作品情報
六〇〇〇度の雲に覆われた土地で、女は虚無の向こう側に世界を探す。
第18回三島由紀夫賞受賞作。長崎を舞台に、個人の傷と歴史的記憶が重なる瞬間を求める小説として新潮社から刊行された。のちに英訳も出ており、鹿島田真希の国際的紹介作の一つになっている。
レビュー要約
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抽象度の高い文体と歴史への接近が評価される一方、読み手に集中を求める作品でもある。恋愛小説でありながら、土地の記憶と虚無をめぐる強い思索性が印象に残る。
書籍情報
- 出版社
- 新潮社
- 発売日
- 2005-06-01
- ページ数
- 173ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784104695027
- ISBN-10
- 4104695025
- 価格
- 2065 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/文芸作品/日本文学
第18回(2005年) 三島由紀夫賞受賞
レビュー
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三島賞受賞作です。
読み応えある作品だ。
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長崎は化粧した被災地と言った女が、混沌の中から救われたドラマチックストーリー。
三島由紀夫賞だからなのか、みなさん反権威的意見が多いですが、読後感として、全体的に見てとても芸術的な作品です。ストーリーではなく、文体でもない、小説の形の芸術です。文学が物語ではないということの好例であり、このような作品がもっと評価される日がくるように、祈らざるをえません。 ただ、反戦的テーマが、一般的に凌辱された被害者の宗教メンタル救済として変容していて、実際的な反戦思想に繋がっていないところが弱点かなと思いました。そこは、芸術性とのバランスで仕方のないことかなとも思います。 怖いのは、女が見たキノコ雲のように、この作品も美しいのではないかと思うことです。その感覚がどこかで繋がっているのかなと、著者のまなざしが気になるところです。
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文章を楽しみたい方に
アトピーの青年や旅先である長崎の歴史、家族の過去などなど要素がてんこもりなのは確か。 でも巧みな文章力でなんとなくまとまっている。 そもそも鹿島田作品はストーリーを楽しむものではないと思っているので、特に裏切りは感じなかった。 むしろ文章表現の巧みさを楽しめてまぁまぁ満足。
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最悪でした。。
友達に勧められて初めてこの方の作品を読みました。 5頁程度でまとまりそうな内容を くだらない情事のやりとりで 引き延ばし 似たやりとりをただ延々と繰り返す 内容としても何を伝えたいのか 読むに耐え難いレベルの作品でした。
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期待はずれ
三島由紀夫賞受賞作品ということで、大いに期待して購入しました。 けれども最初から最後まで私にはさっぱり興味が持てなかった。 主人公の心象描写で綴られていて、感情移入できない。 これが賞受賞作? と思ってしまいました。 こういう作品が好きな人もいるのでしょうが、私は嫌いです。
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低評価が多すぎる
「何が言いたかったかまるで分からない」と言うレビュワーが多すぎる。文学とは別にメッセージではない。この小説を読んで「六千度の」熱を感じられなかったらたぶん純文学作品は向いてないと思う。
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静かで美しい旋律の流れる小説
まず文章が上手い。繊細に静かに情景を切り取る力は作者の長所だ。 そして傷を負った男女の交わりが本当に切なく美しい。青年といると、女は自殺の衝動から遠くにいられる。静かな静かな・・・これは、愛なのか? そして登場人物の姿が目に浮かぶように心に入ってくる。 作者が異才だと言われるのも、三島賞受賞というのも納得の一冊。 現代文学に飽きた人にぜひ、読んでもらいたい、素晴らしい小説だ。
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「語り難い/語り得ないもの」について
長崎を舞台にして、デュラス「愛人」「ヒロシマ 私の恋人」を変奏した作品。アル中で自死した兄への愛、自分より兄を溺愛した母への思いが心の傷になっている主婦が、衝動的に長崎を訪れてロシア人青年と行きずりの恋をすれ違う話。(デビュー直後、編集者にデュラスを読むように勧められたことが、デュラスを本格的に意識するきっかけになったことを作家自身が明かしている。) 主人公と話者のモノローグが溶け合った文体やテクニック的なものは確かなものがある。また斎藤環氏が本作を激賞していることが象徴的なように、特に育った家庭や宗教の書き方において、ラカン派精神分析と親和性の高い主人公像が描かれているので、そういう読み方が好きな人には確かに面白い題材だろう。一方で、育った家庭、ロシア正教への信仰、そして長崎の原爆がうまくリンクし切っていないようにも感じたので、星は渋目に付けた。(やっぱり、主人公が団地で非常ベルの誤作動から長崎の原爆を連想し家を飛び出すというのは、ちょっと不自然過ぎじゃないかな。) これはロシア正教徒の作者以外でも、例えば遠藤周作のような人にも共通するが、「救いがこない」ということを半ば前提としていて信仰を相対化しつつも、それでも帰依を続けるという心理は無宗教の僕には最も謎なことだったりする。ドフトエフスキーなんかを引っ張りだしながら、何かを示唆してくれようとはしているんだけど、この短い小説の中では結局この謎はスッキリさせてもらえなかった。 また、主人公達は長崎に「他者」として殆ど無根拠に赴くんだけど、僕を含めて現代を生きる大多数の日本人達にとって長崎の被爆というのは「他者」として受け止めるしかないくらい遠いことだ。だけど一方で、当時を生きた人々は少ないながらご存命だし、更に彼らの一部は原爆症認定を巡って未だに行政裁判をしてたりするので、あっけらかんと文学的な「他者」として前提・整理しちゃうのも何か気持ち悪く思えるのも事実だ。(つまり、長崎を語ろうとすると、僕らはダブル・バインドに陥るということ。) この種の「語り難さ」については書評家による本書解説でも軽く触れられてはいるんだが、本作では「語り難い/語り得ない」ものとの距離感が咀嚼されているように思えなかったし、また一部の批評家のようにそういう語り得ないもの(=原爆にしろ、精神分析的な大文字の対象にしろ)に少しタッチしただけで大絶賛するというのもどうかと思う。(そもそも、この主人公は育った家庭に関するトラウマを明瞭に自己分析して「語って」いるし、終盤では一時的にかもしれないが消化してみせている。)この点も、作家の信仰のコア(語り難い/語り得ないもの)に直結していく話なのだが、多分、いつか自らの信仰の秘密を真正面から書こうと対峙した後に、この作家さんは大きく化けるのかもしれない。
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