作品情報
しんせかいは、受賞作としての輪郭を通じて、人物と社会の関係を見つめる作品である。
山下澄人の『しんせかい』は、受賞として記録されている作品である。受賞記録、公開書誌、関連情報を確認し、単行本として確認できるものは識別子を記録した。単独書籍として確認できない作品については、掲載誌や雑誌号の識別子を代用せず、作品紹介と入手状況を分けて整理している。
レビュー要約
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人物描写と主題の明確さを評価する声がある一方、静かな展開や重い題材をじっくり読む作品として受け止められている。
書籍情報
- 出版社
- 新潮社
- 発売日
- 2016-10-31
- ページ数
- 163ページ
- 言語
- 日本語
- サイズ
- 13.3 x 1.8 x 19.5 cm
- ISBN-13
- 9784103503613
- ISBN-10
- 4103503610
- 価格
- 1199 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論
十代の終わり、遠く見知らぬ土地での、痛切でかけがえのない経験――。19歳の山下スミトは演劇塾で学ぶため、船に乗って北を目指す。辿り着いたその先は【谷】と呼ばれ、俳優や脚本家を目指す若者たちが自給自足の共同生活を営んでいた。苛酷な肉体労働、【先生】との軋轢、そして地元の女性と同期との間で揺れ動く思い。気鋭作家が自らの原点と初めて向き合い、記憶の痛みに貫かれながら綴った渾身作!
レビュー
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夢の語り部
現実でもあり夢でもある、外側から記録される自分と内側の渦巻く感情のギャップ・落差、過去と現実の交差と垣間見る未来・・・、文章のテンポや言葉使いが何か痛快で、私にはとても心地良かった。 そして何と言っても舞台は、最初期の富良野塾である!、まさにそこ自体が丸ごとドラマなのだから面白くない訳がない。 上手く言えないが、とても視覚的で映像を喚起させる小説でもあると思うので、読後感がとても濃密だ。(ヘミングウェイの氷山の論理とフェリーニの色彩豊かな不条理の融合・・・、なんちゃって) 同時収録された短編「率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたのかどうか」も同様に濃密でストレンジな世界。 多くの方におすすめします。
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一気に読みました
強印象を受けたわけではないが 青春の旅立ちとはこんなものだったのかなと思った
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芥川賞受賞おめでとうございます!
新聞広告で本書を知って、あの「富良野塾」の卒業生が書いた内幕物かと思い、興味にかられ単行本発売と同時に購入。冒頭数ページを読んでそのままにしていたところ、今回の芥川賞受賞。我ながら節操がないと思いながら慌てて本棚から取り出して読了した。 読んでいる間、やはり【先生】=倉本聰、【谷】=富良野塾という構図が頭から離れなかった。全編「ぼく=スミト」の語りで書かれているところはドラマ『北の国から』における純のモノローグと重ね合わせてしまう。そうなると【先生】は父・五郎のイメージになるのか。 高校卒業後定職無くアルバイトの青年が先生・仲間との運命の出会いを通じて成長していくストーリー展開かと読み進んでいくと、ラストは突き放されたかのような終わり方。不器用にさすらう中途半端な青年期を淡々と自然体で描いたこの物語。「青春小説」と括るにはあまりにも苦い後味が残る。
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中学生レベルの文章
期待外れでした。この作品のどこが芥川賞に値するのでしょうか? おそらく、地方自治体が主催する文学賞ならば、佳作にも入らないと思います。芥川選考委員の山田詠美さんが、「シンプル イズ ベスト」と褒めていますが、どう考えてもシンプル過ぎでしょう? もう少し、文学的表現とかも散りばめて欲しかった。 まず、文章が酷い。句読点のないダラダラとした文が続いたり、極端に短い会話文があったり。意図的にこのような文体にしているのでしょうか?また、登場人物が多すぎて、読んでいて誰が誰だか解らなくなる時がありました。せっかく、貴重な体験をされたのだから、小説作品としてもっと良いものに昇華できたはずです。非常に残念ですが、他の作品はまともなのかも知れないので、一応、この作者の他の作品も読んでみようと思います。
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追憶の欺瞞から目を背けなかった力強い作品
前回の芥川賞を受賞した『コンビニ人間』が稀に見る傑作だったので、 今回受賞した『しんせかい』も読んでみることにした。 芥川賞受賞が発表されて、一週間ほどはどこの書店にいっても見当たらなかったのだが、ようやく手に入れた。 一読したときは、なんでこんな駄作が受賞したのかわからない、芥川賞はやはりあてにならないな、などと思った。 第一に、文体があまりにもあっさりしすぎていて、描写不足。 第二に、魅力的な人物は登場するのだけど、どうでもいい人物に紙幅を割いたために、掘り下げられていない。 『コンビニ人間』で展開されたような濃密な世界はちっとも感じられなかった。 しかし、いつもの通りちょっとした感想文を書き留めていると、徐々にこの作品が何を表象しているのか わかりかけてきた。そういうわけで作品に対する評価も改めることになった。 今にしてみれば、あらすじにきちんと書いてあるのだが、この作品は”思い出すことの痛み”を描いたものだと思う。 私なりに言い換えれば、”追憶の欺瞞”、つまり記憶を辿ることに付き纏う噓臭さ、となる。 この作品は、そのとき目の前にある事物を無骨に書き並べたような文体で書かれている。 だから現在進行形で語られている物語だと勘違いしそうであるが、注意深く読めばそれが誤りであることがわかる。 この主人公は、【谷】での出来事を、少なくとも数年後ぐらいに回想する形で物語っているのだ。(もちろん数年後というのは憶測だ。) 見方を変えれば、主人公は”現在”(物語っているまさにその時)、【谷】での出来事の記憶を呼び覚まさそうとする、 やむにやまれぬ内的なニーズに駆られているのであろうことが推測できる。 これは多くの人間にとって他人事ではない経験だろう。遣る瀬無い苦しみに襲われているとき、私たちは様々の思い出に縋りつきたくなる。 ところが、主人公は、外的な事象のつまらない記述(犬の鳴き声とか、人が持っていた物とか)にばかり終始して、 追憶というものの肝心かなめである、内的な思考や感情を復元することにはことごとく失敗している。 そして、主人公はそのことに自覚的である。 「けいこがいった。ジマさんは緊張していた。タチさんも緊張していた。ぼくはどうだっただろう。 ロペスの吠えたのは耳に残っている。藤田さんが鉤爪のついた棒を持ってあらわれたのもおぼえている。 しかしそれらを耳にし目にして起きた、自分の中に起きたことを、ぼくはおぼえていない。」 だが、この作品を読んで静かに自省するとき、自分もまた主人公よりも巧みに追憶できる自信などないことに気づく。 それは自分に都合よく潤色され、気に入らない部分は廃棄され、尾ひれも背びれも胸びれも尻びれも付き放題に付いたものだ。 主人公も、物語っているうちにそのことに気づいてしまったのだろう。作品はこんな風にいかにも唐突に閉じられる。 「どちらでも良い。すべては作り話だ。遠くて薄いそのときのほんとうが、 ぼくによって作り話に置きかえられた。置きかえてしまった。 それから一年【谷】で暮らした。一年後【谷】を出た。」 これが「まとも」な小説であれば、残りの一年の出来事も物語ることだろう。 しかし、追憶の欺瞞に気づいてしまった主人公には、もはやいけしゃあしゃあと過去を語る=騙ることなどできなかったのである。 私には、主人公の(作者の)この姿勢をとても勇敢で誠実なものだと思う。 「まとも」な小説の「まとも」な語り手であれば、追憶の欺瞞に気づかないか、気づいたとしても黙殺する。 ところが、山下スミトは(山下澄人は)、それと真っ向から向き合って決して目を背けなかった。逃げなかった。 私はその気高い姿勢に敬意を表したいと思う。 でも、タイトルの意味だけはいまだにわからない。 「しんせかい」とは【谷】のことか。あるいは、主人公が今生きている現実か。 それとも、いつか訪れる日を待ち焦がれるばかりの未知の世界のことか――
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それほど酷くはないけど、この後、どう自分の作風を毀していけるか疑問
標題作は、倉本聰が主宰する富良野塾第二期生として過ごした一年間の出来事。 併録「率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたのかどうか」は、その試験を受けに上京した際のエピソード。 純文学だからストーリー性と読み易さを重視するエンターテインメントとは異なり、特に面白くもないことが身も蓋もなく淡々と綴られているだけなのだが、倉本聰及び富良野塾に関心のある方は、「へえー、こういうところだったのか」と興味を抱かれるかも。 芥川賞はその人なりの独得なテーマの発見が重んじられるから、この受賞は充分に有り得るし、何か話題性がないと純文はマジにヤバイ状況だから仕方が無いと思う。 文章は平易だが、はっきり言って悪文、好い意味で、と思いたい。 短いセンテンスを読点で繋げてゆき、まるで知的障害のある方が思いのまま書き連ねたとでも言いたくなるような引っ掛かりが決して悪くはなく、忘れた頃にシニカルな視点を交え、それが効果的。 宮本輝が選評で「語彙不足」とか、「もっとどろどろした人間の葛藤があったはず」とか言っていたそうだが、ありふれた言葉でどのような表現が可能かの実験であり、葛藤をわざと書かずに困難や面倒はできるだけ回避しようとする若い世代にありがちな今日性を演出する仕掛けでしょう。 もしかすると、スミトが穴を掘っている最中に襲われる身体異常の箇所も、視点の混乱と思っているのかもしれず、でも、そのような石頭が選考員の一人にはいるべきで、由とすべきだ。 村上龍は「つまらなかった」そうだが、飽くまでも個人的意見で、他の選考員は理由を明確に言葉で言えないが「何か惹かれるもの」があったのだから受賞に至ったのであって、その明文化され得ぬ「何か」は小説にとって非常に重要なエレメントだと思う。 併録の「率直に言って~」は、かなり肩肘張ったニュアンスで、カフカのテーマの一つである迷宮を新橋、歌舞伎町に移行させた質の悪い模倣とも思えるが、こちらを興味深しとする方がいるかも。
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説明通りの良品
説明通りの良品で、他に指摘すべき事項もなく満足しております。
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テレビドラマ「前略おふくろさま」?
こういう書き方もあるかという自然で自由な文章が面白く、かつ素直な筆運びに好感が持てて楽しい――最初の内は。また描かれている世界も楽しい――最初の内は。 その評価が途中から少しずつ変わりだす。文章スタイルは都合のよい人真似の集積にすぎないのではないかと感じられてくる。わざとらしい類型化に加えてそのスタイルにもブレを見せ始めるからだ。(人真似で真っ先に頭に浮かんだモデルが前略おふくろさまのせりふと演技。) 最後で明かされる事実が小説内事実なのか意図的なまやかしなのか不明だが、面白い手法で、ここにも授賞の理由はありそうに思う。ただその斬新さと大掛かりな仕掛けの割には小技的なパンチしか感じない。穿ってみるならば、大した中身も無い実体験をそのままに書いたのでは芸が無いからの苦肉の策的技巧と受け止められる。 少なくない登場人物の描き分けが上手にできていると思うが、そのうちの誰一人として魅力を感じさせないのが物足りない。描かれている世界の最初の面白さがどんどん色褪せていくのも主にこのゆえだろうか。人間の物語が書けていないのか、書こうとしていないのか。実体験におぶさりすぎか。 細部描写が生き生きしているのは実体験を背景とするゆえだろう。実体験小説のの強みと言える。 まとめて言えば、面白いが書き出しの印象に反して技巧のにおいプンプンで、その技巧が芥川賞選考委員に好まれそうな、そんな作品だ。読み終えて改めて考えてみるとタイトルの平仮名書きに感性の俗物ぶりは雄弁に表れていた気がする。 ただどれかを選ばなくてはならないとするなら授賞に一応の納得ができないわけではない。その程度の才と器用さは持つ著者だ。 技巧的に感じてしまうのは、それもやはり実体験小説に起因するかと思うが、もっと自由闊達な想像とふくらませによる人間物語があれば、それでこそ真の芥川賞作だったでしょう。実際の登場人物への気兼ねもあったのかな? 無いわけはないが、作家は本音のところの真実のあぶり出しが上手であると同時に嘘も上手につけなければならないと思う。