暴力をふるったり、懇願したりするが、どうにもならない。欲しくないと言っておきながら、子供が出来ると溺愛する彼に、大阪大空襲の最中、非常に残酷な「復讐」を企て子供ともども死に追いやる。 そして雪江。20年以上に及ぶ二人の関係は回顧シーンを交えて随所に現れる。女子挺身隊で出会った私立高女の雪江とは、ただならぬ関係を持つ。作業所の検閲式で将校に殴り飛ばされた久緒にハンカチやら塗り薬を差し出す雪江は天性疑いを持たないお嬢様で、久緒にはその無垢さが気障りな女性である。結婚のため一足早く隊を辞めた。終戦2年後、生活苦でも捨て難い独身生活満喫の久緒は、彼女と大阪駅前の闇屋街で偶然に出会う。赤子を抱いており、乳の出が乏しいので、しばらく夫の実家で養生すると言う。頼みもしないのに、買い出しに来るようなら多少の口利きが出来るから訪ねてと、手早く住所と地図を書いて久緒に渡す。 いよいよ食糧に尽き果てた久緒は、メモを思い出し雪江を訪ねる。庄屋で大地主の屋敷に入るのが躊躇われてしばらく邸内に潜み子供をあやしている雪江の背中を見ているうちにいなくなった。赤子が泣き出す。思わず駆け寄って抱き上げるが、その刹那生来の「復讐」心が頭をもたげ、持参した風呂敷に包んで逃げ出す。その子供を捨てようとするのは先に述べたとおりである。この上は子供を「精神的奇形児」に育て上げなければと決心する。 半ば放置しつつ育て上げた珠子は久緒の意図に、半分成功し半分失敗した。そして13年後、久緒は趣味で寺巡りをしている子供連れの雪江に偶然に出会う。子供は珠子の妹春子。雪江との偶然な出会いはこれが二度目だが、必ず何かが起きる。 雪江は聞きたくないと言い張る久緒に、万佐子(珠子)行方不明の次第を手紙に書く。珠子と春子は急速に親しくなる。二人を見比べ、耳の形が似ているという雪江は、天性の純粋さから珠子が自分の娘とまでは思いつかないようだ。 二人で登った裏山で、春子ちゃんが好きと言う珠子に「仲良くしなさい」と言う他ない久緒。彼女の「復讐」は最終的な破綻を迎えたと示唆する書きかただ。この後久緒は崖っぷちに立ち、「地の果てまで来た」と思う。「地の果てには空があり、さらにその果てにはまだ空がある」と。 久緒の自殺を思わせるオープンエンドだが、久緒は死にはしない。夫と子供を燃え盛る家に置き去りにし、自分は飛び込まなかった久緒だ。この先もひっそりと生きてゆくのだろう。珠子が雪江の子供だったと知られる時もあろう。その時は久緒の復讐が悪魔に変わるだけのことである。 この書を「下らない」と決めつける評者は多いが、高橋たか子は「復讐」すべき「世間の凡庸さ」から逆に「復讐」されたことになる。ことほどに天才は辛い。

  • 観念の上滑り

    髙橋和巳の著作を読んだ勢いで、妻の髙橋たか子の作品=本書を読んだ。 もともと観念的な作品を書く作家であると思っていた(「誘惑者」など観念の塊だ った)が、この作品でも同じように、全体として現実味が薄く観念が一人歩きをし ている。 最初から夢の中のようなエピソードから始まる。偶然に家の前で13年ぶりに出 会った知りあいを家に請じ入れ、そこで茫漠としかいいようのない味わいの薄い 会話をする。読んでみればこの描写も何回も推敲したとわかる。そして推敲を重 ねた故に文章の迫力が逆に薄まっているとの感を持った。 「人の心が赤い血脈をむきだして出会った事というものは、かならずや心の何処 かに烙印を押したようになって残っているのだろう」 このような文章が一回で書 かれたとはなかな考えにくく、何度も何度も読み直し書き直しをしたのではない か。だが、こういう文章は、私にはひっかかる感覚があり読みにくいとも感じた。 物語は不意に情景が変わる。一体にこの作品ではシームレスに時代がかわり、(悪 く言うと)芝居の書き割りが変化したようであり、その情景変化の割には主人公の 心情はほとんど同じ。見ている画面が素早く切り替わるが、これは好みが分かれ そう。戦争時の思い出が多く、幼いころの弟との情感のない関わりも不意に登場 する。過去と現在を混在させるのは当たり前の手法だが、描写に深みを持たせて いるとは思えない。一見バラバラに見えることを統合して物語の筋が紡がれるの ではなく、ブツッと筋が切れている。 母の会話も同じように唐突に観念的なものとして提示される。 「お金がほしい」「限りなくほしい」「ただお金をつかう」「満たされることだけを望ん でいる」。不思議な父母の会話。母のこの無機的な会話は一体何の象徴か。小学校 の思い出や、伯父の家、呪い人形と釘、高校時代の同級生のこと、青酸カリを投 げ込んだこと。どきっとすることも描かれるが、それもリアルではない。「世間の 凡庸さをこういう形で罰する」「あなたにとってあれは抽象的な犯行だったのよ」。 これらの内実の伴わない会話の意味をはかりかねた。確かに、こういう「死」や「犯 罪」「殺人」に、主人公が傾斜してゆくことは、「誘惑者」と同一っであるのだが、如 何せん現実味がない。 夫との心の底までは分かりあえぬ「不信感」や夫婦の奇妙な緊張関係(これが主人 公のありえない行動に結びつくが)。 終盤に、冒頭に出会った人からの手紙が引用される。その人は妊娠しにくかっ たこと、やっとできた子、等々のことを長々と饒舌に語る。この人にも自分本位 のエゴを感じる。これは迫力があるが、著者の心情の一端なのだろう。 何とも評価しにくい作品。著者と中村真一との対談では、「悪」と「救済」がキー ワードであるとしている。しかしこの作品では「悪」を描いたその印象があまりに も薄い。頭の中だけで組み立てたものを、具体に書かれても、著者によほどの描 写力がなければ現実味をおびない。 この作品を読んでいる最中は、霧で囲まれた光景を見ているような、カーテン越 しの芝居を観劇しているような、そんな感じだった。 惹句には、「友を憐み、夫の愛を拒否し、不敗の自我の孤独地獄をさすらう一人 の悪女の熱く明確な情念-」とあるが、まるでぴんとこなかった。 あまり読み継がれていないことがよく分かる。 「その時代」に読まれたとしても、読み継がれる作品とは思えない。 ☆は ☆☆ くらいでしょう。

  • 感性と理性のみごとな結合

    高橋たか子の長編のなかで、初めて読んだのがこれだった。一人の女のきりきりと研ぎ澄まされた感性と、それに対立する明晰なまでの理性。すべては現実なのか、それとも一切は暗い夢のなかの出来事なのか・・・。あまりに物事が見えすぎるがために、最後は孤独な場所に立ち戻らざるを得ない女の哀しさが見事に描かれている。

  • ピカレスク小説

    主人公は、頭脳明晰だけれど、小さいころから、他者を拒み、夫すら見殺しにする女性。平たい言葉でいうと、悪女。しかし、そんな底の浅い言葉では説明できない。女性ならば、人間ならば、だれもがもつ、衝動的な、暗い面を鮮やかに書いた傑作。

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