日本の文学賞

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内村鑑三 (筑摩選書)

毎日出版文化賞

内村鑑三 (筑摩選書)

関根清三

聖書学者・関根清三が、内村鑑三の聖書読解と現実への応答をたどる評伝的研究。日清戦争や関東大震災といった危機の時代に、内村が聖書をどのように読み、戦争論や震災論をどう変化させたのかを検討する。

内村鑑三聖書読解キリスト教戦争論震災論

作品情報

近代日本のキリスト者が危機の時代に聖書をどう読んだのかを問う研究。

第73回毎日出版文化賞人文・社会部門受賞作。筑摩書房公式で ISBN、刊行日、ページ数、内容紹介を確認し、NDLサーチでも紙の図書として照合した。内村の二つのJ、戦争論、旧約聖書読解、震災論を章立てて追い、近代日本思想とキリスト教の接点を掘り下げる。

レビュー要約

  • 膨大な文章と足跡に寄り添いながら、内村の思想を現代的な問いとして読み直す点が評価されている。聖書学の視点から歴史的危機と信仰の関係を整理する、重厚な研究書として受け止められている。

書籍情報

出版社
筑摩書房
発売日
2019-03-13
ページ数
384ページ
言語
日本語
サイズ
13.2 x 2.6 x 18.8 cm
ISBN-13
9784480016782
ISBN-10
4480016783
価格
1980 JPY
カテゴリ
本/人文・思想/哲学・思想/歴史・学派/東洋思想

戦争と震災。この二つの危機に対し、内村鑑三はどのように立ち向かったのか。聖書学の視点から、その聖書読解と現実との関わり、現代的射程を問う著者畢生の書。

レビュー

  • 歴史的、神学的、哲学的聖書解釈が一人の中で協力しあう

    副題にある「危機の時代」には、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、関東大震災が含まれる。 内村ははじめ「義戦論」を唱えた。のちに非戦論に転じたのではあるが。内村はまた、関東大震災は「天譴」つまり天罰であると論じた。 これらは内村の問題思想と見做す人も少なくないが、関根清三さんは、これらをたんじゅんに非難も承認もせず、内村の非を非、限界を限界としつつも、その思想に宿る可能性をも探求する。 本書では、イエスと日本の二つのJのためという切り口から内村の生涯を略述したのち・・・ただし、「日本のため」とは右翼的な愛国主義のことではなく、この社会やそこに生きる人々においてと関根は解釈する・・・第二章「新約聖書読解と戦争論」、第三章「旧約聖書読解と震災論」において、上述の点が論じられる。その際、内村の聖書解釈が百から数百字単位で頻繁に引用される。内村の文章は硬質ではあるが難解ではない。情熱的である。 内村の聖書解釈は不変ではなく、むしろ、時間とともに変わっていく。あるいは、一見矛盾するいくつかの解釈を同時に持つ。 「聖書の贖罪・再臨叙述をそのまま受け入れる側面と、その直解主義を排して神的愛を指し示す読み解く側面と、言わば両面の相補的緊張関係を保持していた」(p.204)。 現代の牧師の中には、内村のこれと同じ事態を内に抱えている者も少なくないのではなかろうか。 内村をこのような聖書読解に導いたのは、とうぜん、神学だけでなく、現代聖書学(歴史的批判的聖書解釈)とスピノザのごとき哲学である。 「信仰的解釈はもとより哲学的解釈も、聖書に対して主体的に過ぎる読み込みをし得るという短所を有する。それに対し、そうした主体的な読み込みに歯止めを掛けるのが、歴史的批判的解釈の長所であり、その客観的な読み取りの作業であるはずなのである。逆に言えば、客観的な読み取りに反しない限り、人は主体的な読み込みを大胆にしていけない謂れはなく、それこそが却って聖書を現代に豊穣化し蘇生させることにほかならない」(p.314)。 これは、関根自身がこれまでの著述で示してきた聖書読解であろう。 上で「主体的に過ぎる読み込み」と言われているものは「主観的に過ぎる読み込み」とも言えよう。そして、「主観的に過ぎる読み込み」が教会の中で固定化し教義の位置を得て「主観的に過ぎる」ことが忘れられることがある。主観は真理の座を主張したがる。 歴史的批判的解釈はそのことを教えてくれる。それによって、わたしたちは、「過ぎる」ことはないが、教義に押し付けられない主体的な聖書読解をすることができるだろう。 コロナ禍で、新自由主義支配下で、貧困と自然略奪による人間と地球の危機下で、反知性主義のファシズム横行下で、孤独と死の不安の中でわたしたちは、主体的に聖書を読み返したい。

  • 良い内容の本でした。

    内村のことが、これほどバランス良く書かれた本に始めて出会えた。

  • 聖書研究にこそ、内村鑑三の真髄がある。

    内村鑑三は近代日本のキリスト教界の巨人であり、大勢のキリスト者を育てたが、著者の関根清三氏は父関根正雄を介してその系統に属するキリスト者である。 「代表的日本人」などの内村の著作がひろく読まれている一方、彼の聖書研究のほとんどは全集のなかに埋もれた状態にあり、現代の聖書学に照らして古びたものと見なされることさえある。 旧約聖書学の泰斗である著者は、聖書全般をカバーする広範な見識のうえに立って、「聖書の読解」にこそ内村の真骨頂はあったと主張する。内村の十戒解釈を高く評価した著者の次の言葉は、聖書の読解全体に広げてもよいだろう。 「聖書学が徒に斥ける信仰的価値を中心に据えつつ、逆に牧師の説教がややもすると陥りがちな、学的合理性を無視した信仰的牽強付会に行くのではなく、理性と信仰、学問と牧会の見事な融合である……」 こうした見方は、著者が「贖罪信仰に立つキリスト者の立場と、それをクリティカルに揺さぶろうとする思想研究者の立場と、両面を持つ」ことからもたらされたものだ。 この本の構成は、内村の聖書研究や評論、日記の本文を引用し、それにたいする著者の注釈や見解を羅列するという風なありきたりのものではない。日清、日露、第一次大戦における内村の義戦論から非戦論への揺らぎと変更、関東大震災における天譴論に目を向け、それらの根底にあると思われる考えをしめす箇所を聖書研究から選び出すというやり方である。 これは野心的ではあるが、難しい隘路を著者は自らに課したのではないか。というのは、内村の非戦論も天譴論も、必ずしも多くの日本人が共感するものではない。そうした逆風の中で著者の筆はキリスト者の身びいきに傾くことなく極めて公正である。 内村の戦争や天災をめぐる言論をそのままでは認められないとしつつ、甦生の道を示唆するのである。著者自身の倫理思想である「所奪論」などと重ね合わせて、内村の聖書研究は哲学的解釈というべき高みにあったと言う。 「内村の文章は、既に簡にして要を得、その上要約しては妙味が失われる」からと、長文の引用が続く。そうした著者の手引きに従いつつ読み進むと、「その堂々たる結構と雄渾の文体」に魅せられていることに気付くだろう。 この作品は第73回毎日出版文化賞、人文・社会部門を受賞した。

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