作品情報
野生の金毘羅へ向かう、笙野頼子の奇想と私小説の代表作。
河出書房新社公式ページで河出文庫版 ISBN 9784309410371 を確認した。単行本も刊行済みだが、入手性の高い文庫版識別子を採用した。
書籍情報
- 出版社
- 河出書房新社
- 発売日
- 2010-09-03
- ページ数
- 358ページ
- 言語
- 日本語
- サイズ
- 10.8 x 1.5 x 15 cm
- ISBN-13
- 9784309410371
- ISBN-10
- 4309410375
- 価格
- 1045 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/文芸作品/中国文学
「森羅万象は金毘羅になるのだ。金毘羅に食われるのだ」――私と金毘羅の神仏習合一代記。二十一世紀の世界文学に屹然とそびえ立つ、純文学の極北がここに著者圧倒的代表作! 第十六回伊藤整文学賞受賞作品。
1956年生まれ。81年「極楽」で群像新人賞を受賞。「なにもしてない」で野間文芸新人賞、「二百回忌」で三島賞、「タイムスリップ・コンビナート」で芥川賞、「幽界森娘異聞」で泉鏡花賞、「金毘羅」で伊藤整文学賞を受賞。
レビュー
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魂の救済の物語
自分の生きにくさについて書かれてあるものって多い。自分もそうだから、そんなものばかりを無意識に探して読んでるのか?共感とか?そうだよねそうだよねとよしよししてもらう。そしてその読後感の救われなさといったらね…(カネ返せレベル) だから「この生きにくさは自分が神だったからだ!」と結論した「金比羅」を読んだ時の衝撃は忘れられない。驚き過ぎてあいた口がふさがらない、というか顎がはずれるレベル。なんだろうこの清々しさ。傷だらけのパラドクスに救済を感じる。 誰も共感できない自分だけの自分史(神話)が人を救う。 笙野頼子すげー。
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笙野頼子の
スタンスというのは尊敬するし、作品も好きなのだが、たとえば、この作品のように神様の話を滔々とされると、ちょっと嫌気がさしてしまう。 スリップストリームの傑作、人間じゃなくて、自分が金毘羅だと気づいたことによって、生まれてからいままでを語るという、もう、傑作。 なのだけれど、相性が悪かった。
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神の語り
一人称の語りは、作者がその目線に降り立ったところで語る地平目線であり、マイノリティー(社会的弱者)の世界などが描かれることが多いが、この作品はそうでありながら、主人公は自分のことを金比羅という神だ言っている設定がまずぶっとんでいる。主人公が神になっちゃって、神がどういう歴史をたどってきたかを語り、ついでに(おそらく作者の)苦難の歴史も語り、小説ってこういう手法をとれば何でも有りだなと、これをやろうと思った作者に感心した。語り手と作者は別者であるという前提もこの小説はなくて、ところどころに語り手である主人公と作者笙野頼子はイコールであるというのも、こんなの有りだろうか、と思ったけれど。でも、そうとう作者は追いつめられた状況でこれを書いているということはわかった。
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S倉の磁場、そして覚醒へ
ハードカバーから読み込んでいますが、なかなか作者の言わんとする 本質まではたどり着けない。そんなもどかしさは多くの批評子が感じて いるところではないでしょうか。 笙野作品の文章リズムの変化に着いて。東京・雑司が谷を舞台とする 『東京妖怪浮遊』の頃とは明らかに違います。あの妖怪と闘ったあと 主人公は首都郊外への移転を妄想する。そこで終わっていましたが、 その通りS倉に来てからの変容ぶり…… 恐らく、作者が暮らす「S倉」という土地の磁場が、精神に土俗を 掻き立てるだけの力を持ち合わせているのでしょう。近所にいっぱい 古墳あるし、埴輪も出土するし。何より成田には闘争の歴史、地母神に なぞらえるべきモンペ姿の「おっかあ」たちの魂……それらが、国家に よって抑圧されてきた土地――この怨讐ともいうべき磁場の中で、著者は 事実をまさぐり、苦悩し、やがて覚醒しました。「金毘羅」として。 『母の発達』で、主人公が「母に生き、母に死んだ」と述懐するように 作者は土地に生き、土地に死す覚悟で物語をつむいでいる。いわゆる土俗 とは、掘り返さなくてよいものを、あえて泥まみれで掘り起こす作業で あります。周囲の冷ややかな視線と闘いながら。文体リズムが難解になった というのは、こうしたS倉の土俗の磁場の影響による「ゆがみ」現象では ないかと。神がかった文体。これには好悪があってしかるべき、かも。 確かに『二百回忌』『東京妖怪浮遊』の頃に較べると、初読者には読み にくい(理解すら難しい)部分が多くなっています。だからこそ過去作との 読み比べ(精読)が、一連の笙野作品には欠かせないのだと思います。 神話や神名が多くて分からない、という批評に関しては、そこは読者が 日本史・宗教史を学んで「自らおぎなう」べきであり、批評に挙げる 部類の話柄ではないと思います。作品の世界観は『金毘羅』以前・以後と 区分できるほどに変わってきている。この変化に乗れるか否か。笙野作品は それを読む読者もまた、闘う小説だといえるのではないでしょうか。
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畢生の傑作
話題になったからでなく、今生きている作家の中で一番好きで、著作は全て読んでいるので、読んだということなのだが、今までの彼女の集大成というべき傑作だった。 ついでにいうと、三島賞に続き、芥川賞受賞コメントで「文学の神様に感謝したい」と言っていた意味が、この作品でよくわかった。 純文学論争もよかった(現存日本人作家の中で純文学を背負ってたっているのは彼女だと思う)が、フェミニスト文学者としても一流だと思う。 「金毘羅」でも、以下のようなくだりに、眼からうろこが落ちた。 「「本当は男」である女はさまざまな課題を課せられるだけではない。現実の差別社会の矛盾を全て引き受けながら、その矛盾から一切眼を背けていなければならない。つまり、魂が壊れていなければ成立しないのです」
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わがままな作品
小説って二種類あるんだなと思いました。 作品として独立しているものと、特定の作家の創作物としてうけいれられるもの。 これが笙野頼子さんの作品でなければ、成立したでしょうか。 エネルギーはありました。 でもほとんどが、なにをいっているのかわかりませんでした。 神様に託つけて、自分の不満をぶつけたとしか読めない。 笙野さんだから許される作品でしょう。
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生きにくさ
スケールが大きい。 そして同時に一個人の、「生きにくさ」からの脱皮の物語でもある。 今まで生きにくかったのも当然、だって私は金比羅!だったのだから!! 「乱心した主人公」と、著者は冷めた口調でちらりと書いていますが、いいや、乱心じゃない。真実、金比羅です。と真顔で断言したい。 主人公が受けた祝福は、他者の目で見たらほんの小さなつまらない事象ではあるが、読者にカタルシスをもたらす。 こんな娘でも一生懸命育てた両親がお気の毒ではあるが(笑)
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精神の私小説
「恋愛はしなければならない(人生の喜び、人間形成のため・・・等々)」 「人と人とが交流しあって、人間は成長するのである」 等々といった、近代的な強迫的な人間観を覆せ、というのがテーマ だな、と私は思いました。 だから登場人物が一切ナシ。家族や友人とのふれあいとか色恋沙汰も一切な し。(それらへの嫌悪はあっても!) 出てくるのは神話のカミサマの名前ばっかり。 ココロの奥底を極めた時に行き着くのは、その時どきの上が押しつ けた仏教や神社なんかじゃなくて、極私的な土俗である、 家族もいらない、村社会もいらない、ギョーカイもいらない、ただ この「私」が村社会的曖昧さを排除した明瞭な日本語で、言葉を吐 ければ、物書きである「私」はそれでいい。 ただ人間の身体を器に生きている「私」は、「私」であることを貫徹するために、金比羅になった--。 精神の私小説です。笙野頼子さんの無頼の精神に拍手を贈りたい。
関連する文学賞
- 伊藤整文学賞 第16回(2005年) ・受賞