日本の文学賞

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日本政治思想史研究

毎日出版文化賞

日本政治思想史研究

丸山眞男

『日本政治思想史研究』は、丸山眞男が近世日本の儒教、国学、国民主義の形成を分析し、日本思想の近代化を「自然」と「作為」の対抗から読み解いた古典的著作。戦後の日本思想史研究の出発点をつくった本として読み継がれている。

作品情報

近世思想の内側から、日本の近代化の型を読み解いた丸山眞男の古典的名著。

東京大学出版会の新装版は、1952年刊の毎日出版文化賞受賞作を A5 判424頁で刊行したもの。近世儒教の展開、制度観をめぐる「自然」と「作為」、国民主義の形成を論じ、戦後思想史研究の道を切り開いた一冊として紹介されている。

書籍情報

出版社
東京大学出版会
発売日
1983-06-01
ページ数
424ページ
言語
日本語
ISBN-13
9784130300056
ISBN-10
4130300059
価格
3960 JPY
カテゴリ
本/人文・思想/哲学・思想/歴史・学派/東洋思想/日本/日本思想史

日本近世社会における正統的な儒教的世界観の内面的崩壊過程を問題史的に解明し、〈自然〉〈作為〉の対抗の中に日本思想の近代化の型を探求。戦後の日本思想史研究の道を切り開いた古典的名著。毎日出版文化賞受賞。 【主要目次】 第一章 近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連 第一節 まへがき――近世儒教の成立 第二節 朱子学的思惟様式とその解体 第三節 徂徠学の特質 第四節 国学とくに宣長学との関連 第五節 むすび 第二章 近世日本政治思想における「自然」と「作為」 第一節 本稿の課題 第二節 朱子学と自然的秩序思想 第三節 徂徠学における旋回 第四節 「自然」より「作為」への推移の歴史的意義 第五節 昌益と宣長による「作為」の論理の継承 第六節 幕末における展開と停滞 第三章 国民主義の「前期的」形成 第一節 まへがき――国民および国民主義 第二節 徳川封建制下における国民意識 第三節 前期的国民主義の諸形態 あとがき 英語版への著者の序文

レビュー

  • 後書きまでじっくり読んでほしい

    丸山眞男氏の初期の論著、その評価を今ここで喋喋するほどの知識見識はもたないが、読みつつ、うぅ〜んと唸ったこと再三再四。後書きに筆者自身が記した、それらの論考のもつ限界やらも含めて、日本近世の政治思想を知るためには必読の一冊。我が模糊とした脳内がかなりスッキリした感のある、いわば「美味しい」本だった。

  • 丸山真男の主著

    丸山真男と言えば、軍国主義批判、民主主義肯定というイメージがあるが、丸山の主な業績は日本の歴史を一本の芯を貫いて理解した所にあると思う。 日本についての概説書、解説書は無数にある…。しかし、私はそれらにどこか不満だった。和辻哲郎、亀井勝一郎、石田一良など、選べる限り最良のものを選んで日本とは何かの答えを出そうとしてみたが、なにか違う。そこで始めて、丸山真男の政治思想史に出会って、自分の望んでいるイメージに近い姿が現れてきた。 では、他の歴史家は何が問題だったのだろう。主観だが、日本人が日本について書くとどうしても神秘化する傾向にある。あるいは西洋近代に比べて日本は全部ダメだと全否定するとか。知性によってはっきり日本の良さも悪さも含めてえぐり出す、そういうものがこれまでなかった。(もちろん全ての書を読んだわけではないので、発見していないだけかもしれないが) 丸山は始めてそこを打ち破ってくれたと思う。というのは、ヘーゲルの歴史哲学やウェーバーのプロ倫のような徹底した、透徹とした視線で日本の思想系譜をはっきりと解明した。これは他の誰もやった事のない業績だろう。 この本を難解だという人がいるが、儒学が日本人から縁遠いから難しくなっている。最近はネトウヨが盛んだが、彼らは日本の古典を真面目に読む気はないだろう。また、普通の教養人も、ゲーテやカントは読んでも、本居宣長や北畠親房は読まない。これは仕方のない事とも言える。実際日本の古典は、文学を除けば退屈な場合が多い。 そうした、近くて遠い日本の思想を始めて、現代の人間にもわかるように見せてくれたのが丸山真男だったと思う。封建社会の解体が、その思考方法のレベルにおいて、荻生徂徠や本居宣長に現れているという指摘。これは右とか左とか関係なく、透明な論理的な視点で事象を読み解く力強さを感じる。 こうした著作に出会えたのは幸運だった。逆に言えば、日本においてこのような学者がほとんどいないのはなぜなのか、という事が日本が今も孕む問題であると思う。そういう意味において丸山真男は現在形の学者だと思う。

  • 日本政治思想史研究

    ありがとうございました。

  • 「近代」をどう理解するのか

    この『日本政治思想史研究』は1952年の出版だが、中身は丸山「出征」直前の44年までに完成し『国家学会雑誌』に発表されている。内容は、近世朱子学の内部崩壊の思想史的跡付けである。戦中という最悪の言論統制期に書かれた、しかも儒教に関する論文 ― これだけで “丸山 = 民主主義” との知られた公式に反し、イメージを裏切られるが、実は30歳前の作品たる本書こそ、学者・丸山眞男の名を不動にした最重要作なのである。 周知の通り、近世日本の官学 = 支配イデオロギーは朱子学であった。宇宙から人間までを貫通する朱子の形而上学は「修身斉家治国平天下」、すなわち自らの身を修めることと世の平穏とを連続させることを特徴とする。そこでは君臣・父子の別を守ることと自然界のオーダーが同一視され、だから反逆や革命は原理的に存在し得ない。現在の私たちはこのように自然から人間の秩序を演繹する思考方法を「合理的」とは言わないが、しかし丸山眞男はこれを太極の「理」がすべてのものに内在するという意味において,朱子の「合理主義哲学」と呼んだ。そしてこの研究書は朱子学的合理主義から近代合理主義への移行を、他ならぬ儒教の思惟構造の発展の内部に見ようとする。しかも、主観的にはどこまでも封建体制の建て直しを図った近世儒者の思想の中に、である。 元禄から享保を生きた儒学者に荻生徂徠がいる。この時代は貨幣経済の発展により封建秩序を脅かすモメントが出揃い、“修身 → 平天下” との朱子の楽観主義は幕府の弱化を助けてもその強化には無力を晒すだけだった。なぜなら朱子学は国家と個人倫理を直線で結んでいたから、私的領域と離れた固有の「政治」領域が発見されず、統治のための純粋な技術論が存在し得なかったからである。荻生徂徠はこの朱子学の「公 ← 私」の分断を行った。言語の変遷を知る、いわゆる古文辞学の方法により聖人の道(私)を定め、その聖人を彼岸にまで絶対化した徂徠は、俗界を聖人から分離することにより現実的な政治的思惟(公)の優位の確立に成功したのである。徂徠においては聖人の道の絶対性は、自然秩序ではなく、それが聖人の作為であるという「事実」により保証される。だから同一の論理で、現実政治も卓越した徳川氏による作為に於いて、その限りで絶対となる。こうして徂徠は幕藩体制秩序の理論的根拠を提供したが、それは同時に、より優れた反対者の作為による徳川打倒の可能性も認める両刃の剣を振るう。丸山眞男が発見した儒教の内部侵食とはこれである。 ではここで分離された「私」はどう発展するのか。丸山はさらに本居宣長の国学へと考察を進める。宣長は徂徠により排出された非政治的・私的心情を我が国の古道としてこれを積極化する。いわゆる「もののあはれ」である。その構造は、あるものをあるものとして認めるがゆえに幕府を批判するものではなかったが、積極的に支えうるものでもない。なぜならその思想では幕府の崩壊すら、ひとたびそれが「あるもの」となれば受け入れるべきものであったから。徂徠学に生じた自然から作為への論理の転換はもはや止めようがない。 丸山眞男はこのように、徂徠から宣長への思想の中に朱子的合理主義の崩壊過程を跡づけ、そこに近代の萌芽を見た。私たちが「停滞の帝国」と前提して疑わない鎖国体制のうちに現代政治学の祖元を訪ねたのである。では丸山をここまで駆りたてたのはいったい何だったか。著者は「英語版への序文」(本書に翻訳を収録)の中で書いている。「本書 … において、徳川時代における近代的思考様式の成熟とその程度を測ることを … 主題とした基底には、『近代の超克』論にたいし、私自身の専門領域において対抗する、という … 動機が横たわっていた」。そして続いて、「(a)現代日本はすでに『近代の超克』が最大課題になるほど … 近代化されてはいない。(b)維新以前の時代においても伝統主義者が美化しているほどには『近代』と無縁な『東洋思想』が … 持続していたわけではない」と解答を与える。これは当時の日本へのひとつの挑戦であり、丸山眞男はこの仕事を「超国家主義」への敢然たるアンチテーゼとして完成したのである。 しかし、と私たちは考える。そこで提起された問いと答えは、はたして現在の日本の思想状況と無縁だろうか。あたかも「現代思想」というバブルは経済バブルに先行してはじけ、「東洋精神」は未だ幽霊の如くこの国を徘徊している。「近代」とは「超克」されるべきものではなく永遠の道程として私たちの前に厳在するのだ。 「民主主義のリーダー」「度し難い進歩主義者」― どれも皮相である。丸山眞男という学者は、民主の正義と人類の進歩は、そういうものがもしあるとするなら、それは著者自身がしたごとく本書の最終章の仕上げのため、死地に赴く「出征」当日の朝まで机に向かう、その厳しさの中にのみ約束されることを、この著作の中で示している。

  • 丸山は、加藤周一との共著で『 翻訳の思想 』という本を出している。これと 同名の著作 のなかで、柳父章は、本書『日本政治思想史研究』第2章の議論が眉唾物であることを暴き出している。いわく、①「自然から人為へ」という図式は、ヨーロッパ文化の推移の説明としては無理がある。デカルトをひとつの転回点として、「(神の)自然から(人間の)自然へ」移行したと考えるのが妥当(183頁)。②近代的な「人為」を是とする端から「価値判断を伴った分析」(187頁)が、丸山の目を曇らせてしまった。そして、③これらの背景には、「伝来の日本語「自然」とnatureの翻訳語としての「自然」とを同一視している」(179頁)という、より根源的な認識問題が横たわっている。丸山はヨーロッパも日本も見えていない? 目次は次のとおりである。 近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連 近世儒教の成立 朱子学的思惟様式とその解体 徂徠学の特質 国学とくに宣長学との関連。 近世日本政治思想における自然と作為 朱子学と自然的秩序思想 徂徠学における旋回 自然より作為への推移の歴史的意義 昌益と宣長による作為の論理の継承 幕末における展開と停滞。 国民主義の前期的形成 国民および国民主義 徳川封建制下における国民意識 前期的国民主義の諸形態。 あとがき 英語版への著者の序文。 ついでに、丸山眞男の著作で入手しやすい文庫版のものを、目次つきで列挙しておく。 ①『 超国家主義の論理と心理 』 超国家主義の論理と心理 日本ファシズムの思想と運動 軍国支配者の精神形態 ファシズムの現代的状況 ノーマンを悼む スターリン批判における政治の論理 反動の概念:ひとつの思想史的接近 ナショナリズム・軍国主義・ファシズム 現代文明と政治の動向。 ②『 政治の世界 』 科学としての政治学 ◆人間と政治 政治の世界 権力と道徳 支配と服従 政治権力の諸問題 政治学入門(第一版) 政治学 政治的無関心 政治的判断 ◆現代における態度決定。 ③『 忠誠と反逆 』 忠誠と反逆 幕末における視座の変革 開国 近代日本思想史における国家理性の問題 日本思想史における問答体の系譜 福沢・岡倉・内村:西欧化と知識人 歴史意識の古層 ◆思想史の考え方について:類型・範囲・対象 ④『 福沢諭吉の哲学 』 福沢諭吉の儒教批判 福沢に於ける実学の転回 : 福沢諭吉の哲学研究序説 福沢諭吉の哲学 福沢諭吉選集(第4巻)解題 福沢諭吉の人と思想 福沢における惑溺 福沢諭吉と日本の近代化 序 ⑤『 丸山眞男セレクション 』 国民主義の前期的形成 超国家主義の論理と心理(①と重複) 福沢諭吉の哲学 (④と重複) 軍国支配者の精神形態(①と重複) 肉体文学から肉体政治まで 三たび平和について 現実主義の陥穽 戦争責任論の盲点 ある感想 日本の思想 政治的判断(②と重複) 拳銃を… 現代における人間と政治 20世紀最大のパラドックス。 ⑥『 丸山眞男座談セレクション(上) 』・『 同(下) 』 ◆教育の反省(宮原誠一) ◆現代社会における大衆(田中耕太郎ほか) 現代革命の展望(竹内好、埴谷雄高ほか) 思想の冒険(大塚久雄、久野収ほか) 芸術と政治 現代における革命の論理 非西欧世界の近代化(開高健) 戦後日本の精神革命(南原繁) 日本神話をめぐって 民主主義の原理を貫くために 現代における平和の論理 日本の言論 ◆普遍的原理の立場(鶴見俊輔) 近代日本と陸羯南 クリオの愛でし人のこと 歴史のディレンマ:マルクス、ウェーバー、ポパー 岡義武 人と学問。

  • この人が見下ろしていた次元というのは一体どれほど高いものだったのでしょうか・・・

    個人的な解釈では、本書は西洋政治思想史のコンテクスト、政治思想的流れと対比させながら日本政治思想史のコンテクストや流れ、それぞれの思想の画期性や意味や影響などを説明したものだと思います。これにより日本政治思想史の重要な文脈を読者に埋め込みます。この「思想史的文脈」がそれぞれの思想を個別に学ぶよりもはるかに有効な基礎を読者に提供するのです。これが西洋政治思想史の深い理解まで促すのですから西洋政治思想史だけ勉強よりもむしろ西洋政治思想史の理解が得られます。ちなみに、本書はまず日本政治思想史を学ぶならバイブルに近いです。 そして本書は難しいかと言われれば、前提知識があれば、むしろどんなにやさしい文で書かれた本よりもわかりやすいです。確かに文だけの難易度をとれば長いし単語は難しいしで一見難解にみえる。でもそれは難しいことにはすぐにはならない。逆にやさしい文で書くほうが難しいことを説明するとすっごい長くなってわかりずらくなるんです。抽象的でも上手く論証できれば最短でしかもわかりやすくなる。抽象的な部分があれば、具体例でしっかり説明をするから、論証が上手ければいずれにせよ集中して読めば理解はついてくるんです(丸山は論証がとても丁寧ですから、むしろかなりわかりやすいんです。わからないというのはじっくり丁寧に読んでいないか、前提知識が足りないか、一周くらいしか読んでおらず繰り返し読むことをしていないかなどが考えられます。)。ですから難しいと思うのは単純に前提知識が足りないのが主な原因だと思われます。ただ、前提されてる知識は結構高いものを要求されています。実際、私も一周目は納得がいかなかった。西洋政治思想史の理解が深くなると同時に本書の理解が深まりました。そんな感じで西洋政治思想史(できれば同じような質と内容の福田歓一の政治学史と南原繁の政治理論史が本書の理解にベストかと思われます)やその他の法思想史や経済思想史などの理解が深ければ本書の理解が深まってくると思います。そこまで余裕がない方は最低限の西洋政治思想の文脈が頭に入っているといいでしょう。やはり残念ながら本書は一定以上の知識がないと無駄な読書に終わる可能性がどうしても高くなってしまいます。前提知識がないとなにが画期的なのかどこが重要なのかが分からずに、ただなんとなく読み流すだけになってしまうんです。このように一定以上の理解に至るには知的な格闘が必要となりますが、丸山の著作を何度も繰り返し読むだけでも、前提知識がなくても、理解はついてくる可能性も高いので、それでもいいかもしれません。いずれにせよ、高い高い壁だとは認識してもらいたくはないというのが本音です。できるだけ多くの方に読んで理解してもらいたいです。西洋政治思想史など他の勉強と並行しながら、本書を何度も繰り返しなおかつ丁寧に読めば理解できないということはありません。 ただ、本書は丸山の一部分だと思います。ですから、もし余裕があれば是非、丸山眞男講義録(日本政治思想史の東大で授業された内容のものです)も読むことを勧めます。講義録は丸山の日本政治思想史の全体像を網羅(必然的に本書のさらに詳しい解説にもなっています)していますし、実際に授業で講義した内容なので非常にわかりやすい上に過不足なく語られていて本書よりも丁寧で納得できない点が限りなく少ないですからお金と時間はかかりますが読むべきだと思います。さらに、忠誠と反逆という本も思想史ですから時間があればそれも。 もちろん、ある人物に傾倒するのはダメだとよく聞きますが、未熟なうちは客観的に信頼できる人の研究を軸にして、それをある程度理解しつくしてきたら自分なりの批判的態度を持っていくというスタンスがいいと思います。とにかくそのように軸としてやっていくことで自分なりの物の見方、視点がつくことが大事です。その「見方」が鋭い視点となっていくのです。そのような確かで鋭い視点がないうちは引き出せるものが浅くなってしまいます。人はあるフィルターをとおしてしか物を見ることはできませんし、したがってそのフィルターに通った一つの側面しかみることしかできません。完全に見渡すことなどは不可能なため、質の高い視点(フィルター)を身に付けることは生き方の質そのものが変わってくることにもつながってくると私は思います。 私としては、丸山真男の本質はやはり政治思想史にあると感じています。丸山の政治思想史はかなり深いところに突っ込んでいるために、おおげさかもしれませんが、社会科学全般の深層的な証明になっているとも言えます。そういうわけで、丸山の思想史を理解することは社会科学の深層を理解することにつながりますから、何を学ぶにしても多大な効果があるでしょう。何度も何度も繰り返し読むことを強く勧めます。 とにかく、丸山の研究を深く追えば追うほど度胆を抜かれます。自分の丸山への予想を超えるんです。しかもはるかに。丸山の理論的な著作で大体は予想できたいた丸山の限界はありえないほど高い次元にありました・・・。追えば追うほど、私にとっては、その丸山と一般的な次元との距離がどれだけ果てしないものかわかるだけ・・・。はっきりいってこんなことは今までありませんでした。丸山の限界がどこにあるのか探れば探るほど、「この人は一体どこまで高い次元までいったんだろう」というように、一向に限界がみえないんです。正直、人間がこのような次元にたどり着けるなんて考えてもいなかった。丸山に追い付こうなんて考えはもちろんありません。でも丸山がどこまでいったのかだけは知りたいんですね。それが見えないというのはどれだけ恐ろしい次元にいたかという証明だと、私は考えています。 そういうわけで本書を含め丸山の政治思想史は生涯を通してずっと何度も繰り返し読むべきものでしょう。このようなレベルの本というのはそうそうありません。そしてこのようなものが名著と呼ばれるのではないでしょうか。その政治思想史という枠の中だけで効果を発揮するのではなく、もはや人の人生観や人格にまで名著というのはとても大きな効果ががあるのでしょう。丸山はもうこの世にはいませんが、本を通じていつでも知的な会話ができるというのはすごいことだと思います。10回繰り返し読むだけでもまだ足りないほどの価値が詰まっているのではないでしょうか。

  • 傑作

    戦時下に著者が時代と格闘しながら執筆した画期的な著作。 名著として祭り上げるのでなく、読者も自身の時代と向き合わなければならない。 後知恵で欠点を指摘する前に、思想史の醍醐味を味読すべきだ。

  • とにかくこの本だけは、先入観や世評を忘れて読んでみてください。

    1章は、若き著者の対象に一直線に向かう精悍さと真摯さ、文献に沈潜しながら論を展開する密度、明快な論理、勢いだけに委ねない細部への配慮の行届いた理性、何をとっても立派の一言で、著者の最初にして最高の論考と思う。程朱の学にある自然と規範の連続性が、素行、仁斎を経て徂徠のなかで分解し、敢えて言えば人間社会の問題を人間主体の問題として捉えなおしていく過程が明快に描かれる。抽象的な思考の骨だけにはしないで、豊かに各思想に語らせながら、その本質を描き出す。そして、悧巧な奴は、何時の時代も馬鹿げたことは言わないものだと納得させるだけのポイントを衝いた引用が楽しい。論述は、徂徠がピークであって、博覧強記、解釈の卓抜、現実への飽くことのない追求と提言、どこか飄々とした陽性でユーモラスな人柄、まさにオールラウンドな大思想家の風貌を余すところなく描いている。国学への言及については、徂徠に比して精彩は欠くが、その非政治性が却って強固な政治的な影響力を示すという指摘は面白い。宣長の何層にも練り上げられた「自然」の観念は、老子思想の脆弱さを脱却しているという指摘も興味深く、小林秀雄も後年言うとおり、徂徠〜宣長は相対立するようで、実は同じことを語っていることにも気付かされる。2章以降も興味深く、時に、1章の良き参考書にもなるが、宣長以降の思想の展開をたとえ陳腐であっても追わねば成らない、研究書のつまらなさもある。また、1章の論考をやや後知恵的に注釈、解釈したところがあり、それが、却って1章の再現不能な見事さに水を注しかねない。またこの注釈的論述のため、1章ではそれなりに理解できそうな新鮮な着想に思えた「聖人」の解釈が、却って、徂徠思想の現実性を損なうかのような、つまり、結局は無理な体系だったかと落胆させる方向へ収斂していて、可能性が閉ざされた気もする。「あとがき」「英文への序文」も重要な文献だが、これも後知恵的に、本書の方法意識を強調しているきらいがある。無論、嘘ではないが、本論、特に1章を読めば、むしろ方法に拘泥しないで対象に向かっていく良さがあると思う。また、「英文への序文」には、徂徠を頂点とした江戸思想に、恰も近代の萌芽を読みとろうとしたとの論述もあるが、本論は、実際にはそれほど作為的ではないと思う。西欧思想、とくにヘーゲル、ウェーバー、マンハイム、マルクスからの影響も然ることながら、幅広くドイツ思想を渉猟した奥深い薀蓄を示していて、「西欧思想学者」以上に良く分かっている気さえする。しかし、西欧の方法を安直に日本思想に適用していないところがまた良い。が、近代へ手繰り寄せるかのようなスタンスでの思想史は、今となれば、やむを得ないが、やや古く、著者自信も「英文への序文」でその限界は認めている。けれど、商業資本の発展による封建制度の崩壊、しかし商業資本の封建制への寄生性という限界の中で、模索された封建秩序の回復思想が却って封建制の精神基盤を崩壊させ、近代化へと進んでいく過程としてみようとする全編のモチーフは、今でも魅力的である。本書は、戦後日本の思想本の最高傑作であることには変わりがなく、数多ある左翼思想家からの批判論評は、まず、本書に関しては、ほぼ言い掛かりの類で、あらぬ人格批判まで行うなど、逆に品位の差さえ感じたものだ。

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